第14章 襲撃①
文字数 3,345文字
シャワーを浴びてバスルームから出ると、それを見計らったように電話が鳴りだした。
「おう、どうした?」
『……電話の出方、間違ってるよ』
受話器の向こうから、友香の苦笑混じりの声が聞こえる。
「ばぁか。おまえ以外、こんな時間に電話かけて来る奴なんかいねえよ」
と笑って、ロンはソファに腰を下ろした。
「あの娘のことだろ?」
『うん……どうしてる?』
「あんまりいい状態ではねえな」
髪から滴る水分を乱暴に拭いながら、彼は答えた。
『まだ食べない?』
「いや、少し食べるようにはなったみたいだ。ただどうもショック状態から抜け切れてねえ」
その言葉に、受話器の向こうで友香が黙り込む。
ロンは小さく嘆息した。
「――友香」
落ち着いた声音で、彼は旧友の名を呼んだ。
「おまえは少し心配しすぎだ」
『でも』
「でも、じゃねえよ――気持ちは分かるけどな」
そう言って、ロンは微苦笑を浮かべた。
あの日、恐慌を来した少女の様子は、彼らに6年前の出来事を思い出させるのに十分だった。あの場にいた全ての人間が、リンの姿にあの頃の友香を重ねていたはずだ。
「それより俺は、おまえのが心配だよ」
『私?』
「疑問符つけんな、馬鹿」
溜息を吐いて、言葉を続ける。誰よりも友香自身が、少女に過去の自分の姿を重ねているのは間違いがない。だが、そう指摘することをロンは躊躇った。
「長官から聞いた。あの娘のことで、警備長に絡まれてんだろ」
その言葉に、電話の向こうで友香が苦笑を漏らした。
『ああ、そのことね。大丈夫よ慣れてるから』
「馬鹿か、慣れてりゃいいってもんじゃねえよ」
『いいのよ、警備長だって悪気があるわけじゃないんだから。それより、あんまりバカバカ言わないでよね。へこむじゃない』
拗ねた声音に、自然と頬が弛む。
電話の向こうで頬を膨らませているのが目に浮かぶようだ。
そんなところは、候補生の頃から少しも変わらない。
「大いにへこんどけ。で、反省しろ」
そう言いながら、ロンは目を伏せる。
「――盛大に俺の寿命を縮めやがって。二度とあんな無茶はするなよ」
冗談めかしてはいるが、真摯な色を秘めたその声に、友香が黙り込む。
『うん……ご』
「謝るなって言ったよな」
彼女に皆まで言わせず、言葉を遮る。語調はきついが、その声は優しい。
『うん』
「こっちに来たけりゃ迎えに行ってやる。その位、面倒でも何でもねえんだからな」
『うん……ありがとう』
小さく答えた友香の声が、ごく微かに揺れた。それには気づかぬふりをして、ロンは続ける。
「今日は、もうオフか?」
『うん』
「なら、ゆっくり休めよ。おまえ、最近あんまり寝てないだろ」
『……どうして分かるの?』
目を瞬かせているのが明らかな声音に、ロンは笑う。
「ばあか、何年おまえとつるんでると思ってんだ。腐れ縁なめんなよ」
『すごいね、ロン』
「おう、尊敬しとけ」
軽口に、受話器の向こうで、友香が明るい笑い声をあげる。それにつられて口元に微笑を浮かべながら、ロンは壁の時計に目をやった。
「――悪い。そろそろ交替の時間だ、切るぞ」
『あ、忙しい時にごめんね』
「いや、思ったよりおまえが元気そうで安心した」
彼の飾らない言葉に、受話器越しに友香が微笑んだ気配がする。
『リンのこと、お願いします。
それと――何があるかわからないから、気をつけて』
「ああ。おまえの方こそ、気をつけてな。怪我とかすんなよ」
『うん、ありがと。それじゃ――おやすみなさい』
「おやすみ。よく寝ろよ」
挨拶を交わして受話器を置く。
何気なく視線を向けた窓の外に浮かぶ月は、心なしか紫がかって見えた。
*
ざわざわと風の抜ける音に、リンは目を醒ました。
少し寝入っていたらしい。
いつの間にか室内は薄闇に覆われ、カーテンの開いた窓からは、大きな月が覗いていた。その光がどこか紫がかっているように見えて、自然と身体が震える。
――紫月
紫色の月は不吉の象徴とされている。その名をもったあの男もまた、リンには不吉の象徴に思える。
――どうして、こんな事を考えているんだろう
