26.転章
文字数 2,074文字
その邸の中は、ひどく閑散としていた。
贅を尽くした煌びやかな玄関ホールにも、邸内を通る廊下にも人の姿はほとんど無い。ただ僅かに、厨房に数名の使用人がいるだけだ。だがその僅かな者たちの顔色は冴えず、誰もが黙って下を見ながら手だけを動かしている。
その時、カァーンという高い音が邸内に響いた。ビクリと使用人達が身を強ばらせる。
独特なその音は、主人の部屋からの呼び出しである事を示すものだ。彼らは互いに顔を見合わせながら、顔をさらに引き攣らせた。
誰一人、率先して動こうとする者はない。数刻前に客人が訪れていることを知っているから、なおさらだ。
そこに、二回目の音が鳴る。先程よりも高く強く、苛立ちを露わにするようなその音に、再度視線を交わした後に、一人のメイドが渋々動き出した。他の使用人よりも少し年嵩のその女は、目を伏せたまま音を立てずに足を進めて廊下を進む。
程なく、二階の一室まで辿り着いた女は、意を決したように声を発した。
「……お呼びでしょうか」
「入れ」
待ちかねたらしい神経質な声音に、ピクリと肩を揺らしながら、メイドはそっと扉を開いた。
来客用のソファセットに、男が二人、向かい合わせに腰を下ろしている。片方はこの邸の主人、もう一人は時折訊ねてくる客だ。
「遅かったな」
「申し訳ございません。晩餐の下準備で手が汚れておりましたもので……」
目を伏せ、メイドは早口でそう言った。本来、厨房の仕事は自分たちの業務ではない。だが、先の主人から代替わりして以降、使用人の数は日に日に減っていくばかりだ。
「まあ、いいじゃないか。彼らも忙しいんだろう」
ねえ? と、客の男が微笑みかける。色の薄いサングラス越しの視線に、思わずビクリとしたメイドを眺め遣り、男は立ち上がった。
「さてと、用件は済んだことだし、おいとましようかな」
「客人をお送りしろ」
「……ご案内いたします」
俯いたままそう告げて、女は先に立って歩き出す。廊下は灯りを点しているにもかかわらず、どこか薄暗く感じられた。
「それにしても、この邸も寂しくなったもんだね。以前はもっと使用人もいたように思うが、何かあったのかい」
「……私は最近雇われたばかりですので」
小さくそれだけを返す。いや、それが精一杯だった。恐怖が足下からせり上がってくる。
女は、数年前まではこの邸で働いていたが、戻ってきたのはほんの半月ほど前だ。日に日に使用人が辞めていくと、かつての同僚から乞われてやむなく戻ってきたが、ここまで荒れ果てているとは思わなかった。
数少ない使用人達は誰もが息を殺すようにして動き、少しの物事にもビクリと肩を震わせる。邸の中はどこも薄暗く、特に主の部屋の周囲は昼でさえ灯りがついているとも思えぬ程に暗い。その暗がりはなぜかいつも、蠢いているような錯覚を与える――まるで小さな小さな黒い虫の集まりであるかのように。
男の言うとおり、昔はこんな風ではなかった。多くの使用人を抱え、商人の出入りも絶えない華やかな邸の様子を、女は思い出す。
使用人の扱いは良いとは言えなかったが、それを耐え忍べるだけの給料は保障されていた。だが、6年前。ある日を境に、状況が変わった。家内は荒れ、商人達の出入りも減り、使用人も少しずつ口減らしされていった。女が辞めたのもその頃だ。
「へえ、そうなんだ。またどうして」
「…………娘が近々、結婚しますので」
退職したとはいえ近隣に居を構えているから、風の噂である程度状況は聞いていた。だから、復職を乞われた時も正直なところ躊躇した。それでもなおここに戻ってきたのは――噂など足下にも及ばぬ惨状におかれてもなお働いているのは、ひとえに娘の結婚資金のためだ。半年後に式を挙げる一人娘に、少しでも良いものを持たせてやりたい。その一念だけが、夜ごと逃げ出したくなる己を戒めていた。
「そりゃ、めでたい」
男がそう言った時、ちょうど玄関に辿り着く。女は扉を開くとその脇に身体を避け、頭を下げた。
「ではね、お嬢さんにもよろしく」
男がそう言って目の前を通り過ぎていくのを、頭を下げたまま見送る。足下に伸びる男の影もまた、小虫の群れのように蠢いているようで、女は極力視線を逸らす。
「――ひとつだけ」
玄関を通り過ぎたところで、男がそう言って立ち止まった。その声が、それまでとは少し異なっているように聞こえて、女はゆっくりと顔を上げた。
男は振り返らない。玄関ポーチの灯りを真上から浴びて、男の足下からは影が消えていた。
「結婚を祝いたいなら、ここを出ていった方が良い。なるべく早く、今夜にでも」
聞き取れないほどに小さな声が、早口でそう言った。
「は――」
それはどういう意味か。問いかけようとするよりも早く、男が次の一歩を踏み出す。灯りの輪から外れたその足下で、再び影がざわりと蠢く。
「何か、言ったか」
男が肩越しにこちらを振り返る。サングラス越しの視線が向けられるよりも早く、女は礼を取った。
「いえ……またのお越しを」
