22.対峙④

文字数 2,396文字

「――――っ」
 突き当たり、右手の廊下から再び闇が触手を伸ばす。身体を捻ってそれを躱すと、友香は左手――攻撃が来る方角とは反対側――へと飛び込むなり、着地と同時に身体を捻り床を蹴った。
「霧!」
 小さく叫ぶ。その直後、空気中の水分が霧状になり、上下左右から迫り来る闇の触手を浄化していく。その後を追うように廊下を一気に駆け抜ける。その正面に紫月の姿を見つけ、友香は勢いのままに旋棍を握った拳を突き出した。
「!」
 ガッと重い音と共に、攻撃を受け止めた紫月が唸る。その防御姿勢を弾くように下から上へと足を振り上げながら、友香はくるりと中空で身体を捻る。そのまま今度は壁を蹴り、思い切り男の顔面へと旋棍を振り下ろした。間一髪、顔を仰け反らせた紫月のサングラスを武器が掠める。

 カシャァ――ン

 サングラスが床に落ちる音が、静かな廊下に甲高い余韻を響かせた。
「貴ッ様……!」
 押し殺した低い声で、紫月が唸る。
「!!」
 自分を睨み付ける男の素顔を見たその瞬間、友香は静かに目を見開き、タッと後方へと跳んだ。
「……あなた」
 小さく呟き、友香は男の顔を正面から見据えた。静かな緊張感が廊下に充ちる。友香は相手に悟られぬように静かに呼吸を整えた。

 ――……何も考えるな、今は

 自分にそう言い聞かせる。大丈夫、自分はまだ冷静だ。
「――お嬢」
 紫月の背後、屋内階段からレオが姿を現した。だがその場の空気に眉を顰めると、無言のまま静かに針を構える。
「………………」
 前後を敵に挟まれた形になった紫月は、正面に立つ友香の姿に視線を固定する。突破するなら、小娘の方だ。あの素早さは脅威だが、男の方に比べれば攻撃は軽い。数撃を堪えることができれば、突破口を開けるはずだ。
 じり、と足場を固める。問題は、後ろの男だ。娘を突破するために隙を見せた瞬間、背後から攻撃されるだろう。ならば――。
 策を練りながら、不意に紫月は動きを止めた。無意識下の泥濘に、何かが引っかかっている。無意識のさらに奥底、混沌に沈めた筈の宿主の――――

「…………ふうん?」

 紫月の視線が、ひたと友香に向けられる。舐めるような視線に、友香が不快そうに眉を寄せた。
「は…………ッ、成程、そういうことか」
 唐突に、紫月が嗤い声を上げた。ククク、と含み笑いが喉から漏れる。舌舐めずりをするように、嘲笑がその顔を歪めた。
「――


「――!」
 紫月の口から発された名に、友香の表情がほんの一瞬凍りつく。そのごく僅かな反応を見逃すことなく、紫月はにやりと口元を歪めた。
「久しぶりだなあ」
「……」
 親しげな声で、紫月が呼びかける。その背後から、レオが気遣わしげに友香の動向を窺っている。
「どうした? おれだよ、お前の兄だ」
 嘲りに満ちた表情を浮かべたまま、紫月はゆったりと両手を広げ、優しげな声を発する。それを正面からきっと睨み付けて、友香は軽く唇をかんだ。そして――
「……あなたじゃない」
 ゆっくりと、かみしめるように――友香は言った。確固とした、揺るぎない声で。
「何を言ってるんだ、ユウカ。まさか、おれのことを忘れたなんて言わないよな?」
「あなたは、兄さんじゃない」
 もう一度、友香が繰り返す。
「確かに、外見は兄さんにそっくりだけど。けれど、あなたは間違いなく別人よ」
 そう言いながら、友香は手にした旋棍を構えた。
「私はだまされないわ」
 まっすぐに紫月を見据え、友香は断言する。その強い眼差しに、紫月は苛立たしげに舌打ちをした。
「……良いことを教えてやるよ」
 昏い双眸が、友香を射る。口元が、ニマァと嫌らしく引き上げられた。

! 残念だったな!」
「――――ッ!!」
 その言葉の余韻が廊下を渡りきるよりも早く、友香が――同時に、レオも――動いた。
 紫月の高笑いを断ち切るように、鋭い音とともに友香が回し蹴りを放った。だがそれを予期していたのだろう、飛び退きかけた紫月のその動きが、びたりと止まった。
「――ここまでにしてもらおうか」
 紫月の首元に銀色の針を突きつけ、レオは言った。
「……俺を殺した所でこの男は戻らないぞ」
 前後を敵に挟まれ、身動きの取れない状態に陥りながらも、紫月は余裕の表情を浮かべたままだ。
「……そんなことはどうでもいいわ」
 押し殺した低い声で、友香が答える。自分でも思っていた以上に冷静な声が出たことに、ほんの少しだけ驚く。視界の隅ではレオがどこかほっとした様子なのが見えて、友香は微苦笑を浮かべた。
「今の私の任務は、あなたを捕らえることだから」
「いいのか? この男はお前の兄ではないのか?」
「戯れ言はいらんよ」
 紫月の足下の影に針を打ち込み、レオが言った。ポウと光を放つそれは、移動術を阻むためのものだ。
「まあ、ゆっくりとお話を伺おうじゃないか」
「――御免蒙るね」
 いつの間に集めていたのだろうか。にやりと嗤った紫月の手元には、紫がかった闇が凝っていた。それを足下に落とすと、紫色の闇が指月を中心に広がった。
「!」
 咄嗟に距離を空け、レオが膨れ上がる闇に向けて暗器を投げる。だが、らせん状に紫月を取り巻く闇に触れた瞬間、煙を上げて腐食していく様を目撃した友香とレオは飛び退り、結界を張る。

 そして――

「……逃げられたか」
 紫色の闇が消失すると同時に、紫月の姿もまた跡形もなく消え失せた。静けさを取り戻した廊下に、レオの声が響く。
「~~~~~~っ」
 傍らから聞こえた、声とも溜息ともつかない小さな唸りに、レオは年若い同僚に視線を向けた。
「お嬢、大丈夫か?」
 気遣わしげな声に、少し間を置いて「うん」と答えた友香は、何かを振り切るかのように軽く頭を振り、笑顔を浮かべた。
「戻ろ。レイと睦月の方も気になるし。本部にも報告しなくちゃ」
 妙に明るい声音でそう言うと、くるりと踵を返した友香の小さな背を眺め、レオはそっと息を吐いた。
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