訳もなく胸をざわめかせる不吉な予感に、彼女は上体を起こした。
「――起きたのか」
不意に、部屋の隅から声が聞こえた。
視線を向けると、ロン・セイヤーズが足を組んで座っている。
「何か、食うか」
「いらない」
「食わねえともたねえぞ」
無愛想な声を無視すると、ロンがくっと笑うのが聞こえた。
「ま、食欲がなくても仕方ないだろうが。おまえを庇って矢面に立ってる奴もいるんだ、それだけは分かっとけ」
苦笑混じりの言葉に、まただ、とリンは複雑な感情を覚えた。
ここに連れて来られて数日が過ぎた。
敵の捕虜になったとは思えないほどの平穏な日々。行動は制限されているが、そもそも体力の衰えた体は室内を移動するのが精一杯で、さほど不自由も感じない。
誰かに暴力を振るわれることも、暴言をぶつけられることもない。
そのことが――むしろ、辛い。
自分がこれまで信じてきた――教えられてきたものが、揺らぎそうになる。
彼女がここで接しているのは、ハリーとロン、そしてアレン・ランブルの三人だけだ。常に人当たりの柔らかなハリーやアレンだけではない。彼らに比べて物言いが無愛想で辛辣なロンですら、彼女を蔑むような態度をとることは決してない。
はじめは、自分が捕虜ではないことがその理由だと思っていた。だがどんなに丁寧に接したとしても、相手を目下と見ていれば、自ずとそれが態度に現れる。
彼らの言動には、それがない。思い返してみれば、中山友香やアレク・ランブルもそうだった。
光の者は、闇の者を人以下の存在としか思っていない。
そう断言した主の言葉と――現状の間で少女の心は揺れていた。
「おまえたちは…………」
「ん?」
知らず、口をついて出た声に、ロンが片眉を上げた。
「何だ?」
「おまえたちは、なぜ私を侮蔑しない」
彼女の問いに、ロンが小さく目を見開いたのが分かった。
「――何言ってんだ、おまえ」
一瞬の間を置いて、長い溜息とともに、彼は返した。辛辣な語調に驚きと呆れの色はあるが、軽蔑の色はない。
「理由もないのに、何で見下さなきゃなんねんだよ」
「理由なら、あるだろう」
「――闇の者だからってか?」
彼女の言葉に重ねるようにそう言って、ロンは肩を竦めた。
「くっだらねえ。闇だから何だってんだ」
がりがりと頭を掻いて、彼は唸る。
「人間なんだ、良い奴もいりゃ悪い奴もいるだろうよ。闇だから悪だなんていう奴は、ただの馬鹿だ」
はっきりと言い切ったその声には、偽りの色がない。
そのことがますますリンを戸惑わせた。
「まあ――確かに、世の中を二つに分けて、自分じゃねえ方を悪に分類しちまえば、単純で楽かも知れねえけど」
そう呟いて、ロンはにっと笑った。
「そういうもんじゃねえだろ、世の中って」
「どうして……」
中途半端な問いの意味を読んだのだろう。苦笑と――それからどこか照れの混じった穏やかな表情を浮かべ、彼は視線を中空に浮かべた。
「――おまえさ、兄弟はいるか?」
わずかな間の後にロンが発したのは、それまでの話の流れとは無関係に思える問いだった。
「……いない」
「たとえば自分に兄弟がいて――そいつが『混血』だったらどうする? 嫌うか?」
「――――」
小さく息を呑んだ少女の反応に、彼はうっすらと笑う。
「ま、そういうこった。それで苦しんだ奴を、俺は近くで見てきたからな」
「それは――」
一体、誰のことなのか。
そう、リンが訊ねようとしたときだった。
梢を揺らしていた風が、不意に止んだ。
「――――」
しん、と音が消えた。
にもかかわらず、ざわざわとぞよめくように空気が揺れる。
「――立てるか」
いつの間にかベッドの側にまで来ていたロンが、囁いた。
切れそうな緊張感が、彼の身体を包んでいる。
「こっちだ」
彼女の腕を掴み、ロンは部屋の隅に移動する。壁に設えられた緊急ボタンを押すと、瞬時に、全館にサイレンが鳴り響いた。
「そこから動くなよ」
彼女の周囲に結界を張り、ロンが身構えるのとほぼ同時に、バタンと窓が開いた。
「――誰だ」
紫色に光る月を背に、人影が立っている。
