第16章 聴取
文字数 3,696文字
室内に入ってきた男たちを、リンはぼんやりと眺めた。
監察長が見たことのないスキンヘッドの男を連れている。その後ろには、ハリー・オコーネルもいる。
――やはり、来たか
彼らの用件は訊くまでもない。昨夜、紫月との戦いの中でロン・セイヤーズが負傷した時点で、こうなることは分かっていた。
「具合はどうだ」
警備部長官と紹介されたスキンヘッドの男の顔を、少女は無表情に見つめた。
ただでさえ色白の肌は一層紙のように白く、目の下にはくっきりと隈が浮いている。眠っていないことが明らかな少女の様子に、男の太い眉がゆっくりと寄せられた。
「訊きたいことがある」
予測していたとはいえ、隠しきれない緊張の色が彼女の表情を強張らせる。
「……話すことはない」
不安と迷いが渾然となった視線が揺れた。
同胞を売るような真似はしない。
それは以前、アレク・ランブルにも宣言したとおりだ。しかし、あの時とは異なる複雑な感情が、彼女の中にさざ波を立てる。
「我々にはある。話してもらうぞ」
少女の迷いを察知したように、殊更強い口調でサイードがいう。
「昨夜、監察に侵入した男は何者だ。一体、どのような方法で侵入した?」
「……知らない」
「知らないでは通らんのだ!」
警備長の恫喝が室内に響く。
びりびりと窓ガラスを震わせる大音声に、ビクリとリンが身体を震わせる。
――やはり……
先程までさざめいていた迷いは一瞬にして消え去り、代わって怒りとも失望ともつかない感情が少女の内面に沸き立ちはじめる。
いくら体裁を取り繕っていても、身内が傷つけられた途端に、手のひらを返したように強圧的な態度に出る。それが敵の本質なのだ。
少女は敵意も剥き出しに、サイードを睨み返した。
「私は同胞を売りはしない!」
決然としたその言葉に、スキンヘッドの警備長は、じわりと目を細める。
「おまえは、その同胞とやらに殺されかけたのではないのか!」
「――!」
「警備長!」
厳しすぎるその言葉に、少女は強いショックを受けたようだった。一瞬にして蒼白になり、押し黙った少女に代わり、ハリーが声とともに前に出ようとする。
それをさっと手で制し、アレンがサイードの肩に手を掛けた。
「――警備長、あなたが逆上してどうする。指揮官も穏便にと言っていただろう」
そう言って、彼は少女に視線を移す。
怒りか衝撃か、それとも――その双方か。白いワンピースに身を包んだ小さな肢体は小刻みに震え、明るい水色の瞳にはうっすらと涙が浮かんでいる。
「……すまない、警備長に代わって謝るよ」
そっと身を屈め、囁くように言ったアレンの声を拒絶するように、リンは顔を背けた。ぱらりと落ちた白金の髪が、その表情を覆い隠す。
「……けれど、君も知っているだろう、昨日の件でうちのセイヤーズが負傷した。そうでなくとも外部からの侵入を許すなんて前代未聞の事だから、みんな余裕をなくしているんだ」
波間を吹く風のような穏やかな声に、荒立っていた室内の空気が落ち着きを取り戻す。
「仲間を売りたくない君の気持ちも分かる。けれど、君を守って怪我をした部下に免じて、せめてあの男のことだけでも教えてくれないか?」
やはり不思議な人物だと、顔を背けたまま、リンは以前にも抱いた感想を再び噛みしめる。しかしだからといって、一度沸きたった負の感情は、そう簡単に消えはしない。少女は唇を噛んで押し黙った。
誰ひとり身じろぎひとつしないまま、長く沈黙が支配した。
はからずも沈黙の元凶となった警備長は、微かにばつの悪そうな、申し訳なさそうな表情を浮かべつつ、そのぎょろりとした大きな目で。
その傍らに立つ監察長は真摯な眼差しで。
その副官は気遣わしそうに。
三者三様の視線が、俯いた少女に注がれる。
そして――少女は、一同から顔を背けたまま、葛藤していた。
つい今し方投げつけられた言葉が、くり返し頭の中をこだまする。
この10日あまり、深く考える余裕すらなかった――否、考えたくはなかった――疑念がぽとりと一滴、少女の心に落とされた。
――あの方が、私を殺そうとした?
そんな馬鹿なと否定したい思いとは裏腹に、一度水面に落ちた疑念は黒い波紋をじわじわと広げていく。
――違う、あれは紫月の独断だ
――本当に?
