翌日、同じような流れでエメラードが見えてきた時もすでに日は沈んでいた。
アクアマリンから船が出て、安全を確信したヴァニッシュと豊が部屋に戻ってくると、四人揃って盛大にため息。これでエメラードまでは安心して休める、なんて言ってからまた丸一日経過したってことだ。適当に数えて四十八時間、個室に缶詰状態はちょっと滅入るよなぁ……。
ところで、着いたらどうするんだ?
まさかすぐに森に入るわけじゃないだろ
身体がなまると言いつつストレッチをしている豊が訊ねると、ヴァニッシュは、
……俺はベル達に報告しに、先に戻る。
連れてきたソースのことは、初日はいつもオルンに頼むらしいから、今回もそうしよう。
護衛はティアーと豊に任せる
船着き場から見える位置に住んでるドワーフだよ。
ガーゴイル職人なんだけど、って言ってもわからないよね。
そうだ、もう甲板に出ていてもいいんじゃない?
ティアーとヴァニッシュはそう言うが、まだエメラードは小さく島の影が見えるくらいで、そう急ぐこともないんじゃないかと思う……けど、別に反対する理由もないので、深く考えず従うことにした。
甲板に出ると、すぐに異常に気がついた。が、ヴァニッシュや豊は何てことないという顔で、ティアーに至ってはそいつらに向かってにこやかに手を振っていたりする。害はないんだろうと判断し、改めて空を見上げる。
船からの白いあかりの中に浮かび上がるのは、十体ほどの石像だ。二足歩行の大柄な獣にコウモリのような羽が生えている。それらを彫刻で毛並みまで再現するというのもなかなかの腕前だとは思うが、かつ空を飛ばせるというのは何かすごい技術でも施していたりするのだろうか。
あれが、ガーゴイル。
職人が石に魔術を刻んで、一刀一刀に魔力を込めて彫ってって、
完成したらこうやって自分の意思で行動できるようになるんだ
……割と高度な魔術だから、誰にでもできるわけじゃない。
それに、自由意思があるとはいえ術者の定めた命令に背く行動はできない
こいつらの場合、アクアマリンからやって来る船の見張りくらいしかすることがないってことさ。
あと万が一、アクアマリンの連中が船団で攻めてきた時、先頭に立って突撃することになってるんだっけ?
どうでも良いことのように語る豊に、ヴァニッシュは頷く。人間の側からすると、アクアマリンとエメラードの魔物は仲が良いわけじゃない、くらいのことしか伝わっていないので、こういった理解が及ばない。豊の態度から察するに、現状、アクアマリンとエメラードが全面戦争になる可能性は低いと思っていていいんだろうか。
エメラードの船着き場へ停まると、ガーゴイルは一斉に砂浜へ降り立つ。そして、そのまま動きを止めた。
エメラードの港へ着いても、人間の船員は誰も降りなかった。縄ばしごを渡され、下りるなら勝手にやってくれ、と言われるが、その口調に嫌味は感じられない。まるで当たり前のような口ぶりなので、腹も立てようがない。
港はフェナサイトとアクアマリンで見たそれとは全く趣を異にしていた。というより、港としての体裁はほとんど整えられていない。陸から伸びる木製の桟橋があるだけで、ただの砂浜としか言い様がない。灯台もないのに無事に到着したというのもさりげなくすごいような気がする。……あとはガーゴイルの石像の群れか。危うく忘れそうになったが、これだって俺の常識の範疇からは外れてしかるべきだったっけ。異常現象に慣れつつある自分がちょっと悲しい。
船からの光をそのまま跳ね返してしまいそうな森の影に圧倒される。エメラードの第一印象は、漆黒そのものだ。人工的な光によるアプローチが一切ないんだから。普段、そんな光に囲まれて生活してきたから、それがないことがこんなにも恐ろしいなんて知らなかった。
知らずに硬直していた身体が、ティアーの呼びかけにに正気を取り戻す。振り返ると、ヴァニッシュが縄ばしごの設置を終えたところだった。
結局、下りたのは俺達四人だけで乗船する者もないようだ。
森へ入るヴァニッシュと別れて、砂浜と森の境目に建つ小屋へと歩いていた。砂浜を通り、ガーゴイル達の横を通り過ぎても、彼らは微動だにしない。
小屋を目前にしたところで、タイミング良く、カンテラを持った小柄な中年男性が出てきた。小さいとはいえ全身にしっかりと筋肉がついていて、まるでだるまのようなシルエットだ。柔らかそうな髪が頭頂部にだけ生えて、固そうな髭が顔の下半分を隠している。
長旅ご苦労。よく来たな、ソースに新入り。
ああ、名前はいい。どうせすぐ使わなくなるんだから
うーんと、あたしよりわかりやすく説明してくれるのがいるから詳しく言わないけど。
要するにあたしが人間名を使ってたように、敦も魔物名をつけてもらって、エメラードではそっちで呼ばれるようになるってこと
そういえば、ティアーという本名を知ってからは彼女を「涙さん」という、仮の名前で呼ぶことはなくなったんだよな……。
そう複雑そうな顔をしなさんな。本名が名残惜しいってのはわかるが、
フェナサイトに帰ればその名で生活するんだ。
魔物名は魔術式を描くのにも使うんだから、
マジックアイテムのひとつだとでも思ってりゃいいだろうよ
オルンだ。魔物の名前を知ったら、
余計な飾りはつけないでそのまま呼んでやりな
あまり思い出したくないけれど、柴木先生が「魔物に敬称はない」って言ってたっけ。要するにそういうことか?