「その娘を――迎えに来た」
その声に、リンはビクリと身を震わせた。
「おう、どうした?」
『……電話の出方、間違ってるよ』
受話器の向こうから、友香の苦笑混じりの声が聞こえる。
「ばぁか。おまえ以外、こんな時間に電話かけて来る奴なんかいねえよ」
と笑って、ロンはソファに腰を下ろした。
「あの娘のことだろ?」
『うん……どうしてる?』
「あんまりいい状態ではねえな」
髪から滴る水分を乱暴に拭いながら、彼は答えた。
『まだ食べない?』
「いや、少し食べるようにはなったみたいだ。ただどうもショック状態から抜け切れてねえ」
その言葉に、受話器の向こうで友香が黙り込む。
ロンは小さく嘆息した。
「――友香」
落ち着いた声音で、彼は旧友の名を呼んだ。
「おまえは少し心配しすぎだ」
『でも』
「でも、じゃねえよ――気持ちは分かるけどな」
そう言って、ロンは微苦笑を浮かべた。
あの日、恐慌を来した少女の様子は、彼らに6年前の出来事を思い出させるのに十分だった。あの場にいた全ての人間が、リンの姿にあの頃の友香を重ねていたはずだ。
「それより俺は、おまえのが心配だよ」
『私?』
「疑問符つけんな、馬鹿」
溜息を吐いて、言葉を続ける。誰よりも友香自身が、少女に過去の自分の姿を重ねているのは間違いがない。だが、そう指摘することをロンは躊躇った。
「長官から聞いた。あの娘のことで、警備長に絡まれてんだろ」
その言葉に、電話の向こうで友香が苦笑を漏らした。
『ああ、そのことね。大丈夫よ慣れてるから』
「馬鹿か、慣れてりゃいいってもんじゃねえよ」
『いいのよ、警備長だって悪気があるわけじゃないんだから。それより、あんまりバカバカ言わないでよね。へこむじゃない』
拗ねた声音に、自然と頬が弛む。
電話の向こうで頬を膨らませているのが目に浮かぶようだ。
そんなところは、候補生の頃から少しも変わらない。
「大いにへこんどけ。で、反省しろ」
そう言いながら、ロンは目を伏せる。
「――盛大に俺の寿命を縮めやがって。二度とあんな無茶はするなよ」
冗談めかしてはいるが、真摯な色を秘めたその声に、友香が黙り込む。
『うん……ご』
「謝るなって言ったよな」
彼女に皆まで言わせず、言葉を遮る。語調はきついが、その声は優しい。
『うん』
「こっちに来たけりゃ迎えに行ってやる。その位、面倒でも何でもねえんだからな」
『うん……ありがとう』
小さく答えた友香の声が、ごく微かに揺れた。それには気づかぬふりをして、ロンは続ける。
「今日は、もうオフか?」
『うん』
「なら、ゆっくり休めよ。おまえ、最近あんまり寝てないだろ」
『……どうして分かるの?』
目を瞬かせているのが明らかな声音に、ロンは笑う。
「ばあか、何年おまえとつるんでると思ってんだ。腐れ縁なめんなよ」
『すごいね、ロン』
「おう、尊敬しとけ」
軽口に、受話器の向こうで、友香が明るい笑い声をあげる。それにつられて口元に微笑を浮かべながら、ロンは壁の時計に目をやった。
「――悪い。そろそろ交替の時間だ、切るぞ」
『あ、忙しい時にごめんね』
「いや、思ったよりおまえが元気そうで安心した」
彼の飾らない言葉に、受話器越しに友香が微笑んだ気配がする。
『リンのこと、お願いします。
それと――何があるかわからないから、気をつけて』
「ああ。おまえの方こそ、気をつけてな。怪我とかすんなよ」
『うん、ありがと。それじゃ――おやすみなさい』
「おやすみ。よく寝ろよ」
挨拶を交わして受話器を置く。
何気なく視線を向けた窓の外に浮かぶ月は、心なしか紫がかって見えた。
*
ざわざわと風の抜ける音に、リンは目を醒ました。
少し寝入っていたらしい。
いつの間にか室内は薄闇に覆われ、カーテンの開いた窓からは、大きな月が覗いていた。その光がどこか紫がかっているように見えて、自然と身体が震える。
――紫月
紫色の月は不吉の象徴とされている。その名をもったあの男もまた、リンには不吉の象徴に思える。
――どうして、こんな事を考えているんだろう
訳もなく胸をざわめかせる不吉な予感に、彼女は上体を起こした。
