8.Hayati Asena

文字数 1,995文字

 彼がその記述に出会ったのは、様々な文献資料を渉猟している最中だった。
 彼は元々、歴史学者だった。精界の歴史は長いが、その中には極めて史料の少ない空白期がある。それが、セルノの乱前後の混乱期だ。

 セルノが3つの世界を巻き込んで起こした数百年間の乱世。その期間の歴史資料は、あるものは戦火に焼かれ、あるものは改ざんされ、またあるものは別の世界に紛れ込んだ。
 特に、セルノの乱が終結した後、幽界の門が鎖されたことが大きい。全てを知るはずの継承者や幽界の者たち、精霊たちは、一部を除いて幽界へと戻り、それ以降、精界にも人界にも滅多に現れない。多くの資料も、その時に幽界へと持ち去られたのだと言われている。
 人界の史料でも、「神々」が姿を現したという記述がぱったりと途絶えるのは、この時期以降のことである。

 そのため、半ば伝説と化した物語を除いて、その時代を知ることのできる史料は極めて少ない。今知られている精界の歴史は、セルノの乱が収束し、現在の精界の体制が確立して以降のものが中心だ。
 その失われた空白の歴史について、できるだけの資料を集め、全体像を把握することが彼の目標だった。幸い、彼は「闇の者」だった。セルノの乱の後、早々に自分たちの領域へと退いた「闇」の領域には、古い史料が残されている場合が多い。特に最奥、暗く深い樹海の手前に当たる極東地域には、当時セルノと関わっていた者たちの末裔が多く暮らしているといわれる。
 彼らは排他性が強く、他の地域との接触も少ない。そのため言葉にしろ慣習にしろ、古い時代の名残を色濃く残しているという話だった。同族であってもよそ者には警戒心の強いそれらの地域を渡り歩き、粘り強い交渉の後に古い史料や古老の口伝を発掘しては、それを書き留めていく。

 嵯峨と出会ったのは、そんな日々を送っていた時だ。
 ああいうのを烏の濡れ羽色というのだろうか、艶のある美しい黒髪の女だった。「闇」の生活域の最も奥の――最も排他的な――地域から来たというその女は、彼に調べてもらいたい資料があると言い、彼は一も二もなくその依頼を受けた。

 今思えば、その時点で疑うべきだったのだろう。
 だが、その時の彼には疑念を抱く余地などなかった。女が口にしたのは、これまで何度も門前払いされてきた地域だったからだ。
 同族である「闇の者」にすら実在を疑われるほど、その一族は外部との接触を断ってきた――ということは、そこには未知の史料が数多く眠っている可能性がある。話が美味すぎるという疑いなど、未知の史料に対する好奇心の前では、野辺の草よりも無力だった。

 嵯峨から渡された資料は、セルノの言行録のようなものだった。おそらく彼の近くにいた者たちのひとりが記録していたものだろう。紙の材質・製法、記述の語法に至るまで全て、明らかにセルノの乱の時期に作成されたものであることに疑いの余地はなかった。
 だがそれらの資料を読み進める内に、彼は資料の中に隠された記述の存在に気づいた。一見、空白に見えるページに隠されていたそれは、資料を陽光に当てなければ読むことができないように細工されていた。
 元々、光をあまり好まない「闇の者」の中でも、深い樹海の奥に暮らしている一族が所有する資料だ。しかも歴史的な資料というのは元来、できるだけ光を当てないように保管されるものである。
 つまり光を当てなければ読めない細工がなされているということは、そこには念入りに隠蔽されるべき記述があるということだ。

 実際、そこにあったのは――――

「…………」
 空になったグラスを置いて、「マスター」と呼ばれるその男は溜息を吐いた。
 小さなキッチンの小さな電球以外、全ての照明を落としたリビングには、彼の他に人影はない。壁の時計は、間もなく5時になろうとしている。物思いにふけっている内に、夜が明けてしまったらしい。
「胤……か」
 はああ、と再び重々しい溜息を吐いて、男は頭を抱えた。
 まさか、あれを本当に実用化するとは思わなかった――というのは、余りに己に都合の良すぎる言い訳だ。嵯峨(あの女)は、自分たちの倫理観など軽く超越する野心の持ち主だと、自分は知っていたのだから。
 だからこそ――――あらゆる危険を顧みず、自分はあそこから逃げ出したのだ。

 カチャリ、と音がした。
 振り向くと、奥の部屋から少女が顔を出したところだった。
「あら……ユイ、起きたの?」
 彼の声に、少女は一瞬だけこちらに目を向け――無言のまま、トイレへと入っていく。
「……おやすみ」
 ややあって、廊下に戻ってきた少女に声を掛ける。ユイと呼ばれた少女はその声に小さく頷くと、寝室へと静かに戻っていった。

「………………逃げた結果が、このザマだ」
 再び、しんと静まりかえったリビングに、囁きよりも密やかな声が響く。
「責任を――とらないとな」
 呟いたその声に、答える者はなかった。
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