第11章 廟へ①
文字数 2,964文字
ミシレの湖の岸辺で、睦月は湖面を覗き込んだ。
昨日の砦のある桟橋からは少し離れた湖岸だ。船着き場のないこの辺りには死者の魂は到着しないらしい。午前中の清廉な空気が気持ちいい。
澄んだ水が空の青を映して煌めいている。睦月は生まれてこの方、これほどまでに透明度の高い水を見たことがなかった。誘われるように、そっと湖に指先をつけてみる。切るように冷たいのだろうと思った水は、予想外に温かく、まるい。
背後では、アレクが何やら難し気な表情を浮かべ、姉と話をしている。
「目的地までは、こちらの遣いの方が案内して下さるそうだ」
昨日と同じような黒衣に身を包んだアミローネの声に、睦月は振り返った。
アミローネが、傍らに控えた若い娘を示す。
年齢は15歳くらいだろうか。キラキラとした白金の髪はまっすぐに背中に伸びている。すらりとした肢体に纏った、透明感のある白いスリップドレスの絹の薄さに、目の遣り場に迷った睦月は視線を逸らす。
「皆様を封印の地までお送りいたします。リンとお呼び下さい」
鈴を転がしたような声、とはこういう声を指すのだろう。にこりともせずに告げた声音は、名の通り凛として、よく通った。
「無理を言って申し訳ない。よろしくお願いします」
如才なく微笑を浮かべたアレクに、
「ええ、それでは」
頷いて、リンはそっと水面に手を翳した。
左の手首に填められたガラスが小さく鳴るのに合わせ、ザァッと水面が波立つ。
渦を巻いたその中心に、水底へと続くトンネルが現れた。
「では、こちらへ――道を外れれば世界の狭間に迷い込みます。くれぐれも離れられませぬよう」
リンの言葉に頷き、睦月とアレクは彼女の後に続いて水のトンネルに足を踏み込んだ。
水底へと向かう、どこまでも果てなく伸びているかに見える道を、先頭を行く少女は迷いなく一定の歩調で進み、その後ろにやはり無言のアレクが続く。
先をゆく2人の背をぼんやり眺め、睦月は周囲に目を走らせた。
入り口こそ、渦を巻いた水の間に開いたトンネルのようだったが、それは今や既に消え失せ、碧く霞む水中を地上と同じように歩いているかのようだ――いや、まさにその通りなのだが。
ふと背後を振り返っても、既に地上の光は見えず、次第に暗くなっていく水底へと向かうその道も、睦月の目には映らない。
ただ、濡れも溺れもせずに歩き続けているから、正しい道を歩いているのだろうと考えているだけだ。
そこまで考えて、ふと、睦月は指先を伸ばした。
一見自分たちを包んでいるように見える水は、どこまでが本物なのだろう、そんな素朴な疑問を憶えたのだ。
「――こら」
気配を感じたのか、不意に足を止め、振り向いたアレクの声が睦月の手を止めた。
「もう空間がズレ出してるからな。下手に道を踏み外して帰れなくなっても知らないぞ」
「あ、ごめん」
慌てて手を引っ込めた睦月に苦笑して、アレクは彼に歩調を合わせて歩き出した。
「……睦月。昨日の珠、すぐに使えるように握っておけ」
ついでのように声を潜めて囁かれたそんな言葉に、睦月はきょとんとアレクを見遣る。
「何……」
「――どうかなさいましたか」
背後の気配に気付いたのか、足を止めて振り向いたリンに、いや、とアレクは微笑する。
「好奇心で道に迷いそうだったので、注意したまで」
その言葉に、リンの視線が睦月に向けられる。
「そうですか――お気をつけください」
「あ、すみません」
まっすぐに見つめられ、困惑混じりに謝る睦月の袖口を軽く叩いて、アレクが再び歩き出す。
