⑳ 君だけが知らない
文字数 3,076文字
出航しても、俺には特に異常はなかった。ヴァニッシュの言っていた個人差とやらは、幸いにも当てはまらなかったようだ。
就寝準備にトイレへ行くと、船員らしい男が吐いていた。これが個人差なのだろうか。船に合わない体質なら、なんで船乗りになんかなってしまったのだろう。
まだ寝るような時間でもなく、船内の通路は明るい。サクルドの輝きも目立たない。
甲板へ上がると、夜の闇の下、サクルドの真昼のような緑の光はより強く感じられた。しかし、巨大な輸送船の上にあっては微々たるものであることに変わりはなく、サクルドの姿はいつもよりさらにちっぽけに見えた。
船室の窓から見た時は、港町の様相がはっきりとうかがえたものだが、人間の島フェナサイトはすでに、暗い海の上の小さな影と化していた。
なんだか、ひどくあっけないものだなと思う。大多数の人間にとって、生涯、離れることなく過ごす島。ほんの少し前まで、俺もそんな風に一生を終えると信じて疑わなかったのに。
今のところ、ヴァニッシュの触れることのできる存在は、ティアーと敦さまだけなんですよ。
先日、ヴァニッシュを敦さまに触れさせたのはそれを試すためだったんです。
銀はソースの魔力を奪いはしますが、奪われた分の魔力は絶えず補給される。
だからソースである敦さまに触れたところで、彼の銀はあなたに害を及ぼすことはない
同胞に触れられないだけならまだしも、銀の力は魔物達にとって煙たがられるものなんです。
肉体的にも精神的にも、ヴァニッシュは同胞と触れ合うことはできない。
彼もまだ若いですから、孤独を甘受するほどには達観しきれません。
だからヴァニッシュにとって、ティアーとあなたはとりわけ、貴重な存在なのですよ
銀を持つからといって、同族との接触にまで影響を及ぼすとなると子孫を残すことさえできませんから。
仕組みはわかっていませんけれど、そのあたりはうま
くできているみたいですね。
そしてワ―・ウルフは割と稀少な種族ですから、彼らの生涯において、他のワ―・ウルフとの接触がある可能性は限りなく低い。
だからティアーとヴァニッシュはお互いを、かけがえのない肉親のように思い合っているんです。
血縁はなくてもね
個人的な事情は本人に確かめるべし、というのは俺のポリシーだったけど、今日、その考えに軌道修正を施した。
ヴァニッシュの言う通り、豊は正面から問い詰めても、必ずしも真実を語ってくれない。仲間の助けが必要な局面だと自覚していても、何故だか限界まで口をつぐんでしまう。
ティアーの言う通り、ヴァニッシュは求められたら拒絶しない。本当は話したくないことでも、訊ねられれば打ち明けてくれるだろう。自分の言葉で傷を深くしながらにでも。
だから、時には第三者を通して当たり障りのない程度に事情を聞くことだって、間違ってはいないはずだ。何も、当人の傷に触れるような深部にまで触れる必要はないんだから。
そして、今の俺にとって最も疑問をぶつけやすいのはサクルドだった。正直、理屈では納得していても他人のことは訊きにくいのが現実だ。そんな内容を、口にしなくても理解してくれる彼女は頼れる存在だった。
第三者を通さないと見えないのは、何より自分自身――
つまり、敦さま自身のことでもあるのですよ。
現に、たった今、誤解されています。
豊は最初の目的こそ別件でしたが、三人はあなたを守るために集いました。
彼らの絆には、最初っからあなたも含まれているのですよ。
ソースは守るべき対象ではありますけれど、それだけでは豊も、ティアーもヴァニッシュも命をかけたりしません。
あなたと直に接し、その人柄にひかれたから、あなたを守りたいと感じた。
それは、まず間違いないでしょう
人柄というものは、何も特別な言葉やイベントでしか知りえないものではないのですよ。
何気ない毎日の中で、にじみ出るような感性だってあります。
敦さまはまさにそういった方です。
言葉でアピールすることは稀ですが、純粋な気持ちを自分の中にたくさん抱えていて、それを行動に反映できる。
あなたのことをきちんと見ていればその思いは伝わってくるのですよ
こう感謝を伝えても、サクルドの表情は晴れないままで。こんな調子の時にしつこく話を続けるのも悪い気がして、俺達も部屋に戻って眠ることにした。
部屋の電灯は落とされていた。サクルドを連れて部屋に入ると、ちょうどいい感じに部屋が明るく照らされる。おかげで、寝ているみんなの身体を踏みつけて起こしてしまう、なんてならずに済みそうだ。
寝る時は必ず狼に戻るティアーは、たいてい誰かの身体の上で眠る。今日は狼のヴァニッシュの背中にあごをのせていた。ヴァニッシュの方は俺達が戻るのを待っていたのか、ぱっちりと開かれた銀色の瞳と視線が合う。
そう小さく声をかけると、その目が閉じた。
布団で眠る豊の寝顔は、これ以上ないというくらいに安らかだった。その表情を見るだけで、ほんの一瞬、目頭に熱を感じた。明日、目が覚めれば、きっと元気な豊に会える。そう信じられる気がした。