92/ ユイノ
文字数 3,598文字
いことがわかってしまう。体は豊のものだろうが、中身は、キネ先輩の一件でその片鱗をうかがわせた、得体の知れない何者かが取って代わったに違いない。
その脅しが決定打だったのか、キリーは宣言した。続けて、トールの首を握り潰していた手のひらを開き、マージャを狙っていた凶器の指を元の形に戻す。左右の腕を同時に下ろす、その仕草が妙におしとやかなところがなんだか滑稽に映る。
抗う気勢をなくしたキリーを、豊は解放しない。ただし、改めて彼女に施した捕縛の魔術は俺でも知っているような初歩的なものに変えていた。豊の瞳の色と同じ、深緑の光の帯が、キリーを縛り上げる。
キリーの背中に埋まった自らの右手を引き抜くのに、豊は彼女の肩に左手をかけて、思いっきり踏ん張りをきかせる必要があった。そうして抜いた右手だが、第二関節より先の指はキリーの中に残ったまま。
それはまぎれもなく、彼女の父親としての態度だった。
まるで狩りでしとめた獲物を運ぶように、腹からくの字にされてライトにかつがれ、騒動の元凶であるキリーは退場した。
それを見計らってか、豊の中の誰かは俺達に向き直る。いや……焦点の合わないまっくらな瞳はおそらく、まっすぐ俺だけを見据えていた。
正視するのがはばかられる右手を無視して、左手を滑らかに胸元へ運び、うやうやしくかしずく。
肉体の宿主たる人間が封滅の式を用いる時、我が意識は目覚める。
その時点で肉体の主導権は我が握ることになり、
元の人格は二度と目覚めない、本来なら。
気の持ちようなどとあいまいなもので、
我から意識を奪い返したのは、
この長矢豊をおいて過去になかった
不可能とされてきた、レムレスの封印。今回は俺達を助けるために、ユイノの力の片鱗だけ使ったということだろうか。
ユイノの返答に何を思ったのか、トールは気まずそうな感じで――ちらちらと、豊と俺の方を落ち着きなく見返しながら、続けた。
トールが黙って頷くのを見届けると、ユイノはゆっくり目を閉じる。次の瞬間にはもう、豊の眉間に深く皺が刻まれ、苦痛に顔が歪み、体が震えだした。そのまま、先ほど跪いたのとよく似た姿勢で、しかし岩の地面に膝を着く。
これまでとは明らかに違う、本当に、しつこいくらいに重ねた無数の仮面、全てはぎとった。素っ裸にされた心細さ、いたたまれなさをひしひしと感じるその態度から、俺は、今度こそこいつの全てが明らかになったのだと実感した。
信じてもらえるかわかんないけどさ。
俺、ゴブリン族に生まれて、
例のまじないを受けるまでに、
人を殺したことはないんだ。
あのソースみたいな混血でもなく、純血のゴブリンなのに、
同胞達のように殺戮を快楽と思う衝動がなかった。
今と同じで、いつか……俺も生粋のゴブリンのように、
殺すのが楽しく
なったらどうしようってことばかり考えてた。
それは今の自分が、ゴブリンの本性に食われてなくなっちまうってことだから。
あの地獄から解放されて人間の体に生まれ変わった時、
本当に、わかったような気がした。
たったひとりの人間として生きてる体が、
どんなに大切なのかって。
それを自分のたのしみのためだけに、
踏みにじるように当たり前に殺してまわる……
そんな風になっちまうんなら、やっぱり、
俺は生きてるべきじゃないだろう?
反論しようとしたけれど、同時に何やら言い募った豊に気を取られて口を閉じる。計り知れない痛みに耐えながら足の力だけでどうにか立ち上がった豊の顔は蒼白だった。
その言葉には、疑いようもなく、本心の気遣いめいた感情が込められていて。俺は開いた口が塞がらなかった。
それに対する、マージャの答えは。
何だってそう、考えることがいちいち後ろ向きなんだよ!
どう転ぶかわからない先のことでうだうだ悩みやがって、
そんなことに使ってる時間があるなら、
自分の望みを果たすことを考えろよ!
おまえの一番の望みは、殺されることじゃないだろ?
殺されたくないし殺したくない、だから、
ゴブリン族の呪縛から
解放されたいんじゃないのかよ!?
あまりに空気を読まないトールの発言に、知り合ってからこっち、本気でこいつを小突いてやりたいと思ったのはこれが初めてだった。