その後を慌てて追いながら、睦月はシャツの胸元を握るようにつかむ。やけに神妙なアレクの声音が気になった。何かあるのだろうか
――昨日拾った白い珠は、小さな皮袋に入れて首から下げている。それを服の上から握りしめた。
それからどのくらい歩き続けただろう。先を行く少女が不意に足を止めた。
「この先です」
そう言うと、リンは再び前方に手を翳した。
入り口の時と同じように、腕輪の音に共鳴して不意に渦巻いた水の中心に、ぽっかりと丸く空間が開く。
「どうぞ」
少女に促され、アレクが、そして睦月も中に入る。
不思議なことに、そこには思いの外に広い空間が開いていた。
ピラミッドの玄室のような、十メートル四方ほどのガランとした石造りの空間の中心に、黒曜石を思わせる石の棺が安置されていた。
目を瞬きながらその光景を見遣る睦月の傍らで、アレクは眉を顰めて室内を見渡す。
手入れが行き届いている証拠だろうか、塵一つないどころか、数千年、いや数万年も前に作られたようにはとても見えない。
「――ご覧の通り、荒らされてはおりません」
静謐そのものの空気を、少女の声が揺らす。
「これ以上中に入られれば、封印が乱れますゆえ」
そう言って、リンがゆっくりと踵を返す。戻れということか。
少女の動きにつられて、睦月も出口へ向き直った。その時だった。
「睦月、ちょっと待て」
彼女の後について戻ろうとした睦月を小声で制し、アレクが不意に少女の腕を掴む。驚いて振り返る少女をアレクは無言で見下ろした。
「――何を」
きっと振り向いたリンの腕を掴んだまま、平然とアレクは笑う。
「本物の遣いはどうした?」
怒りか、あるいは屈辱か。
冷たいアレクの言葉に、少女の白い頬にさっと朱が散った。
突然に、可憐な少女が憎々しげな表情を浮かべた、その表情の壮絶さに睦月は息を呑む。
「何を無礼な――血迷われたか?」
「いいや。血迷ってなんかないさ」
飄々と肩をすくめ、アレクは笑う。
「荒らされてないって――、そう言ったよな?」
そう言うとアレクは睦月に視線を向ける。
「睦月。ちょっとあの棺を見てきてくれるか?」
「え」
「――ならぬ!」
睦月が戸惑いがちな視線を棺に向けるよりも早く、少女が吠えた。
「棺に近寄るな!」
「なぜだ? 幽界からの書面には自由に状況を確認しろと書かれていたぞ。ただの遣いが上の命を違えるのか?」
少女の頬が真っ赤に染まる。
アレクを機っと睨み上げた、その端正な面に明確な憎悪が浮かぶ。
「上の連中は、ここの封印が破られたことを知ってたぞ。だから、俺がここに来る許可を出したんだ。あんたが本物の遣いなら、それを知らない道理はないだろう?」
「…………どういうこと?」
睦月の問いに、アレクは肩を竦める。
「昨日届いた書面には、ここの封印が何者かに破られたことが明記されてたってこと。俺にここに来る許可を与える代わりに、犯人を捜せとさ」
簡単に言ってくれるよな、と言いながら、アレクは傍らの少女を眺める。
「こんな誰の目にも届かない場所の空き巣なんて事案、どうやって捜査しようか悩んでたんだが、まさかこんなに簡単に引っかかるとはな。おかげで手間が省けたよ」
ふっと笑われ、怒りで少女の顔がさらに赤く染まる。それだけで人を殺せそうなほど憎しみのこもった視線をアレクは柳に風と受け流す。
「でも、それなら知らん顔してればよかったのに、どうしてわざわざ?」
「さあな。まあ何にしろ――」
曖昧に語尾を濁らせると、そこで再び、アレクはリンに冷たい視線を送った。捕まれた腕を振り解こうともがきながら、眦をきっと吊り上げ、リンはアレクを睨み付ける。
