78/ 神楽 歩
文字数 4,118文字
休み時間。意図せずシュゼットの席の横を通り過ぎた時、彼女から声をかけられた。
シュゼットは普段、俺のことを魔物名で呼ぶが、まさか学校ではそうするわけにもいかず「高泉」と名字で呼ぶようになった。
一応、結論を出す前に教室内の一通りを見渡したが、いつもと変わった様子は見えない。
奴の正体を知る前から、いや、覚えている限り、去年入学した始めから。あいつはああして外を眺めるのが好きだった。そういや、何度席替えをしてもいつも窓際の席だが、運がいいもんだな。
何が不服なのだか俺にはわからないが、シュゼットはいよいよもって遠慮なく呆れ顔をさらけ出し始める。
……生まれてこのかたこんなこと言われた覚えはないのに、どこかありきたりな台詞であるように感じるのは何故だろう。
ここまでコケにされても冷静に応対出来る俺はちょっと大物なんじゃないか。あえて間抜けなことを考えて、俺は芽生え始めた苛立ちをやり過ごす。言われるがままに目を閉じて……。
休み時間、トイレに行くのを止められてこの結末はあんまりだと思った。
不可侵条約を締結するため、アクアマリンが要求したのは、
軍師を務めた神楽歩の処刑だった。
不思議だとは思わないか? 確かにこの戦いでは、
人間側からの攻撃で魔物に多数の死傷者が出て、
それを指揮したのは神楽歩だった。
だからと言って、人間と魔物双方にとって歴史の変わり目、
大事な局面をいち個人の処遇ひとつで決めてしまうなんて!
なんとまあタイムリーなことに、本日の歴史の授業は三百年前の人間と魔物との戦争についてだった。俺が、その神楽歩の生まれ変わりだというのがわかったのはつい先週のことだというのに。
今の俺なら、魔物側がどうしてそんな条件を出したのか心得ている。魔物の思想として、全体を救うための個人の犠牲をいとわない、というものがある。例えば大量殺戮を快楽のために行う者があれば、同胞であろうと構わず死刑に処す。シヴァ・ジャクリーヌのようにアクアマリンへの造反をもくろみ、私兵をたくわているようなら、実際に行動する前であっても処刑してしまう。それがアクアマリンの魔物達の法である。
だから、人間への報復は軍全体ではなく、それを率いた神楽歩だったのだ。大勢の同胞が殺された、その報復に同じ数だけ人間を殺してしまえ、ではなくて。あくまでそれを先導した個人の罪を裁く。
これはシュゼットに聞かされたことだが、さらに、人間に伝えられていない事情がもうひとつ。神楽歩は、当時のソース、織江心の正体を知っている人間だっ
た。魔物を遙かに超える魔力を持つソースは、人間側の旗頭となれる存在だ。神楽歩のような影響力の大きな者の口からソースのことが語られれば、ソースは人間に周知されるだろう。魔物がおそれたのはそっちだった。
実のところ、織江心は人前でソースの圧倒的な魔力をさらけ出したが、例えばソースは転生し世代を超えて存在するというような詳細を人間に広く伝えはしなかった。そりゃあそうだろう。彼女の望みは、魔物と人間がいがみ合わず、争いのない平穏な時代を作ることだった。ソースの強大な魔力は人間にさえ畏怖されるもので、差別の対象ともなり、あるいはその力を悪用せんとする輩だって出てくるだろう。
そんな扱いに耐えられるのは自分のような、希望の欠落した人間だけだと思っていたのが彼女だ。後世のソースのため、その真実を伏せたのは自然な流れだと思う。
神楽歩はアクアマリンで公開処刑されたが、
人間はその場を見聞きすることを許されなかった。
彼の最期の言葉は後に魔物から伝えられた。
このような形で死を迎えるのに悔いはないか、
との問いに彼はこう答えた
神楽歩の処刑が人間に見せられなかったのは、死の間際、彼がソースについて口にする可能性を危ぶまれたからだ。ついでに、魔物側からの問いかけの内容も、改竄して人間に伝えたものであるらしい。
実際、魔物は
貴様は軍を動かして我らが同胞を数多殺させたが、自らの手で殺めたことはないな。
来世の貴様には特別な罰が下されることだろう。
このような争いを起こし、人間の未来に貢献したところで自らに残るのは罪ばかり。
後悔はないのか?
