6.路地で①
文字数 1,769文字
週末の繁華街は、深夜でも人の流れが絶えることがない。
けばけばしいほど鮮やかなネオンが照らしだす街路には、酔っぱらいやカップル、客引きなど、種々雑多な人々の思惑が交錯する。
そんな夜の街の片隅を、林田亮介はひとりで歩いていた。
身体にまとわりつく蒸し暑さが、梅雨が近づいていることを感じさせる。ただでさえ沈みがちな気分が、一層重くなりそうで、鬱陶しいことこの上ない。
「お兄サン、ウチの店ドウ?」
「そんな金ねえよ」
独特のイントネーションで話しかけてきた外国人の客引きを、軽く手を振る仕草で追い払うと、亮介は次々に寄ってくる客引きから逃げるように、角を曲がった。
「――」
だが細い路地に入った途端、亮介ははっと息を呑み、足を止めた。
どこもかしこも人工的な光に彩られた街の中で、その場所だけは本来の夜の色に沈んでいた。ほんの十数メートルしか奥行きのない袋小路の突き当たりに、街灯が一本きり。それすら、切れかけた蛍光灯が最後の光を明滅させているだけだ。
人の姿など、当然のようにひとつもない。時折動く影は、猫か。それともネズミだろうか。あれほどしつこかった客引きたちでさえ、亮介がこの路地に入った途端、嘘のように手を引いた。
まるで、そこが禁じられた土地であるかのごとく。触れてはならぬ何かがそこに封 じられているかのごとく。
だが――この場所が以前からこんなに寂しかったわけではないと、亮介は知っている。
ささやかだが明るい看板と、気心の知れた仲間たち。
行き場のない者同士が寄り添うように、いつの間にか集まるようになった、本名も年齢も知らない面々。
約束はなく、決まりもない。それでも、独りが沁みる夜にふらりと立ち寄れば、必ず誰かがいることを皆が知っていた。
この路地は亮介達にとって、打算や保身や大人の世界の約束事、そうした全てに緊張し疲れ切った日常から、唯一開放される場所だった――今や見る影もない、朽ちた楽園。
あの出来事から、まだひと月も経っていない。
なのに、あの穏やかな時間を思い起こさせるのは、もはや見覚えのある建物の影だけだった。
人っ子一人通らない。前後不覚の酔っ払いさえ、何か本能的なものに導かれたかのように、この路地だけは避けて通るようになった。
「…………」
切なさとも哀しさとも、怒りともつかない感情が、喉の奥の方から迫り上がってくる。あの夜以来、亮介は自分の中の悔恨と恐怖に引き留められるように、この場所を避けてきた。それなのに。
ただ、客引きから逃れるためだけに動いた足が、無意識のうちに辿り慣れた道を選んだだけだ。だが、その予期せざる邂逅に、亮介は踵を返すことすら思いつかず、呆然とただ薄暗いだけの空間を見つめた。
「――!?」
その表情が、不意に驚愕と恐怖に強張る。ぼんやりと見つめていた視線の先、シャッターの下りたビルの入り口で、何かが動いたからだ。
猫やネズミではありえない大きさの影。ほとんど用をなさない街灯の光の下で動いたのは、明らかに人の形をした固まりだった。
「あ……」
あの夜に見た光景が、脳裏に蘇る。真っ黒いタールのような人型の。影がそのまま質量を得たかのような、あれ。大きく口を開いて、トオルを呑み込んだ――――
あれは。トオルを食ったあの化け物は、まだここにいたのか。
「う、あ……」
悲鳴を上げて逃げ出したいのに、咽は詰め物をされたように凍り付き、足はガクガクと震えるばかりで動かない。
気配に気づいたのだろうか。人の形をした影の固まりが、こちらを向いた――と思った。
「ひ……ッ」
影が一歩、こちらに向かって足を踏み出す。
大きい。亮介よりも30センチは上背があるだろう。
もう一歩、そしてまた一歩。
――来るな、来るな! 来ないでくれ!
