58/ 尽きかけの魔力
文字数 4,672文字
朝の水汲みで水源までの道を歩いていた時のことだった――以前、単身で無事に水源までたどり着いたことが評価され、毎朝の日課に一人で行動することが正式に認められた。だから俺は今、ひとりきりでここにいる――この数日は立ち上がることさえ少なくなってしまったヴァニッシュが、道の先に立っていた。
だが、それは狼の姿で。人間の姿でいても獣の耳としっぽを隠せなくなってからというもの、彼は狼の姿に戻るのを避けているようだったから、その姿でしかもこんな場所にいることに違和感を覚えた。
噂というより都市伝説だろうか。聞くところによると、自分と全く同じ姿をした幻に出会うと、その人は近い内に死んでしまうとか何とか。
合ってるような合ってないような……
生き物が死を迎える直前にはね、
魔力が少しずつ肉体から離れていくの。
肉体が完全に滅びるまで、
その魔力は本人と同じ姿かたちをとって、
あてもなく周囲をさまよう……
そして最後、本人の目の前に現れる。
自分のドッペルゲンガーを目の当たりにした魔物は覚悟を決めて、
死に場所を求めて旅立つんだって
ライトがね、言ってたの……
セレナートもみんなも、ティアーから、
寿命のことはあなたにだけは絶対に教えないでって
口止めされてたんだけど……
でもヴァニッシュのことについては、
ティアーは何も言わなかったからって
ライトらしい屁理屈ではあるが、今の俺にはありがたい采配だ。
気づけばうつむき加減になっていた視線を、セレナートに向ける。すると、彼女はやや不服そうに、頬の内を抗議にふくらませていた。
故人を惜しむ気持ちが強すぎると、その相手を亡霊として現世に縛りつけることになってしまう。だから魔物は、たとえ同胞であっても死に対して過剰反応はしない。……そういった事実を聞かされたところで、俺はやっぱり人間でしかない。いきなり、魔物と同じように、愛しい人の喪失を嘆かないなんて……。
ツリーハウスへ戻ると、大樹に背中を預けてぐったりと座り込んでいるヴァニッシュの前に、ティアーがいた。しばらく遠目に観察してみると、ふたり揃っ
て、その姿勢のまま身じろぎひとつしない。いや、覚えている限り、ヴァニッシュは昨日の朝方からその場所を動いていなかった。
ため息を吐きつつ立ち上がると、ティアーは重たい足取りでこちらへ向かってくる。
俺がワー・ウルフの寿命について知ってしまったことは、ティアーには伏せてある。そのため、ティアーはヴァニッシュの体調不良を、ワー・ウルフと
いう種としての寿命だとは明言しなかった。嘘をつくのは嫌いだという彼女のこと、病気だ何だと具体的な虚偽をするのではなく、俺には言葉を濁して伝えるだけだ。
ライトは朝食を調達しに出かけ、豊は小屋で眠っている――本来、朝食は豊が夜起きているついでの仕事なのだが、今はベルが不在で俺達の就寝中、小屋を守る者がいなくなってしまうので、豊がその役を担っている――そしてエリスは、今朝の船で帰ってくるというベルを出迎えるため、昨日の内からオルンの小屋に厄介になっている。
アクアマリンからの船は本来、夜に出航し、エメラードに着くのも翌日の夜になる。しかし運悪く、今回は海の調子が危なかったとかで時間帯がずれてしまったそうだ。太陽光に弱いヴァンパイアであるベルが、たいそう気分を害しているであろうことは想像に難くない。
懸案事項は多々あれど、自分の仕事分担はこなさなければならない。とりあえず俺は朝の食材を焼くたき火を用意することにした。その火おこしが完全に終わったかという時に、ベル達が姿を現した。
おかえりー、と言いつつティアーが彼女達の元へ駆けていったので、俺も後を追う。天気の良い午前中、きっと不機嫌にしているだろうと思っていたベル
は、意外なことに至って真面目な顔をしていた。彼女の背に、見慣れない人影がある……おそらくここまで、ベルがおぶってきたのだろう。
すっとんきょうなティアーの声につられて、ヴァニッシュのいるはずの方向へ目を向ける。ヴァニッシュは、木の幹に爪を立て、それを頼りに立ち上がろうとしていた。そしてこちらを目指そうというのか、一歩を踏み出すが、つまづいて膝から着地してしまう。
状況をいち早く察したらしいベルが、何者かを背負ったままヴァニッシュの元へ急ぐ。
ベルの背負っていた誰かを見るや、ヴァニッシュは言葉を失った。
背負われていた人影は、ベルよりずっと大柄で、しかしかなり細身の男性だった。たぶん、直立すればヴァニッシュよりやや背が低いくらいだろうか。下はぶかぶかの黒いハーフパンツだが、上は女性ものの白いワンピースで、いくら細身と言っても上半身をピチピチに締め付けている。
どこかくすんだ金色の髪はうなじより長く伸び、前髪も目を隠すほどに伸びすぎていて、あまり清潔感はない。頬がうっすらとやつれていて、全体的に、あまり健康的には見えない姿だった。
ひざまづいたまま、ヴァニッシュのすがるような視線がエリスへ向けられる。それを受けて、エリスはひるむように半歩ほど後ずさった。
――ああ、たぶん俺は、彼女と全く持って同感だった。そんな彼の顔を見て、湧き上がってくるのはただひたすらに、嫌な予感ばかりだったから。
方法論としては可能だけど、そんなお馬鹿なこと誰もしないってことよ。
自分の命を削って相手に施ししようなんて酔狂な魔物はそこのお馬鹿ちゃんだけ。
今回の場合でいえば、そこに倒れてるのは寿命でなくて魔力不足なの。
だから無理やりにでも魔力を補給しちゃえば、
もういっぺん目を覚ますかもしれないわねー、
というお話なわけ
たまらず、ティアーが膝をつき、右の側からヴァニッシュを抱きしめる。
コイツが、アンタにそんなことして欲しくて
遠路はるばるエメラードまでやって来たとでも思ってんの?
アンタに会うために来たに決まってるじゃない。
それでアンタが死んでたら、こいつの苦労は水の泡ね。
お弟子ちゃんじゃないけど、
エメラードまでわざわざ死にに来たようなものだわ
そういえば、かなり前に豊がどっかでそんなことを言ってたっけ。ベルも意外と物覚えがいいものだ。
ゆるりと、すっかり力を失ったヴァニッシュの左手が動く。それは青年の顔先を目指していたようだが、そこで止まる。ヴァニッシュは銀の力を持ち、同胞――魔物に触れることは出来ないのだ。
そんな彼の心情を察したのか、ティアーが横から手を伸ばし、横たわる青年の長い前髪をかきあげた。