語っているシュゼットが妙に詳しすぎるので――以前も思ったことだが、ほとんどエメラードを離れたことのない彼女にしては、アクアマリンの内情に通じす
ぎている――どうしてかと訊ねてみた。これはアクアマリンにいる彼女の片割れ、ブルー・フェニックス=フォボスからの情報だという。
また、神楽歩に罰が下るかということも何の根拠もない出任せだ。いや、正しくは、問いかけた魔物による希望的観測に過ぎない。断罪竜による神罰の対象は「同胞殺し」に限られていた。
「たとえ次の私に罰が下されようと、
その次の私は幸せな時代に生まれるだろう。
我が家族、共に戦った同胞達、
これから生まれる子供達にとっても同じ事。
その為に我が生涯を捧げたことに悔いなどあるはずがない」
……くぅ~っ、かっこいいねぇ、しびれるねぇ!
それでもって、彼は自分の亡骸を家族と同じ墓に
入れて欲しいってことだけを最後に望んだのだそうだ
どうでもいいけどこの教師、自己陶酔が激しすぎるな。
歴史の次の六時限目はホームルームだったが、その題材は進路指導だった。まぁ、高校二年の二学期だからなぁ。
配布されたプリントに卒業後の志望進路を第三希望まで記入し、教卓に用意された箱へ提出する。担任は別室で、進路について悩みを抱えた一部の生徒と個人
面談をしている。実を言うと、俺もその、進路に悩みを抱えた生徒に当てはまるかもしれない。担任に相談するつもりはこれっぽっちもないが。
自分が特殊な存在――魔物にも恐れられる無限の魔力を持った、源泉竜ソース=アイラの力を受け継ぐ者――であると判明するより以前から、俺には明確な希望進路はなかった。そもそも、趣味と呼べるようなものは特になく、例えば友人とつるんだり適当にテレビや音楽を流したりして、余分な時間を浪費するだけの日々だった。
何か特別に打ち込んでいるものでもあれば、わずかばかりでも進路への足がかりになったかもしれない。例えば。
俺の前の席の近藤は、子供が好きだから保育士を目指すというし、教卓の前の席に座る高橋は子供の頃からピアノをやっていて、有名な音楽学校に合格するために一年生の内から受験対策などをしてきたという。物心ついた頃から列車の運転士になりたいという夢を抱いてきたという、隣の席の丸山は、卒業したらすぐに鉄道会社に就職すると心に決めているそうだ。
俺には彼らのように、「夢」と呼べるものが何もない。せいぜい、両親が進学した方がいいと言っていたので、どこか適当に進学でもしておこう。漠然と、そんなことを考えていた。何の具体性もない、こんなの「進路について考えていた」内に入らないだろう。
まして、今の人間の島は平和そのものだ。織江心のようにソースとして必要とされることも、神楽歩のように指導者として求められることもないだろう。荒れた時代に生まれた彼らは、その生涯を後世の平和の為に捧げることで道を歩んできた。もちろん、俺に彼らほどの志があるとは思わないが……。
自分以外の何かのために歩んでいける、そんな時代が恋しかった。そんな時代に生きた人々が切望してやまなかった安息の時代に生まれた俺が、こんな風に思うなんてそれこそ罰当たりだ。しかし、きっとこの時代の人間にはこんな馬鹿らしいことを考えている奴だって数え切れないくらいいるんじゃないかと思う……。
考えれば考えるほど、泥沼に沈んでいくようだった。支離滅裂な思考を立て直せないまま、結局俺はホームルームの時間内に進路希望を完成させることが出来なかった。
入り口にぼけっと突っ立っている俺に、後から入ってきたクラスメイトの鈴木が気付いて怪訝な顔を向ける。
何だ、忘れたのか?
市野は目の検査で月に一度、
必ず休むじゃないか
必ずじゃないよ。市野君、四月は
検査が週末に当たったからって休まなかったもん
口ではそう言いつつ、俺は少しも納得していなかった。
マージャの目は見たものを瞬時に石化させる、魔術の目だ。人間の視覚障害者のそれとは違う。そもそもあのゴーグルが視覚障害に因るものだということ自体が偽りだったはず。どこで、何の検査があっていうんだ。
背後から、遅れて教室に着いたシュゼットが――涙さんじゃあるまいし、転入してきたばかりの彼女と登校を共にしたら何を言われるかわかったもんじゃない。だから意図的に距離を置いて歩いている――それ見たことか、と言わんばかりの冷ややかな眼差しを向けてきた。