35/ 秘策
文字数 4,428文字
あちらのふたりにも、いくらか虫を送り込んでいるわね。
ヴァニッシュは魔物にはめっぽう強いけれど、
魔力に頼らない虫に銀の力は効かないから、
十分な時間稼ぎになるでしょう。
そうして、ソースが体調を崩して、ティアーが単独行動して、
ここの守りが手薄になっている……
今日という日に全てを賭けた。
一体何年前から計画して、虫を量産してきたのかしらね?
ソース、あなたに恨みはないけれど、
わたくしはこの日のために百年を費やしました。
申し訳ないけれど、一切手は抜きません。
覚悟なさってください
何をするでもなく呆然と成り行きを眺めている俺を――エリスは黙って、手首を引いて小屋の裏側へ誘導する。
一瞬の、俺の手首を握る彼女の握力を除き、頼れるもののない浮遊感。その直後、ひやりと冷たいようで生温かいような、柔らかな何かに体をくるまれた。
水だ。セレナートの水源に飛んだ時に似た感触だ。出所を確かめようとあちらこちらへ目をやると、エリスの足元にたどり着く。足の指の先に、水晶玉のように球体となった水があり、そこから渦を巻いて水が溢れだして俺達をとりまいていた。
落下速度は衰えることなく、地上へ着くまではあっという間――着地の感触は、深く掘った穴に雨上がりの泥を詰め込んだ中にぐちゃりと音を立てて沈むような。あまり気分のいいものではなかった。それもまた、その瞬間に限ってのことで、気がついたら俺は固い地面に膝をついている。勢いで倒れかかるのをとっさに両手を地面に立てて支えた。エリスが手を離したんだろう。
飛び降りるというその言葉が出た時点で、俺が速やかに言われていることを理解していたら。躊躇して足に力がこもり、エリスの懸念するような事態になっていたかもしれない。
体を起こしているのがつらくて、尻餅をついた……けど、このままだともしもの時に反応して避けることさえ出来ないだろうと思い直す。せめて片膝を立てる格好で耐えることにする。
……それも、ごく普通の人間みたいな。中学生になるかならないか、くらいの年頃で。フェナサイトの街中のどこにでもいるような、平凡な黒いシャツとジー ンズを着て。髪は濃密な茶色で肩にかかる程度のセミロング。癖があるのか先端だけ統一感なく跳ねている。大きめで柔らかそうなファーの白い帽子をかぶっているのだが、エメラードの気候に不釣合いで暑苦しい。
目は霞がかった薄い色でどこかうつろ。目に限らず、肌に艶がなく一気に汗をかいた時のようにごくわずか頬がこけていて――余裕が感じられなかった。
これまでに俺を狙って現れた魔物は、決まって余裕たっぷりだった。ソースの魔力を持っていようが、使いこなせない今はただの人間、簡単に殺せる……そんなもくろみが透けて見えて、ただ憎らしいばかりだった。
それが、今。目の前にいる魔物はか細くやつれていて、すぐにでも倒れてきそうな有様だ。それでいて、愉快犯のようにも見えたこれまでの魔物達になかった全力の悪意を、こちらに向けてくる。
面識のない俺の命を狙ったり、ティアーを危険な目に遭わせたりするような相手なのに……その必死さは、どうしようもなく胸に迫るものがあった。
サクルドのそれと比べると、エリスの表情には険しい中にもいくらか余裕が感じられる。
言いながら、エリスはポニ―テールを縛っているバンダナをほどく。持ち上がっていた髪が下りて癖のない髪が肩にかかると同時に、エリスはバンダナを前方に放り投げる。バンダナは地面に落ちず、手で整えられもせず中空に自ら布を広げてみせる。
ディーヴは、エリスが呪文を唱え始めるとようやく状況を察し、身構える。白い無地だったはずのバンダナに、極限まで水で薄めた空色絵の具で描いたような魔術式が現れたと思ったその時には、すでに元通りに消えていた。
バンダナからひと筋の水流が飛び出す。腰を落として避けるが間に合わず、頭をかすめて白い帽子が吹き飛んだ。
帽子の下に隠れていたのは、頭の両側から生える白い羽だった。人間の島の街中で見かける鳩の羽の大きさに近い。とてもじゃないけど、あの羽を動かしたところで彼女の体が空を飛べるとは思えない。
死のまじないって何のことだ、と思った時、例によってサクルドの解説が声なく届いた。
エルフを殺めた者は、現世と来世に絶えず肉体の苦痛を与え続ける呪いで縛られる。マザー=クレアが直に施したその魔術式から逃れられる者はいない。だからよほど事情があるような場合を除き、エルフを殺そうとする魔物はいない。
エリスはその体に俺を完全に隠す位置へ移動すると、再び呪文の詠唱を始める。ディーヴはその場を離れずに、今度は立て続けに襲い来る水流を待ち構えた。鈍い動きでいくつかかわし、拡散の魔術壁を展開してやり過ごし――
呪文にしては短い、かすれた声で精いっぱいという感じの叫び、と同時に手のひらを広げた右手を横に突き出すようにするディーヴ。すると、エリスの放った水流のひとつをわしづかみにした。
見上げている、エリスの背中に緊張が走るのがわかった。そう感じた刹那にはもうエリスが倒れかかってきて、とっさに受け止める。エリスの腹には棍棒のような氷の塊が突き刺さっていたが、貫通してはいなかった。
悲鳴のようなサクルドの注意に、俺の組んでいた魔術式がこの一瞬で完全に失念して、魔術壁が消えてしまったことに気が付く。
ふらり、ディーヴがしんどそうによろめいたのが見えた。しかし彼女はすぐに態勢を整え、決意に満ちた表情で地面を蹴った。
魔物といえば、人間よりも跳躍力に優れているらしい。戦闘ともなれば走ったり歩いたりよりも、跳んだり跳ねたりが中心になる。ライトに体術を習っていると、あのでかい図体が跳び跳ねるものだから局地的な地揺れを起こしてしまうから大変だ。
ディーヴは、精いっぱいという風に顔をしかめて走り寄ってくる。時間の猶予はあったはずだが、混乱とめまいに襲われる俺は、再び魔術壁を発動する余裕はなかった。
いっそ安らかにも見える表情でぴくりとも動かないエリスを腕に抱きこんで、俺はきつく目を瞑った。