21.力の重さ

文字数 2,904文字

 つい数刻前まで戦場だったその場所には、血と煙の匂いが燻っていた。顔を顰めずにはいられぬ匂いを孕む風に髪をなびかせながら、男はその惨状に目をこらす。
「なぜ、あなたは後継者を作ろうとしないのか」
 そう訊ねたのは、誰だったか。もはや相手の素性どころか、表情すらも思い出せないが、咎めるようなその声だけは克明に覚えている。
 あの時、自分はどう答えたのだったか。それもまた、覚えていない。だがおそらく、曖昧に誤魔化したのだろうことは想像がつく。
「後継者、か」
 ぽつりと呟く。
「この苦痛を……、誰かに託すことなどどうしてできようか」
 静かに拳を握りしめる。
 バルドに許されているのは、ただ聞くことだけだ。

 ――死にたくない

 ――あの人に幸福を

 ――神よ、なぜ

 煙の燻る戦場に満ちる、いくつもの声。それは、今まさに死にゆく者たちの最期の願い、そして祈りだ。道半ばにして斃れた者たちのその声は、死の間際だからこそ純粋で、強い。その大音声に耳を塞ぐことは、あまりにも困難で。
 けれど。
 彼らの祈りを聞き届け、叶える力はバルドにはない――いや、力ならある。ないのは、そう、権限だ。
 この身には世界を支える力が溢れているのに、それを誰かのために使う事は許されていない。数多ある願いのどれか一つだけを叶えれば、そこに不均衡が生じるからだ。不均衡は世界のバランスを崩してしまうから。
 ならば。救いを求める人々の祈りに、幸せを望む人々の願いに応えることが許されないなら、この力は一体なんのためにあるというのか。
「他の者には――決して分からないのだろうな」
 口元に浮かぶのは、自嘲の笑みだ。
 継承者は6柱。だが自分たち――自分やセルノと、他の4柱は違う。聞こえる声も、それに対する掟も。大地、水、火、風を司る彼らは、世界のバランスを保つためにこそ、力を行使することが許されている。大地が揺れ火が噴き出せばそれを平らかにし、水に渇けば風を動かし雨を降らせることができる。
 けれど、光と闇の継承者にはその権限がない。バルドに届く祈りの声にも、セルノに届く怨嗟の声にも、応えることは許されない。
「セルノの気持ちが分かる……などと言ったら、私も狂ったと思われるだろうか」
 それは偽りのない思いだった。
 光の継承者であるバルドには、人々の希う声が届く。特に強く聞こえるのは、耳を塞ぎたくなる程に切実で狂おしい願いだ――今、この戦場跡に響き渡っているそれのような。
 けれどそれでも、バルドはまだ良い。どんなに痛々しくとも、胸が張り裂けそうになったとしても、それはまだ、幸せを願う声だから。時に、幼子のかわいらしい祈りに心が洗われることすらあるのだから。
 しかしセルノに――闇の継承者に聞こえるのは、人々の怨嗟の声。妬み、恨み、羨む声だ。なぜ、どうしてと、己の不遇を嘆き、儘ならぬ運命を怨み、復讐を誓う。そんな声ばかりを聞かされて、しかしそれに応えることは禁じられて、どうして正気でいられようか。
 だから、セルノが虐げられる者のために動いたのも、世界中を混乱に陥れるほどの狂気に駆られたのも、バルドにはやむを得ないことのように――彼の所業そのものは、決して許されるべきでないと思う気持ちとは裏腹に――思われるのだ。
「このような地獄に、我が子を陥れたくはないのだよ、私は」
 後継者を定めれば、いずれバルドの力はその者に委譲される。けれどその瞬間から、次代の継承者には人々の祈りが聞こえるようになるだろう。洪水のように容赦なく押し寄せる、果てなき願いの大音声が。
 だから、バルドは後継者を定めない。定められない。
 いずれ次代にこの力を託さねばならぬ時が来るとしても、その時を――この業を誰かに背負わせる時を少しでも遅らせるために。

 *

「――萩原?」
 呼びかける声に、睦月の意識が緩やかに浮上した。
「ん? あれ、岬」
 目を上げた所に友人の姿を認め、睦月はゆっくりと瞬きをした。意識を覚醒させ、「今」にチャンネルを合わせる。
「おう。爆睡してたな」
「ん? そう?」
 キャンパスの一角。ベンチでほんの少し時間を潰していたつもりが、いつの間にか眠っていたようだ。
「この真冬に、よく外で寝てられるな」
「ちょっと考え事してただけのつもりだったんだけどね」
 冬の日が落ちるのは早い。まだ午後4時過ぎなのに、既に西の空は赤く染まり始めている。
「岬は今日はもう終わり?」
「おう。これからバイト」
「塾だっけ?」
「いんや、カテキョ」
 他愛もない会話を交わしながら、何となく肩を並べて歩き出す。
「そういや、萩原。何か最近雰囲気変わったよな」
 駅への道を辿りながら、ふと岬が言った。
「え、そう?」
「なんだろ、運動でも始めた?」
「あー、うん確かに。最近ちょっと鍛えてる」
「ああやっぱり? 何かちょっと姿勢良くなった気がする」
「マジ? やった」
 自然と声が弾む。友人の目から見て分かる程度に努力の成果が出ていると聞けば、素直に嬉しい。
「でもまた何でいきなり」
「ああほら、ちょっと前に倒れたじゃん? あれでちょっと体力つけなきゃって思ったっていうか」
 そう言うと、岬は納得したようだった。

 駅前で岬と別れると、睦月は改札を潜り、電車に乗り込んだ。リズミカルな振動に身を任せ、車窓を見るともなしに眺めながら、先程の夢に思いをはせる。
 
 あの夢は間違いなく自分に向けたメッセージだ。目を覚ました瞬間に、睦月はそう確信した。
 少し前、ライブハウスでの出来事に対して感じていた無力感をアレクに吐露したあの日以降、睦月はバルドにアクセスしようと、自分の裡に意識を向けるようになった。目の前にいる人を助けるには、バルドの力を使いこなせるようにならなければいけないと、そう思ったからだ。
 そうして、ことある毎に自分の内側に――魂の奥に潜んでいるはずのバルドに声をかけ続けたが、一向に応えはない。毎日のように瞑想をし続けたおかげで、バルドの力が眠る意識の底の方までスムーズに降りていけるようにはなったけれど、そこから先はまるで天岩戸のようにしっかりと閉ざされてしまっていて、どうすれば彼の力を引き出せるのかが分からない。
 セルノの復活を止めるという目的は一致しているはずなのに、なぜそうも頑なに、ピンチの時にしか力を貸してくれないのかとそう思う日々が続いていた。そこに、先程の夢だ。
 夢の中で、バルドは己の無力を――力を持っていても、それを使う事のできない己の立場を――嘆いていた。その重荷ゆえに、後継を定めることができないのだと。
 おそらくそれこそが、睦月の問いかけに対するバルドの答えなのだろう。救いを求める人々の願う声は耳に届くのに、掟に縛られ、誰かを救うことの許されないジレンマに苦しんだバルドが行き着いた、答え。
「その力の重荷を人に背負わせたくない、か」
 周囲に聞こえないよう、口の中だけで小さく呟く。
 バルドの思いも、そこに至るジレンマも理解出来る。けれど、その帰結が正しいとは睦月には思えなかった。
「だけど、僕は――」
 窓に映る自分の姿に、ほんの一瞬、別の人物の姿が重なったような気がした。
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