だが彼は、人も殺せそうなその視線を冷ややかに跳ね返した。
昨日の砦のある桟橋からは少し離れた湖岸だ。船着き場のないこの辺りには死者の魂は到着しないらしい。午前中の清廉な空気が気持ちいい。
澄んだ水が空の青を映して煌めいている。睦月は生まれてこの方、これほどまでに透明度の高い水を見たことがなかった。誘われるように、そっと湖に指先をつけてみる。切るように冷たいのだろうと思った水は、予想外に温かく、まるい。
背後では、アレクが何やら難し気な表情を浮かべ、姉と話をしている。
「目的地までは、こちらの遣いの方が案内して下さるそうだ」
昨日と同じような黒衣に身を包んだアミローネの声に、睦月は振り返った。
アミローネが、傍らに控えた若い娘を示す。
年齢は15歳くらいだろうか。キラキラとした白金の髪はまっすぐに背中に伸びている。すらりとした肢体に纏った、透明感のある白いスリップドレスの絹の薄さに、目の遣り場に迷った睦月は視線を逸らす。
「皆様を封印の地までお送りいたします。リンとお呼び下さい」
鈴を転がしたような声、とはこういう声を指すのだろう。にこりともせずに告げた声音は、名の通り凛として、よく通った。
「無理を言って申し訳ない。よろしくお願いします」
如才なく微笑を浮かべたアレクに、
「ええ、それでは」
頷いて、リンはそっと水面に手を翳した。
左の手首に填められたガラスが小さく鳴るのに合わせ、ザァッと水面が波立つ。
渦を巻いたその中心に、水底へと続くトンネルが現れた。
「では、こちらへ――道を外れれば世界の狭間に迷い込みます。くれぐれも離れられませぬよう」
リンの言葉に頷き、睦月とアレクは彼女の後に続いて水のトンネルに足を踏み込んだ。
水底へと向かう、どこまでも果てなく伸びているかに見える道を、先頭を行く少女は迷いなく一定の歩調で進み、その後ろにやはり無言のアレクが続く。
先をゆく2人の背をぼんやり眺め、睦月は周囲に目を走らせた。
入り口こそ、渦を巻いた水の間に開いたトンネルのようだったが、それは今や既に消え失せ、碧く霞む水中を地上と同じように歩いているかのようだ――いや、まさにその通りなのだが。
ふと背後を振り返っても、既に地上の光は見えず、次第に暗くなっていく水底へと向かうその道も、睦月の目には映らない。
ただ、濡れも溺れもせずに歩き続けているから、正しい道を歩いているのだろうと考えているだけだ。
そこまで考えて、ふと、睦月は指先を伸ばした。
一見自分たちを包んでいるように見える水は、どこまでが本物なのだろう、そんな素朴な疑問を憶えたのだ。
「――こら」
気配を感じたのか、不意に足を止め、振り向いたアレクの声が睦月の手を止めた。
「もう空間がズレ出してるからな。下手に道を踏み外して帰れなくなっても知らないぞ」
「あ、ごめん」
慌てて手を引っ込めた睦月に苦笑して、アレクは彼に歩調を合わせて歩き出した。
「……睦月。昨日の珠、すぐに使えるように握っておけ」
ついでのように声を潜めて囁かれたそんな言葉に、睦月はきょとんとアレクを見遣る。
「何……」
「――どうかなさいましたか」
背後の気配に気付いたのか、足を止めて振り向いたリンに、いや、とアレクは微笑する。
「好奇心で道に迷いそうだったので、注意したまで」
その言葉に、リンの視線が睦月に向けられる。
「そうですか――お気をつけください」
「あ、すみません」
まっすぐに見つめられ、困惑混じりに謝る睦月の袖口を軽く叩いて、アレクが再び歩き出す。
その後を慌てて追いながら、睦月はシャツの胸元を握るようにつかむ。やけに神妙なアレクの声音が気になった。何かあるのだろうか