かつて行き場を失った自分を救ってくれた主と、使命に失敗した自分に暴力を振るう主。
二つの記憶が交互に脳裏を明滅し、彼女の葛藤を煽り立てる。
――わからない
眉間に埋められた『胤』に自我を浸食された夜。
あのままバルドが降臨することがなければ、自分はどうなっていたのだろう。
バルドの力で彼女が助かることまでも、主の計画の内だったのか。
――……わからない
そもそも、紫月があれを自分に使うことを、主は了解していたのだろうか。
もし、彼女が助からないことを知っていて了解したのだとしたら。
――……私に帰る場所はあるのだろうか
例えここを抜け出したとして。
再び任務に失敗し、あまつさえ敵に捕らわれた自分を、あの厳しい主が許すだろうか。
――たとえ帰ったとしても……
決して平穏な日々を得ることなどできないかもしれない。いや、きっとできないだろう。
脳裏を過ぎる最悪の予測が、少女の心を絶望に塗り込めようとする。
リンの、いつしか固く瞑っていた瞼の隙間から、こぼれた涙がシーツに染み込んでいく。
――
だが、そのとき。
瞼に浮かび上がったひとつの面影に、少女ははっと目を見開いた。
――今のは……?
記憶にはない、何か小さな面影が記憶の片隅を横切ったような気がする。
ほんの一瞬掠めて消えたその面影が、何故かとても重要なものに思えて、リンは必死にそれを追う。
しかし、目を醒ませば消える夢のように、それはもはや戻っては来なかった。残されたのは、ただ、自分が何か大切なものを忘れているという――確信。
「私は……何を忘れているんだ?」
長い沈黙の果て、少女のよく通る声が洩らした独白に、彼女の挙動を見守っていた男達は訝しげに目を見交わした。
「……リン、ちゃん?」
そっと呼びかけたハリーの声も耳に届かないように、リンは何かを追うように、中空に視線を馳せたまま微動だにしない。
「何を忘れて……いや、忘れさせられている?」
青ざめた額に手を当て、消え去った記憶の残滓を追う少女の鬼気迫る表情に、その場に集った男達は誰ひとり声を掛けることもできず、ただ困惑の混じった視線を交わしていた。
*
ばさばさ、と漆黒の鳥は広間の床に降り立った。
「マィスティル」
呼びかけながら、羽を畳む。
その輪郭がぼんやりと歪み、やがて鳥は少年の姿に変化した。
「マィスティル、戻りました」
「こっちだ」
少年は主の声が聞こえた方角へと足を進めた。
年代を感じさせるしっかりとした造りの廊下を抜け、角をひとつ折れた所にある部屋のひとつを覗く。
「師父 、こちらですか」
「おかえり」
薄暗い部屋の奥から、主の声が聞こえる。
キルフェは主の姿を探して室内に足を踏み入れた。
十角形の室内には、天井までびっしりと本の詰まった書架が並べられている。
当初は壁際だけに書架の並ぶ開放感のある書庫だったが、主が次々に夥しい数の蔵書を増やすため、今では中央の吹き抜け部分を残して波紋状に書架が並べられている。
「どちらにいらっしゃるんですか」
とりあえず中央まで進み、少年はくり返し呼びかけた。
ややあって、書架の隙間から、主のシルエットが浮かび上がった。
「おかえり」
「それは先程伺いました」
「そうだったかな」
中央に据えた机に、両脇に抱えていた本を下ろし、クレイは腰を叩く。
年寄りじみた主の仕草には何も言わず、キルフェは本の背表紙を眺めた。
「禁術――ですか」
積まれた書物のタイトルが並ぶ。中には人界の古書も含まれているようだ。
「――それで、どうだった」
キルフェの言葉には応えず、クレイは訊ねた。
「どうやら、嵯峨と繋がっているようです」
「嵯峨……ああ、当代の長か」
「館の中にまでは入れなかったので、何を話していたかは不明ですが」
「まあ、大体の想像はつくがね」
現在『闇の者』を統べているのは、代々気性が荒く野心的であることで名高い一族だ。
特に当代の長、嵯峨は女性ながらにその傾向が強いと聞く。
溜息を吐き、クレイは少年を顧みた。
「それだけかい」
「いえ――」
とキルフェは首を振った。
「嵯峨の館を発った後ですが、監察に侵入しました」
「監察……? よもやあの監察じゃあるまいね」
主の問いに、キルフェは頷いた。
「その監察です。撃退されたようですが」
「だが、あそこは……常人には入れないだろう」
「どのような手段を使ったかは不明ですが、結界には傷ひとつつけず」
「ふむ…………」
唸り、クレイは腕を組んだ。