立ち去る男の背が夕闇に溶けていくまで、女はじっとその場で堪えた。
贅を尽くした煌びやかな玄関ホールにも、邸内を通る廊下にも人の姿はほとんど無い。ただ僅かに、厨房に数名の使用人がいるだけだ。だがその僅かな者たちの顔色は冴えず、誰もが黙って下を見ながら手だけを動かしている。
その時、カァーンという高い音が邸内に響いた。ビクリと使用人達が身を強ばらせる。
独特なその音は、主人の部屋からの呼び出しである事を示すものだ。彼らは互いに顔を見合わせながら、顔をさらに引き攣らせた。
誰一人、率先して動こうとする者はない。数刻前に客人が訪れていることを知っているから、なおさらだ。
そこに、二回目の音が鳴る。先程よりも高く強く、苛立ちを露わにするようなその音に、再度視線を交わした後に、一人のメイドが渋々動き出した。他の使用人よりも少し年嵩のその女は、目を伏せたまま音を立てずに足を進めて廊下を進む。
程なく、二階の一室まで辿り着いた女は、意を決したように声を発した。
「……お呼びでしょうか」
「入れ」
待ちかねたらしい神経質な声音に、ピクリと肩を揺らしながら、メイドはそっと扉を開いた。
来客用のソファセットに、男が二人、向かい合わせに腰を下ろしている。片方はこの邸の主人、もう一人は時折訊ねてくる客だ。
「遅かったな」
「申し訳ございません。晩餐の下準備で手が汚れておりましたもので……」
目を伏せ、メイドは早口でそう言った。本来、厨房の仕事は自分たちの業務ではない。だが、先の主人から代替わりして以降、使用人の数は日に日に減っていくばかりだ。
「まあ、いいじゃないか。彼らも忙しいんだろう」
ねえ? と、客の男が微笑みかける。色の薄いサングラス越しの視線に、思わずビクリとしたメイドを眺め遣り、男は立ち上がった。
「さてと、用件は済んだことだし、おいとましようかな」
「客人をお送りしろ」
「……ご案内いたします」
俯いたままそう告げて、女は先に立って歩き出す。廊下は灯りを点しているにもかかわらず、どこか薄暗く感じられた。
「それにしても、この邸も寂しくなったもんだね。以前はもっと使用人もいたように思うが、何かあったのかい」
「……私は最近雇われたばかりですので」
小さくそれだけを返す。いや、それが精一杯だった。恐怖が足下からせり上がってくる。
女は、数年前まではこの邸で働いていたが、戻ってきたのはほんの半月ほど前だ。日に日に使用人が辞めていくと、かつての同僚から乞われてやむなく戻ってきたが、ここまで荒れ果てているとは思わなかった。
数少ない使用人達は誰もが息を殺すようにして動き、少しの物事にもビクリと肩を震わせる。邸の中はどこも薄暗く、特に主の部屋の周囲は昼でさえ灯りがついているとも思えぬ程に暗い。その暗がりはなぜかいつも、蠢いているような錯覚を与える――まるで小さな小さな黒い虫の集まりであるかのように。
男の言うとおり、昔はこんな風ではなかった。多くの使用人を抱え、商人の出入りも絶えない華やかな邸の様子を、女は思い出す。
使用人の扱いは良いとは言えなかったが、それを耐え忍べるだけの給料は保障されていた。だが、6年前。ある日を境に、状況が変わった。家内は荒れ、商人達の出入りも減り、使用人も少しずつ口減らしされていった。女が辞めたのもその頃だ。
「へえ、そうなんだ。またどうして」
「…………娘が近々、結婚しますので」
退職したとはいえ近隣に居を構えているから、風の噂である程度状況は聞いていた。だから、復職を乞われた時も正直なところ躊躇した。それでもなおここに戻ってきたのは――噂など足下にも及ばぬ惨状におかれてもなお働いているのは、ひとえに娘の結婚資金のためだ。半年後に式を挙げる一人娘に、少しでも良いものを持たせてやりたい。その一念だけが、夜ごと逃げ出したくなる己を戒めていた。
「そりゃ、めでたい」
男がそう言った時、ちょうど玄関に辿り着く。女は扉を開くとその脇に身体を避け、頭を下げた。
「ではね、お嬢さんにもよろしく」
男がそう言って目の前を通り過ぎていくのを、頭を下げたまま見送る。足下に伸びる男の影もまた、小虫の群れのように蠢いているようで、女は極力視線を逸らす。
「――ひとつだけ」
玄関を通り過ぎたところで、男がそう言って立ち止まった。その声が、それまでとは少し異なっているように聞こえて、女はゆっくりと顔を上げた。
男は振り返らない。玄関ポーチの灯りを真上から浴びて、男の足下からは影が消えていた。
「結婚を祝いたいなら、ここを出ていった方が良い。なるべく早く、今夜にでも」
聞き取れないほどに小さな声が、早口でそう言った。
「は――」
それはどういう意味か。問いかけようとするよりも早く、男が次の一歩を踏み出す。灯りの輪から外れたその足下で、再び影がざわりと蠢く。
「何か、言ったか」
男が肩越しにこちらを振り返る。サングラス越しの視線が向けられるよりも早く、女は礼を取った。
「いえ……またのお越しを」
立ち去る男の背が夕闇に溶けていくまで、女はじっとその場で堪えた。