第1章 任務①
文字数 1,778文字
人気のない路地から明かりの消えた雑居ビルに侵入すると、リンは溜息を吐いた。
右手の包帯の下の火傷がちりちりと痛む。光の継承者にまみえた際に負った傷は、治療を受けられなかったせいで、未だにじくじくと血がにじんでいる。
「……臭い」
人界は嫌いだ。
大気というフィルターが弱められ、日光がそのまま肌に突き刺さるから、昼間はほとんど身動きが取れないし、夜は夜で目を灼くような灯りがチカチカと鬱陶しい。
空気も悪くて呼吸をする度に何か澱のようなものが肺に溜まる気がするし、何より昼夜問わず人間達が犇めいていて、見ているだけで酔いそうになる。
わざわざ好んで人界に住み着いている連中の気が知れないと、リンは思う。
「そうか? 確かに空気は悪いが、おれは嫌いじゃない」
背後で応じた男の声に、リンは廊下を進む足を止め、振り返った。
「おまえには訊いてない」
「不機嫌だな。どうかしたのか?」
ふ、と口元を皮肉な色に歪ませ、睨まれた男は肩を竦める。
妙に優しげなその口調はもとより男の全てが気に食わない。
リンは男に冷たい視線を流した。
「何処までついてくる気だ」
「どこまでも何も、ついてきてくれと言ったのはきみじゃないか」
含み笑いの男に、「そんなことを頼んだ覚えはない」と怒鳴りつけたいのをどうにか堪え、リンは唇を噛む。
新たな命とともに、リンの助役――否、監視として主君から派遣されたのがこの男だった。
同胞達からは「紫月」と呼ばれているが、それが本当の名であるかはわからない。
見た目は若いが、時折妙に年寄りじみたことを言い、いつも一人で飄々としている。
知っているのはただ、この男が人界についてはそれなりに詳しいということだけだ。
そして実際、彼はリンの話を詳しく聞き出すと、いともあっさりとひとつの地域を候補に挙げた。
「…………道案内をしてもらったことには礼を言う。だがここまで来れば、後は私一人で充分だ」
吐き捨てるように言って、リンは再び前を向いて歩き出す。
「つれないねえ」
背後から聞こえる声を完全に黙殺し、リンはスタスタと足早に廊下を奥へと進んだ。
昼間の陽を凌ぐ為、潜伏できる場所を探さねばならない。
「ここまで来ればと言うが、この辺りだけでどれだけの人間がいると思う?」
紫月の声に、リンは足を止めた。
険しい表情を浮かべて振り返った彼女に、男はにやりと不気味に笑う。
「おれの方がこの国には詳しい。人間の知り合いもいる。
それにおれは昼間でも動きが取れる。きみとは違ってね。
嵯峨の命を遂行する気が本当にあるなら、協力するに超したことはないと思うけどね?」
揶揄するような男の口調に、リンは歯噛みして相手を睨め付けた。
「その見返りに、何を求めるつもりだ?」
リンは、この正体不明の男が嫌いだった。
いつも薄ら笑いを顔に張り付け、自分の正体は巧妙に隠している癖に、気付くといつでも薄い色つき眼鏡の奥から、見透かすような視線をこちらに向けている。
――油断のならない男。
――少しでも気を許せば、背後から食われて骨すら残らない。
初対面の時から、そんな不信感がこの男にはまとわりついている。
「そうだな。どうしようか?」
くつくつと笑う男に肌が粟立つのを感じながら、リンは相手を睨み付ける。
その視線を意に介さず、男は肩を竦めた。
「だがいずれにしろ、おれの言ったことは事実だ。きみ一人で探そうとすれば、人ひとり見つけるまでに、一体何十年かかることやら」
紫月の言葉に、リンは唇を噛んだ。
窓ガラスに映った自分の顔が視界の隅に映る。
――赤く腫れた頬。それでも、多少はましになってきた。
悔しいが、この男の言っていることは正しい。
この膨大な人の群からたった1人を見つけだすなどという途方もない作業を、彼女1人で完遂することなど、相当の運に恵まれてでもいなければ不可能に違いない。
この紫月と名乗る男をどこまで信用してよいものかという不信感は拭い去れないが、しかし任務のことを考えればこの男の知識が役に立つのは事実だ。
しばし躊躇した後、リンは顔を上げた。
「……わかった」
今は私情で意地を張っている場合ではない。
「そうこなくちゃな」
そう笑った男の表情に、またぞわりと背筋が粟立つのを抑え、リンは差し出された手を握り返した。