つい先日まで人間だったとは思えない、魔物を相手にしての堂々たる豊の態度……って、ちょっと待て。
輪廻転生ってのがあるのかないのか、人間は定義していない。前世の記憶を確かに持っている、と証明した人間がいないからだ。いくら口上で「私は前世の記憶を持っている」と訴えてみたところで、それを他人に認知させる手段は存在しない。
何も珍しいことでもない。
魔力を持ってるもんなら誰だって前世の記憶を持ってるさ。
ま、詳しいことは中で話してやるからさっさと上がりな。
ティアーにゃ食糧調達を頼む。
昼にエリスが来てな、そう言付かったよ
俺と豊を小屋の中へ押しやりながら、オルンはティアーへ指示する。と、少し嫌な予感はしたのだがティアーはその場で狼の姿に戻ったらしく、オルンはティアーの脱いだものを抱えて入ってきた。
そうだな。俺もなんとなくだけど、魔物名をもらったとしても豊には敦って呼んでもらいたいような気がする。人間の、ごく普通の友達同士だった頃を偲ぶ、数少ない形見のようなものだから。
小屋に入るとその部屋には窓がなく、カンテラの小さな灯火だけが頼りだった。何だかんだで月やら星やらの光が降っていた外よりも闇が濃いが、何故だか室内にいるというだけで奇妙な安心感があった。
もう一部屋あって、こちらはかなり強力なあかりがついているのか、ドア下のすき間から伸びる光の筋がかなり濃い。
悪いがこっちの部屋には寝床しかないんでな。適当に座ってくれや
寝床、とおぼしき部分は、おそらく敷き布団くらいの厚みに葉っぱが積まれていた。
もしかして、これがエメラードの魔物の標準的な寝床なのか? といったささやかな不安を込めて豊を見やると、深くため息をついて頷いた。
詳しいことを説明するのはエリスの役割だからかいつまんで言うが、
転生すっと、記憶は魔力に、感情は肉体に宿る。
魔力名ってのは本人の魔力を解析して、魔力と相互反応する韻を組み合わせてつけられるもんだ。
だから魔物になっちまった以上、前世の名を名乗るのが確実だ。
いい名前をすでに貰ってるのに、 手間をかけて新調するこたぁないだろう
でも、たとえば豊みたいにヴァンパイアになったとたん前世の記憶が入ってきたりしたら、けっこう混乱するんじゃないか?
もしかして、船の中で俺の血を吸って魔力を回復したのがきっかけだったりするのだろうか。
記憶だけあっても他人事と同じだよ。
その時の気持ちは持ってないんだから。
たま~にいる、魔力と肉体揃って転生した奴なんか質が悪いらしいけど。
なんでも、前世で恋人だった相手に押しかけてとかなんとかさ
魔物に限らず、人間の中にも魔力を持って生まれる者はいる。
そういうのは前世の記憶も持っているだろう
前世からの恋人、なんて設定はドラマとか映画とかでもよく見かける。だからといって、現実にそんな記憶を持っている人がいるなんて話、人間は誰も信じない。
もしかしたら、そうした物語を伝えようとした人達は魔力――前世の記憶を持っていたのだろうか。そうして、その事実を人間に伝えようとしても一蹴されて、誰からも相手にされなかった。なんてこともあったのかもしれないと想像すると、なかなか気の毒な気がする。
オルンにそう命じられ、豊は特に疑問もなく小屋から外へ出ていった。
エメラードに着いたっていうのに、見張りが必要なことでもあるのか
おいおい、ソースよ。エメラードについてどう聞かされているんだ?
どうって……アクアマリンの魔物はソースが人間の中にいるのを嫌がっているけど、
エメラードの魔物は人間を守ろうとした、その……源泉竜の意思を尊重するって
間違っちゃいないが、別に積極的に人間を守ろうなんて慈善精神で生きてる奴なんざそうはいない。
俺の知る限り、ティアーとヴァニッシュだけだな
エメラードで待ってるっていう、ティアー達の仲間は違うのか
ああ。会えばわかるだろうがそんなに甘やかしてくれる連中じゃないさ。
アクアマリンの連中がソースを狙うのは思想上の理由からだ。
エメラードの連中は、 単にソースを千載一隅の最高級食材と思ってるんだよ。
この世にたったひとり、神竜に匹敵する魔力を備えた肉体だからな。
そりゃあ、単に人間の肉には変わりは ないんだが、
それだけご大層な付加価値があれば美味いもん食ってる気にもなるだろうよ
……すると、何か。最初に襲ってきたヴァンパイアみたいなのがこの島にはそこいら中にいると。そう思えってことか。しかも、気の持ちようなんかで食材として付け狙われるなんて冗談じゃない。