――昨日拾った白い珠は、小さな皮袋に入れて首から下げている。それを服の上から握りしめた。
それからどのくらい歩き続けただろう。先を行く少女が不意に足を止めた。
「この先です」
そう言うと、リンは再び前方に手を翳した。
入り口の時と同じように、腕輪の音に共鳴して不意に渦巻いた水の中心に、ぽっかりと丸く空間が開く。
「どうぞ」
少女に促され、アレクが、そして睦月も中に入る。
不思議なことに、そこには思いの外に広い空間が開いていた。
ピラミッドの玄室のような、十メートル四方ほどのガランとした石造りの空間の中心に、黒曜石を思わせる石の棺が安置されていた。
目を瞬きながらその光景を見遣る睦月の傍らで、アレクは眉を顰めて室内を見渡す。
手入れが行き届いている証拠だろうか、塵一つないどころか、数千年、いや数万年も前に作られたようにはとても見えない。
「――ご覧の通り、荒らされてはおりません」
静謐そのものの空気を、少女の声が揺らす。
「これ以上中に入られれば、封印が乱れますゆえ」
そう言って、リンがゆっくりと踵を返す。戻れということか。
少女の動きにつられて、睦月も出口へ向き直った。その時だった。
「睦月、ちょっと待て」
彼女の後について戻ろうとした睦月を小声で制し、アレクが不意に少女の腕を掴む。驚いて振り返る少女をアレクは無言で見下ろした。
「――何を」
きっと振り向いたリンの腕を掴んだまま、平然とアレクは笑う。
「本物の遣いはどうした?」
怒りか、あるいは屈辱か。
冷たいアレクの言葉に、少女の白い頬にさっと朱が散った。
突然に、可憐な少女が憎々しげな表情を浮かべた、その表情の壮絶さに睦月は息を呑む。
「何を無礼な――血迷われたか?」
「いいや。血迷ってなんかないさ」
飄々と肩をすくめ、アレクは笑う。
「荒らされてないって――、そう言ったよな?」
そう言うとアレクは睦月に視線を向ける。
「睦月。ちょっとあの棺を見てきてくれるか?」
「え」
「――ならぬ!」
睦月が戸惑いがちな視線を棺に向けるよりも早く、少女が吠えた。
「棺に近寄るな!」
「なぜだ? 幽界からの書面には自由に状況を確認しろと書かれていたぞ。ただの遣いが上の命を違えるのか?」
少女の頬が真っ赤に染まる。
アレクを機っと睨み上げた、その端正な面に明確な憎悪が浮かぶ。
「上の連中は、ここの封印が破られたことを知ってたぞ。だから、俺がここに来る許可を出したんだ。あんたが本物の遣いなら、それを知らない道理はないだろう?」
「…………どういうこと?」
睦月の問いに、アレクは肩を竦める。
「昨日届いた書面には、ここの封印が何者かに破られたことが明記されてたってこと。俺にここに来る許可を与える代わりに、犯人を捜せとさ」
簡単に言ってくれるよな、と言いながら、アレクは傍らの少女を眺める。
「こんな誰の目にも届かない場所の空き巣なんて事案、どうやって捜査しようか悩んでたんだが、まさかこんなに簡単に引っかかるとはな。おかげで手間が省けたよ」
ふっと笑われ、怒りで少女の顔がさらに赤く染まる。それだけで人を殺せそうなほど憎しみのこもった視線をアレクは柳に風と受け流す。
「でも、それなら知らん顔してればよかったのに、どうしてわざわざ?」
「さあな。まあ何にしろ――」
曖昧に語尾を濁らせると、そこで再び、アレクはリンに冷たい視線を送った。捕まれた腕を振り解こうともがきながら、眦をきっと吊り上げ、リンはアレクを睨み付ける。
だが彼は、人も殺せそうなその視線を冷ややかに跳ね返した。