「先日の騒動といい、胤の件といい、どうにも穏やかではないね」
億劫そうに呟いて、彼は一冊の書物を手に取った。
「キルフェ、私は今から調べものをする。おまえは――少し『ランブル』を探ってきておくれ」
「――仰せのままに」
一礼し、少年は踵を返した。
監察長が見たことのないスキンヘッドの男を連れている。その後ろには、ハリー・オコーネルもいる。
――やはり、来たか
彼らの用件は訊くまでもない。昨夜、紫月との戦いの中でロン・セイヤーズが負傷した時点で、こうなることは分かっていた。
「具合はどうだ」
警備部長官と紹介されたスキンヘッドの男の顔を、少女は無表情に見つめた。
ただでさえ色白の肌は一層紙のように白く、目の下にはくっきりと隈が浮いている。眠っていないことが明らかな少女の様子に、男の太い眉がゆっくりと寄せられた。
「訊きたいことがある」
予測していたとはいえ、隠しきれない緊張の色が彼女の表情を強張らせる。
「……話すことはない」
不安と迷いが渾然となった視線が揺れた。
同胞を売るような真似はしない。
それは以前、アレク・ランブルにも宣言したとおりだ。しかし、あの時とは異なる複雑な感情が、彼女の中にさざ波を立てる。
「我々にはある。話してもらうぞ」
少女の迷いを察知したように、殊更強い口調でサイードがいう。
「昨夜、監察に侵入した男は何者だ。一体、どのような方法で侵入した?」
「……知らない」
「知らないでは通らんのだ!」
警備長の恫喝が室内に響く。
びりびりと窓ガラスを震わせる大音声に、ビクリとリンが身体を震わせる。
――やはり……
先程までさざめいていた迷いは一瞬にして消え去り、代わって怒りとも失望ともつかない感情が少女の内面に沸き立ちはじめる。
いくら体裁を取り繕っていても、身内が傷つけられた途端に、手のひらを返したように強圧的な態度に出る。それが敵の本質なのだ。
少女は敵意も剥き出しに、サイードを睨み返した。
「私は同胞を売りはしない!」
決然としたその言葉に、スキンヘッドの警備長は、じわりと目を細める。
「おまえは、その同胞とやらに殺されかけたのではないのか!」
「――!」
「警備長!」
厳しすぎるその言葉に、少女は強いショックを受けたようだった。一瞬にして蒼白になり、押し黙った少女に代わり、ハリーが声とともに前に出ようとする。
それをさっと手で制し、アレンがサイードの肩に手を掛けた。
「――警備長、あなたが逆上してどうする。指揮官も穏便にと言っていただろう」
そう言って、彼は少女に視線を移す。
怒りか衝撃か、それとも――その双方か。白いワンピースに身を包んだ小さな肢体は小刻みに震え、明るい水色の瞳にはうっすらと涙が浮かんでいる。
「……すまない、警備長に代わって謝るよ」
そっと身を屈め、囁くように言ったアレンの声を拒絶するように、リンは顔を背けた。ぱらりと落ちた白金の髪が、その表情を覆い隠す。
「……けれど、君も知っているだろう、昨日の件でうちのセイヤーズが負傷した。そうでなくとも外部からの侵入を許すなんて前代未聞の事だから、みんな余裕をなくしているんだ」
波間を吹く風のような穏やかな声に、荒立っていた室内の空気が落ち着きを取り戻す。
「仲間を売りたくない君の気持ちも分かる。けれど、君を守って怪我をした部下に免じて、せめてあの男のことだけでも教えてくれないか?」
やはり不思議な人物だと、顔を背けたまま、リンは以前にも抱いた感想を再び噛みしめる。しかしだからといって、一度沸きたった負の感情は、そう簡単に消えはしない。少女は唇を噛んで押し黙った。
誰ひとり身じろぎひとつしないまま、長く沈黙が支配した。
はからずも沈黙の元凶となった警備長は、微かにばつの悪そうな、申し訳なさそうな表情を浮かべつつ、そのぎょろりとした大きな目で。
その傍らに立つ監察長は真摯な眼差しで。
その副官は気遣わしそうに。
三者三様の視線が、俯いた少女に注がれる。
そして――少女は、一同から顔を背けたまま、葛藤していた。
つい今し方投げつけられた言葉が、くり返し頭の中をこだまする。
この10日あまり、深く考える余裕すらなかった――否、考えたくはなかった――疑念がぽとりと一滴、少女の心に落とされた。
――あの方が、私を殺そうとした?
そんな馬鹿なと否定したい思いとは裏腹に、一度水面に落ちた疑念は黒い波紋をじわじわと広げていく。
――違う、あれは紫月の独断だ
――本当に?
