第7章 後悔

文字数 2,629文字

 夢を見た。初めて見る夢だった。
 均等に切り出された石が敷き詰められた床と、やはり均等に並んだ幾本もの柱が壮観な石造りの建造物だ。しかし人の訪いが途絶えて久しいのか、元は光沢があったらしい床はくすんで埃がたまり、柱にも大きなひび割れが目立つ。
 宮の奥へと走る水路もその大半が乾いていたが、最奥にある小さな泉からは、未だ細やかながらも水が湧き出している。その泉のほとりに二人の青年がいた。彼らは人目を避けるように、泉から湧き出した水の溜まった水盤をのぞき込んでいる。
「セルノ、やっぱりやめた方が」
 自分の口から出た声に、睦月はこれもまた、バルドの夢なのだと気付いた。
「ここまで来て臆したのか? 俺たちにだって――いや、俺たちこそ、知るべきことだろう」
 険のある強い口調でそう言って、セルノが自分を睨め上げる。睦月と同じくらいの年頃の青年だ。短く刈り上げた黒髪。銀色にも見えるグレーのきついまなざしは、しかし真剣そのものだった。
 睦月にとって、セルノの姿を正面から見たのはこれが初めてだった。普段の夢では闇の中に溶け込み、どことなく退廃的な空気を漂わせていたセルノとはまるで別人だ。そう思ってはじめて、睦月はこの夢が普段の夢よりもずっと以前の出来事なのだろうと思い至る。まだ若い頃の、決定的に道をたがえてしまう前の彼らなのだ。
「何のために、この忘れられた宮まで来たんだ。真実を――現実を見るためだろう」
 きっぱりとそう言い切るセルノに、みじんも迷いはない。小さく嘆息して、バルドは頷いた。
「わかった……見よう」
 そう言ってのぞき込んだ水面に映るのは、明るい金の髪を後ろでひとつに括った青年の姿だ。ちょうど少年期を脱したばかりの年頃に見える。若き日のバルドなのだろう。
 わずかに緊張した面持ちでセルノが水盤に手をかざす。すると、水面にぼんやりと映像が映し出された。
 どこかの戦場のようだ。激しく入り乱れる騎馬と人とが撃ち合い斬り結び、殺し合う。
 その凄惨な場面を、二人は陰鬱な表情で見つめていた。

 そしてふいに場面が変わる。
 二人は先程と同じ場所にいた。違うのは、二人が水盤を前に言い争っていたことくらいだ。
 ――ああ、そうか。これは、バルドの悔恨だ
 バルドの目から一部始終を眺めながら、睦月は唐突に理解した。
 明らかに変わっていくセルノを誰よりも近くで見ていたのに止めることができなかった――止めなかったことへの後悔。
 睦月は今、夢を通してそれを見ている。いや、おそらくはバルドが睦月に見せているのだろう。そう思った瞬間、ゆっくりと、深海から水面へと浮上するように睦月は覚醒した。

 *

 目覚めるのと、身体がつるりと滑るのはほぼ同時だった。
「――!?」
 急に顔の半分まで水が迫ってきたことに焦って手足をばたつかせる。幸い、それ以上身体が滑ることはなく、浴槽の縁を掴むことができた。
「……あっぶな……」
 浴槽にしがみついた姿勢で、睦月は呟く。入浴中に寝入ってしまったらしい。あと少し目覚めるのが遅かったら、おぼれていたかもしれない。
「……んん?」
 そこまで考えて、睦月は首を傾げる。そう言えば今の自分は魂だけの存在だったはずだ。それでもやはり風呂でおぼれたら死ぬのだろうか。
「もしかして、慌てなくても大丈夫だったかな」
 呟いて、睦月はもう一度手足を伸ばすと立ち上がった。

 そして今、睦月はバルコニーから眼下の夜景を見下ろしながら、ため息をついている。長湯をしている間に、いつの間にか日が傾いていた。暖かな湯にゆっくりと浸かったおかげで、多少は気持ちも落ち着いたようだ。
「……バルド、か」
 呟く。これまでほとんど口に出すことのなかったその名を、今日は何度口にしただろうか。
 いつから彼の夢を見るようになったのか、睦月は覚えていない。そのくらい長い間、バルドとしてセルノを探す夢を見続けてきた。だから、正直なところもう一人の自分のように、その名は体になじんでいる。だがそれがまさか、こんなことになろうとは。
 生まれ変わり説を否定する説明もないわけではない。この一連の出来事全てが夢だと考えれば、それでいい。夢なのだから、突拍子もない展開があったって何の不思議もないと、そう言える。
 だが――。
 睦月は背後を振り返った。ベッドサイドの小さな物入の上に置かれたままの珠を見る。
 日が沈み、辺り一面が薄暗く中で、ビー玉ほどの小さな珠は白い光を放っていた。その光だけで、ベッドルームの中は明かりをつけなくても十分に視界を確保できている。
 睦月の掌に生まれた珠を「命の灯(ルチュルナ・ヴィタエ)」とアレクたちは呼んだ。よく似た――だがもっと大きな――宝玉があるのだという。それもまた、彼らにとっては睦月がバルドの生まれ変わりだという証拠のようだった。それについての説明も、後でと棚上げになったままだ。

 説明を聞いたら、睦月も納得できるのだろうか。
 いやそもそも、自分は納得したいのだろうか――誰かの生まれ変わりだなどという荒唐無稽な話を?

 その時、ベッドルームの扉がノックされた。
「睦月、いるか?」
 アレクの声だ。
「あ――うん、いる」
 慌てて返事をすると、かちゃりとドアが開く。
「――明かりもつけずに……って、意外と明るいな」
 室内をのぞき込んだアレクが白い光を発する珠に視線を向ける。
「なるほど、こいつのおかげか」
「仕事、終わったの?」
「一応な。それより、灯りのつけ方を教えてなかったと気付いたんで、急いできた」
 苦笑交じりに言って、アレクは壁のわきに取りつけられたランプに手を伸ばす。株の横手から飛び出した小さなレバーを引き上げる。カチッというかすかな音とともに、ぽうっと柔らかな明かりが灯った。
「電気……じゃないね、火?」
「ああ。レバーを上げると火花が走るようになってる。アルコールランプだから、それで火が付く」
 意外な仕組みだ。
「こういうのばかり考えるのが一人いてな。この辺りの部屋は大抵、実用化のための実験に使われてる」
 そう言いながら、アレクは睦月を眺めた。
「少し、落ち着いたみたいだな」
「うん、おかげさまで。あ、お風呂借りたよ」
「ああ、好きに過ごしてくれて構わない」
 頷いて、アレクは背後を示す。
「食事でもしながら色々話そう」
 促されるままにリビングの方を覗けば、ダイニングテーブルの上に食事の乗ったトレイが並んでいる。暖かそうな湯気の立った食事から漂う香りに、睦月は唐突に空腹を意識した。

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