「――起きたのか」
不意に、部屋の隅から声が聞こえた。
視線を向けると、ロン・セイヤーズが足を組んで座っている。
「何か、食うか」
「いらない」
「食わねえともたねえぞ」
無愛想な声を無視すると、ロンがくっと笑うのが聞こえた。
「ま、食欲がなくても仕方ないだろうが。おまえを庇って矢面に立ってる奴もいるんだ、それだけは分かっとけ」
苦笑混じりの言葉に、まただ、とリンは複雑な感情を覚えた。
ここに連れて来られて数日が過ぎた。
敵の捕虜になったとは思えないほどの平穏な日々。行動は制限されているが、そもそも体力の衰えた体は室内を移動するのが精一杯で、さほど不自由も感じない。
誰かに暴力を振るわれることも、暴言をぶつけられることもない。
そのことが――むしろ、辛い。
自分がこれまで信じてきた――教えられてきたものが、揺らぎそうになる。
彼女がここで接しているのは、ハリーとロン、そしてアレン・ランブルの三人だけだ。常に人当たりの柔らかなハリーやアレンだけではない。彼らに比べて物言いが無愛想で辛辣なロンですら、彼女を蔑むような態度をとることは決してない。
はじめは、自分が捕虜ではないことがその理由だと思っていた。だがどんなに丁寧に接したとしても、相手を目下と見ていれば、自ずとそれが態度に現れる。
彼らの言動には、それがない。思い返してみれば、中山友香やアレク・ランブルもそうだった。
光の者は、闇の者を人以下の存在としか思っていない。
そう断言した主の言葉と――現状の間で少女の心は揺れていた。
「おまえたちは…………」
「ん?」
知らず、口をついて出た声に、ロンが片眉を上げた。
「何だ?」
「おまえたちは、なぜ私を侮蔑しない」
彼女の問いに、ロンが小さく目を見開いたのが分かった。
「――何言ってんだ、おまえ」
一瞬の間を置いて、長い溜息とともに、彼は返した。辛辣な語調に驚きと呆れの色はあるが、軽蔑の色はない。
「理由もないのに、何で見下さなきゃなんねんだよ」
「理由なら、あるだろう」
「――闇の者だからってか?」
彼女の言葉に重ねるようにそう言って、ロンは肩を竦めた。
「くっだらねえ。闇だから何だってんだ」
がりがりと頭を掻いて、彼は唸る。
「人間なんだ、良い奴もいりゃ悪い奴もいるだろうよ。闇だから悪だなんていう奴は、ただの馬鹿だ」
はっきりと言い切ったその声には、偽りの色がない。
そのことがますますリンを戸惑わせた。
「まあ――確かに、世の中を二つに分けて、自分じゃねえ方を悪に分類しちまえば、単純で楽かも知れねえけど」
そう呟いて、ロンはにっと笑った。
「そういうもんじゃねえだろ、世の中って」
「どうして……」
中途半端な問いの意味を読んだのだろう。苦笑と――それからどこか照れの混じった穏やかな表情を浮かべ、彼は視線を中空に浮かべた。
「――おまえさ、兄弟はいるか?」
わずかな間の後にロンが発したのは、それまでの話の流れとは無関係に思える問いだった。
「……いない」
「たとえば自分に兄弟がいて――そいつが『混血』だったらどうする? 嫌うか?」
「――――」
小さく息を呑んだ少女の反応に、彼はうっすらと笑う。
「ま、そういうこった。それで苦しんだ奴を、俺は近くで見てきたからな」
「それは――」
一体、誰のことなのか。
そう、リンが訊ねようとしたときだった。
梢を揺らしていた風が、不意に止んだ。
「――――」
しん、と音が消えた。
にもかかわらず、ざわざわとぞよめくように空気が揺れる。
「――立てるか」
いつの間にかベッドの側にまで来ていたロンが、囁いた。
切れそうな緊張感が、彼の身体を包んでいる。
「こっちだ」
彼女の腕を掴み、ロンは部屋の隅に移動する。壁に設えられた緊急ボタンを押すと、瞬時に、全館にサイレンが鳴り響いた。
「そこから動くなよ」
彼女の周囲に結界を張り、ロンが身構えるのとほぼ同時に、バタンと窓が開いた。
「――誰だ」
紫色に光る月を背に、人影が立っている。
「その娘を――迎えに来た」
その声に、リンはビクリと身を震わせた。