90/ キリー
文字数 3,504文字
昨晩、俺とトールで、キリーがここを訪ねた場合の戦略を立てておいた。トールの推測が正しいなら、キリーは地脈の精霊であるローナに手を出さない。彼女に狙われているマージャは、ローナの側にいるのが最も安全だろう。
第一、マージャの能力ではキリーを一瞬にして石化してしまう。ある意味、一撃必殺としては必要な能力ではあるが、俺達はキリーを殺したいわけじゃないから戦力としては微妙なところだ。
もちろん、殺さないつもりで対峙するなんて無謀だとわかっている。展開によっては、なりふり構わず全力で戦わなければ、俺達が殺されることになるだろう。
ほどなくして、石平原の地平線から点のような影が見えた。今日はうっすらと雲に覆われて、見渡せる限り白く染まった空と灰色の石の地面が、どこか陰気で気を滅入らせてくれる。
大岩の転がる地面の悪さをものともせず、落ち着いた足取りで歩いてくるそれは徐々に人の形を取り始める。必要以上に長く感じる待ち時間は、じれったくさえ思えてきた。
小屋と、その前にいる俺達と一定の距離を保ち、彼女は立ち止まった。背の高い人間の男並みの体格をして、その身の半分ほどはあろうかという常識はずれの大きさをした鉈を持っている。
黒く長い髪と瞳、小麦色に焼けた肌、そして何よりも面立ちが、ライトにうり二つだった。女性らしいというより筋肉質な胸にさらしを巻き、腰にゆったりとした布を巻いているスタイルもライトと同じだ。
ただ、冴え冴えとした表情はライトと正反対だ。厳しそう、とも、悲しそう、とも違う。ただ、表情に動きがなく、芝居に使われるお面のようだ。これが、目まぐるしく感情を表に出すライトの、実の娘なのか。
前世の私はゴブリン族で、今のマナと同じく、
ある日その苦痛から解放された。
しかし、見たものを石にしてしまう目のせいで
他の生物と共に生きることは叶わない。
それだけならまだしも、私は悪夢に襲われた。
眠る時には、元の、呪われたゴブリン族に戻る夢。
そして、目覚めている間は、
かつて殺戮の衝動をたのしんだ、
ゴブリンという種に戻る夢だ
ゴブリン族のまじないから解放された私には、
かつてのような殺人衝動はなかった。
だからこそ、ゴブリン族の過去の所行を憎み、
その本能が再び目覚めるか
もしれない未来を怖れた。
なれば、その本能が眠っている今の内に、
この命を絶てばいい。
死は終わりではなく、次なる生において
真の解放を迎えるための通過点に過ぎないのだから。
そして、生まれ変わったのが今の私だ。
タイタンに生まれた私には、
醜悪なゴブリン族に戻るのではという怖れはない。
転生によって、忌まわしい種から解放されたのだ。
ソース、仲間と言うのなら、
マナの苦しみを知っているだろう?
内心はどうだか知らないが、表向きはさしたる動揺もなく、キリーは静かに訊ねる。
俺ならまだしも、ゴーレムであるトールに断言されてしまっては言い逃れは出来ない。表情の乏しいキリーの顔ではあるが、かすかに、呆然とした絶望感をにじませている。
それがなくたって、マージャのことをよく知りもしないで
殺して楽にしてやろうって考えだけで十分に馬鹿げてるけどな。
自分がそうしたからって、みんながみんな、
生きる苦しみから逃げ出して死のうなんて考えるわけじゃないのに
自分の発言との矛盾を指摘されると、ごく普通に論理的な人間だったらぐうの音も出ない。それでも反論はあきらめていないのだろう、とりあえずといった感じで、キリーは口をつぐむ。
キリーが言うように、マージャは今も、
いくつもの苦しみを抱えているだろうよ。
そうだとしても、あいつに死ぬ気なんかないよ。
散々手を尽くして俺を仲間に引き入れたのは、
望みを叶えるためだ。
あいつは死ぬことじゃなく、苦しみの中で生きながら、
ゴブリン族をまじないから解放する方法を探す道を選んだんだ
俺の横から進み出て、小馬鹿にしたようなことをトールが言う。ただでさえ一触即発の空気を感じた先からそう喧嘩を売られると、必ずしも戦いたいわけじゃない俺の心臓に悪い。
キリーは、その手に持っていた大鉈を構えようとした。戦闘態勢に入ろうとするのをみすみす許すわけもなく、トールが彼女の懐に飛び込み、肘で当て身をくらわせにかかる。
ああ、それにしても……ライトがキリーを殺してやろうと思った気持ち、こうして話してなんとなくわかった気がする。
転生してゴブリン族から解放されたと信じたい自分と、向き合いたくない真実と目を背けながらそれに徹することさえ出来ず、自己弁護に戦い続ける。そうやって、キリーは生きてきたのだろう。そんな姿はただひたすらに、哀れだった。