かつて行き場を失った自分を救ってくれた主と、使命に失敗した自分に暴力を振るう主。
二つの記憶が交互に脳裏を明滅し、彼女の葛藤を煽り立てる。
――わからない
眉間に埋められた『胤』に自我を浸食された夜。
あのままバルドが降臨することがなければ、自分はどうなっていたのだろう。
バルドの力で彼女が助かることまでも、主の計画の内だったのか。
――……わからない
そもそも、紫月があれを自分に使うことを、主は了解していたのだろうか。
もし、彼女が助からないことを知っていて了解したのだとしたら。
――……私に帰る場所はあるのだろうか
例えここを抜け出したとして。
再び任務に失敗し、あまつさえ敵に捕らわれた自分を、あの厳しい主が許すだろうか。
――たとえ帰ったとしても……
決して平穏な日々を得ることなどできないかもしれない。いや、きっとできないだろう。
脳裏を過ぎる最悪の予測が、少女の心を絶望に塗り込めようとする。
リンの、いつしか固く瞑っていた瞼の隙間から、こぼれた涙がシーツに染み込んでいく。
――
だが、そのとき。
瞼に浮かび上がったひとつの面影に、少女ははっと目を見開いた。
――今のは……?
記憶にはない、何か小さな面影が記憶の片隅を横切ったような気がする。
ほんの一瞬掠めて消えたその面影が、何故かとても重要なものに思えて、リンは必死にそれを追う。
しかし、目を醒ませば消える夢のように、それはもはや戻っては来なかった。残されたのは、ただ、自分が何か大切なものを忘れているという――確信。
「私は……何を忘れているんだ?」
長い沈黙の果て、少女のよく通る声が洩らした独白に、彼女の挙動を見守っていた男達は訝しげに目を見交わした。
「……リン、ちゃん?」
そっと呼びかけたハリーの声も耳に届かないように、リンは何かを追うように、中空に視線を馳せたまま微動だにしない。
「何を忘れて……いや、忘れさせられている?」
青ざめた額に手を当て、消え去った記憶の残滓を追う少女の鬼気迫る表情に、その場に集った男達は誰ひとり声を掛けることもできず、ただ困惑の混じった視線を交わしていた。
*
ばさばさ、と漆黒の鳥は広間の床に降り立った。
「マィスティル」
呼びかけながら、羽を畳む。
その輪郭がぼんやりと歪み、やがて鳥は少年の姿に変化した。
「マィスティル、戻りました」
「こっちだ」
少年は主の声が聞こえた方角へと足を進めた。
年代を感じさせるしっかりとした造りの廊下を抜け、角をひとつ折れた所にある部屋のひとつを覗く。
「
「おかえり」
薄暗い部屋の奥から、主の声が聞こえる。
キルフェは主の姿を探して室内に足を踏み入れた。
十角形の室内には、天井までびっしりと本の詰まった書架が並べられている。
当初は壁際だけに書架の並ぶ開放感のある書庫だったが、主が次々に夥しい数の蔵書を増やすため、今では中央の吹き抜け部分を残して波紋状に書架が並べられている。
「どちらにいらっしゃるんですか」
とりあえず中央まで進み、少年はくり返し呼びかけた。
ややあって、書架の隙間から、主のシルエットが浮かび上がった。
「おかえり」
「それは先程伺いました」
「そうだったかな」
中央に据えた机に、両脇に抱えていた本を下ろし、クレイは腰を叩く。
年寄りじみた主の仕草には何も言わず、キルフェは本の背表紙を眺めた。
「禁術――ですか」
積まれた書物のタイトルが並ぶ。中には人界の古書も含まれているようだ。
「――それで、どうだった」
キルフェの言葉には応えず、クレイは訊ねた。
「どうやら、嵯峨と繋がっているようです」
「嵯峨……ああ、当代の長か」
「館の中にまでは入れなかったので、何を話していたかは不明ですが」
「まあ、大体の想像はつくがね」
現在『闇の者』を統べているのは、代々気性が荒く野心的であることで名高い一族だ。
特に当代の長、嵯峨は女性ながらにその傾向が強いと聞く。
溜息を吐き、クレイは少年を顧みた。
「それだけかい」
「いえ――」
とキルフェは首を振った。
「嵯峨の館を発った後ですが、監察に侵入しました」
「監察……? よもやあの監察じゃあるまいね」
主の問いに、キルフェは頷いた。
「その監察です。撃退されたようですが」
「だが、あそこは……常人には入れないだろう」
「どのような手段を使ったかは不明ですが、結界には傷ひとつつけず」
「ふむ…………」
唸り、クレイは腕を組んだ。
「先日の騒動といい、胤の件といい、どうにも穏やかではないね」
億劫そうに呟いて、彼は一冊の書物を手に取った。
「キルフェ、私は今から調べものをする。おまえは――少し『ランブル』を探ってきておくれ」
「――仰せのままに」
一礼し、少年は踵を返した。