そう思うのに、声が出ない。震える膝が体重を支えきれず、ぺたりと地面に尻餅をついた。
「あ……」
這ってでも逃げようと、尻餅をついたその姿勢のまま、後ろに後ずさりかけたその時。
街灯が、最後の力を振り絞ったかのように、唐突に明るさを取り戻した。
こちらに向かってきていた人影が、照らし出される。
「――大丈夫か、青年」
「…………」
困ったように眉尻を下げ、亮介に向かって片手を差し出したのは、化け物などではなく、やたら流暢な日本語を使う外国人だった。
けばけばしいほど鮮やかなネオンが照らしだす街路には、酔っぱらいやカップル、客引きなど、種々雑多な人々の思惑が交錯する。
そんな夜の街の片隅を、林田亮介はひとりで歩いていた。
身体にまとわりつく蒸し暑さが、梅雨が近づいていることを感じさせる。ただでさえ沈みがちな気分が、一層重くなりそうで、鬱陶しいことこの上ない。
「お兄サン、ウチの店ドウ?」
「そんな金ねえよ」
独特のイントネーションで話しかけてきた外国人の客引きを、軽く手を振る仕草で追い払うと、亮介は次々に寄ってくる客引きから逃げるように、角を曲がった。
「――」
だが細い路地に入った途端、亮介ははっと息を呑み、足を止めた。
どこもかしこも人工的な光に彩られた街の中で、その場所だけは本来の夜の色に沈んでいた。ほんの十数メートルしか奥行きのない袋小路の突き当たりに、街灯が一本きり。それすら、切れかけた蛍光灯が最後の光を明滅させているだけだ。
人の姿など、当然のようにひとつもない。時折動く影は、猫か。それともネズミだろうか。あれほどしつこかった客引きたちでさえ、亮介がこの路地に入った途端、嘘のように手を引いた。
まるで、そこが禁じられた土地であるかのごとく。触れてはならぬ何かがそこに
だが――この場所が以前からこんなに寂しかったわけではないと、亮介は知っている。
ささやかだが明るい看板と、気心の知れた仲間たち。
行き場のない者同士が寄り添うように、いつの間にか集まるようになった、本名も年齢も知らない面々。
約束はなく、決まりもない。それでも、独りが沁みる夜にふらりと立ち寄れば、必ず誰かがいることを皆が知っていた。
この路地は亮介達にとって、打算や保身や大人の世界の約束事、そうした全てに緊張し疲れ切った日常から、唯一開放される場所だった――今や見る影もない、朽ちた楽園。
あの出来事から、まだひと月も経っていない。
なのに、あの穏やかな時間を思い起こさせるのは、もはや見覚えのある建物の影だけだった。
人っ子一人通らない。前後不覚の酔っ払いさえ、何か本能的なものに導かれたかのように、この路地だけは避けて通るようになった。
「…………」
切なさとも哀しさとも、怒りともつかない感情が、喉の奥の方から迫り上がってくる。あの夜以来、亮介は自分の中の悔恨と恐怖に引き留められるように、この場所を避けてきた。それなのに。
ただ、客引きから逃れるためだけに動いた足が、無意識のうちに辿り慣れた道を選んだだけだ。だが、その予期せざる邂逅に、亮介は踵を返すことすら思いつかず、呆然とただ薄暗いだけの空間を見つめた。
「――!?」
その表情が、不意に驚愕と恐怖に強張る。ぼんやりと見つめていた視線の先、シャッターの下りたビルの入り口で、何かが動いたからだ。
猫やネズミではありえない大きさの影。ほとんど用をなさない街灯の光の下で動いたのは、明らかに人の形をした固まりだった。
「あ……」
あの夜に見た光景が、脳裏に蘇る。真っ黒いタールのような人型の。影がそのまま質量を得たかのような、あれ。大きく口を開いて、トオルを呑み込んだ――――
アレ
。あれは。トオルを食ったあの化け物は、まだここにいたのか。
「う、あ……」
悲鳴を上げて逃げ出したいのに、咽は詰め物をされたように凍り付き、足はガクガクと震えるばかりで動かない。
気配に気づいたのだろうか。人の形をした影の固まりが、こちらを向いた――と思った。
「ひ……ッ」
影が一歩、こちらに向かって足を踏み出す。
大きい。亮介よりも30センチは上背があるだろう。
もう一歩、そしてまた一歩。
――来るな、来るな! 来ないでくれ!
そう思うのに、声が出ない。震える膝が体重を支えきれず、ぺたりと地面に尻餅をついた。
「あ……」
這ってでも逃げようと、尻餅をついたその姿勢のまま、後ろに後ずさりかけたその時。
街灯が、最後の力を振り絞ったかのように、唐突に明るさを取り戻した。
こちらに向かってきていた人影が、照らし出される。
「――大丈夫か、青年」
「…………」
困ったように眉尻を下げ、亮介に向かって片手を差し出したのは、化け物などではなく、やたら流暢な日本語を使う外国人だった。