第17章 兄の失踪①

文字数 3,166文字

 あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。
 友香は7歳になる少し前だった。
「ただいまー……?」
 学校から帰宅すると、家の中が妙に落ち着かない空気に満ちていた。
「――お父さん?」
 そろりと居間を覗くと、中にいた六人が一度に振り返った。
 養父と、二人の従兄。それに、滅多にこちらに顔を出さない伯父までいる。
「お嬢さんですかな」
 じろりと、検分するような不躾な視線を向けた見知らぬ男たちに、友香はビクリと身体を隠す。
「ええ――友香、おいで」
 養父の手招きに、友香は小走りに父の元に駆け寄ると、その背中に隠れるようにしがみついた。

 知らない人は苦手だ。

 ぎゅっとシャツを握りしめた娘の頭をそっと撫で、義父は彼女に尋ねる。
「友香、最近静生に会ったかい?」
「おにいちゃん? 会ってないよ」
 きょとん、と首を傾げる友香に、嘘の気配はない。
「そうか、ならいいんだ。お父さんはしばらく大事な話があるから、おまえは部屋に行っていなさい」
 義父の声は、普段と変わらず穏やかだったが、その流れに不自然なものを感じ取り、友香は不安に顔を曇らせた。
「おにいちゃんに、何かあったの?」
「――友香。勉強見てやるから、来いよ」
 すかさず声を挟んだのは、二歳年上の従兄で、友香はますます強まる不安に、父と従兄を何度も交互に見遣る。
「行っておいで」
「…………うん」
 言い含めるような父の声に押され、友香は従兄の導くまま、自室に向かった。

 彼女がその事実を知ったのは、それから数時間後のことだった。
「……おにいちゃんが……?」
 見知らぬ男たちが去った居間で、義父の言葉を呆然と友香は繰り返した。
「嘘! 何かの間違いだよ!」
「嘘じゃないんだ」
 静かにそう言い、彼は友香の肩に手を置いた。
「寮の部屋は空になっていた。私も確かめてきたよ」
「嘘だよ……! おにいちゃんがいなくなるはずないもん!」

 友香にとって異父兄は、半分しか血のつながりがなくともたった一人の肉親だった。
 今の家に引き取られるまで、あちこちを点々としながらたった一人で自分を守り続けてくれた兄。「ランブル」の訓練生となり、宿舎に生活の場を移しても、週に一度は自分に会いに帰ってきてくれた。
 誰よりも強い信頼を寄せてきた、その兄が自分を置いていなくなることなど、考えたこともなかった。

 髪と同じ栗色の瞳を涙で潤ませ、痛ましげな義父と従兄たちの視線を振り切るように、少女は足元がふらつくほど強く首を振る。
「信じない……信じないから!」
「友香!」
 バッと義父の手を振り払い、友香は自室に駆け込むと、扉に鍵をかけ、ベッドに潜り込んだ。

「――友香」
 しばらくして扉越しに聞こえたのは、二歳年上の血のつながらない従兄――アレクの声だった。
「そのままで良いから、聞けよ」

 何も聞きたくない。
 頭まで被った布団の中で耳を押さえる少女の耳に、それでも従兄の声は聞こえてくる。

「一昨日さ、静生が俺のところに来たんだ」
「……」
 その言葉に、耳を押さえていた手がゆるむ。
「おまえのことを頼むって言われた」
 淡々と、アレクの声は続ける。
「おかしいとは思ったんだ。けど、理由を訊いても笑って誤魔化された」
「…………」
 扉の内側で友香はじわりとにじむ涙を堪えながら、唇を噛む。
「それから、おまえに渡す物を言付かってる。情報部に知らせると面倒だから言ってない。ここに置いとくから、後で見ろよ」
 コト、と何かが廊下の床に置かれる音がした。
「……俺だって、静生がおまえを置いていくなんて信じられないよ」
 長い沈黙を隔て、ぽつりとアレクが呟いた。
「静生を信じろ。きっとそのうち…………帰ってくる」
 長めに空いた間は、根拠のない励ましを告げることへの躊躇いだったのだろう。
 やがて、足音が廊下を去っていく。
 人の気配が完全になくなるまで十分に間を置いて、友香はそろそろとベッドを抜け出し薄く扉を開いた。
 ピンクのリボンの掛かった、小さな包みが見えた。それに手を伸ばし、再び扉を閉めると、少女は忙しなく包みを解いた。
 小さなテディベアと、銀の細いペンダント。それから小さなメッセージカード。
 震える指先が、カードを摘み上げる。
「友香へ。誕生日おめでとう……」
 綴られていたのは、幼い少女にもそれとわかる別れの言葉。
 カードの文面を読み上げる声が、嗚咽に変わる。
「どうして……っ!?」
 ぼろぼろと大粒の涙を流しながら、少女は兄の自筆のカードを抱きしめる。