――男の手は、氷のように冷たかった。
右手の包帯の下の火傷がちりちりと痛む。光の継承者にまみえた際に負った傷は、治療を受けられなかったせいで、未だにじくじくと血がにじんでいる。
「……臭い」
人界は嫌いだ。
大気というフィルターが弱められ、日光がそのまま肌に突き刺さるから、昼間はほとんど身動きが取れないし、夜は夜で目を灼くような灯りがチカチカと鬱陶しい。
空気も悪くて呼吸をする度に何か澱のようなものが肺に溜まる気がするし、何より昼夜問わず人間達が犇めいていて、見ているだけで酔いそうになる。
わざわざ好んで人界に住み着いている連中の気が知れないと、リンは思う。
「そうか? 確かに空気は悪いが、おれは嫌いじゃない」
背後で応じた男の声に、リンは廊下を進む足を止め、振り返った。
「おまえには訊いてない」
「不機嫌だな。どうかしたのか?」
ふ、と口元を皮肉な色に歪ませ、睨まれた男は肩を竦める。
妙に優しげなその口調はもとより男の全てが気に食わない。
リンは男に冷たい視線を流した。
「何処までついてくる気だ」
「どこまでも何も、ついてきてくれと言ったのはきみじゃないか」
含み笑いの男に、「そんなことを頼んだ覚えはない」と怒鳴りつけたいのをどうにか堪え、リンは唇を噛む。
新たな命とともに、リンの助役――否、監視として主君から派遣されたのがこの男だった。
同胞達からは「紫月」と呼ばれているが、それが本当の名であるかはわからない。
見た目は若いが、時折妙に年寄りじみたことを言い、いつも一人で飄々としている。
知っているのはただ、この男が人界についてはそれなりに詳しいということだけだ。
そして実際、彼はリンの話を詳しく聞き出すと、いともあっさりとひとつの地域を候補に挙げた。
「…………道案内をしてもらったことには礼を言う。だがここまで来れば、後は私一人で充分だ」
吐き捨てるように言って、リンは再び前を向いて歩き出す。
「つれないねえ」
背後から聞こえる声を完全に黙殺し、リンはスタスタと足早に廊下を奥へと進んだ。
昼間の陽を凌ぐ為、潜伏できる場所を探さねばならない。
「ここまで来ればと言うが、この辺りだけでどれだけの人間がいると思う?」
紫月の声に、リンは足を止めた。
険しい表情を浮かべて振り返った彼女に、男はにやりと不気味に笑う。
「おれの方がこの国には詳しい。人間の知り合いもいる。
それにおれは昼間でも動きが取れる。きみとは違ってね。
嵯峨の命を遂行する気が本当にあるなら、協力するに超したことはないと思うけどね?」
揶揄するような男の口調に、リンは歯噛みして相手を睨め付けた。
「その見返りに、何を求めるつもりだ?」
リンは、この正体不明の男が嫌いだった。
いつも薄ら笑いを顔に張り付け、自分の正体は巧妙に隠している癖に、気付くといつでも薄い色つき眼鏡の奥から、見透かすような視線をこちらに向けている。
――油断のならない男。
――少しでも気を許せば、背後から食われて骨すら残らない。
初対面の時から、そんな不信感がこの男にはまとわりついている。
「そうだな。どうしようか?」
くつくつと笑う男に肌が粟立つのを感じながら、リンは相手を睨み付ける。
その視線を意に介さず、男は肩を竦めた。
「だがいずれにしろ、おれの言ったことは事実だ。きみ一人で探そうとすれば、人ひとり見つけるまでに、一体何十年かかることやら」
紫月の言葉に、リンは唇を噛んだ。
窓ガラスに映った自分の顔が視界の隅に映る。
――赤く腫れた頬。それでも、多少はましになってきた。
悔しいが、この男の言っていることは正しい。
この膨大な人の群からたった1人を見つけだすなどという途方もない作業を、彼女1人で完遂することなど、相当の運に恵まれてでもいなければ不可能に違いない。
この紫月と名乗る男をどこまで信用してよいものかという不信感は拭い去れないが、しかし任務のことを考えればこの男の知識が役に立つのは事実だ。
しばし躊躇した後、リンは顔を上げた。
「……わかった」
今は私情で意地を張っている場合ではない。
「そうこなくちゃな」
そう笑った男の表情に、またぞわりと背筋が粟立つのを抑え、リンは差し出された手を握り返した。
――男の手は、氷のように冷たかった。