 信じられない。
 信じたくない。
 ――信じるしかない。

 足元から世界が崩れ落ちていくような感覚に、床に座り込んだままの足が震える。

「プレゼントなんていらない……帰ってきてよぉ……っ」
 とめどなく溢れる涙を拭うことすらせず、友香は大声で泣き続けた。



 ジューッという音と焦げ臭い匂いに、友香ははっと我に返った。
「あっちゃー……やっちゃった」
 手元のフライパンでは、夕食になるはずだった野菜たちが、見るも無惨な炭に成り果てていた。
 昔を思い出している内に、かなりの時間が経っていたらしい。
「あっつつつ……水よ」
 プスプスと黒い煙を上げるフライパンに手を翳して水を呼ぶと、熱しすぎた黒こげの鉄板は、ジュワーッという凄まじい音とともに白い煙を吹きあげた。
「あーあ、もう」
 冷えて浮かび上がってくる焦げを眺めながら、友香はふう、と溜息を吐いた。

 あの頃――兄が居なくなった事実を受け入れるまで、長い時間が必要だった。
 何よりも、兄が何も言わず、自分を置いていったことがショックだった。

 友香は実の両親を知らない。
 母は、生まれたばかりの自分と幼かった兄を捨てて消えたらしい。
 父に至っては顔どころか名前すら知らない。
 そんな彼女にとって、兄はたったひとつの支えだった。血のつながりは半分しかなくとも、どんな兄妹よりも強い絆で結びついていると、彼女は信じていた。
 その兄に置いて行かれたと思ったとき、友香は奈落の底に突き落とされた気がした。

 何日も部屋にこもり、水も食事も摂らずに衰弱するまで泣き続けた後で、友香は兄の代わりに自分が、彼の目指していた道を辿ろうと決めた。
 その道を辿ることで、兄に何が起きたのかを、その行方を知ることができると考えたからだ。
 今彼女がここにいるのは、その想いを貫いた結果だ。
 
 それなのに。
 とうとう――その兄を疑わねばならない日が来てしまった。

 実を言えば、その可能性を考えたことがないわけではない。公安部の長官に決まったとき、感傷を捨てる覚悟もしたつもりだった。
 それなのに、やはり――心に波が立つのを止められない。

「あー、もう。やめやめ!」
 確証のない現状では、何を考えても堂々巡りになるだけだ。
 溜息を吐いて、友香は水を止める。
「はあ、どうしよ」
 残る僅かな食材のありあわせで、何か作ろうと思えばできないこともない。けれど何となく出鼻を挫かれた気分になって、彼女は溜息を吐いた。
「……食堂ってまだやってたっけ」
 正直なところ食欲も皆無なのだが、武官として訓練と実戦を重ねてきたこの十年余りの日々が、食事をおろそかにすることを許さない。
 食べられるときに食べておかなければ、突発的な事態に動けないという意識が先に立ってしまうからだ。
 
 溜息を吐きながら、友香は戸口へと向かう。
 途中、無意識に寝室の方に視線を映した彼女は、その扉が閉まっていることにほっと息を吐いた。
 寝室に続くドアを開け放した正面の衣装箪笥の上には、あの時兄からもらったクマのぬいぐるみを飾っている。
 辛いときにいつでも彼女を支えてくれたそれを目にすることが――――今は、辛い。

 溜息を吐き、俯いたまま、友香は玄関の扉を開く。
「……あ」
 目の前に黒い壁がある。目を上げ相手の姿を確認して、友香は目を瞬いた。

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