24/ 黒曜石
文字数 3,648文字
部屋の中に誰もいないようなので、首から下げている小瓶に宿るサクルドへ朝一の挨拶を伝える――柴木先生に寝込みを襲われた苦い経験から、眠る前にこの小瓶を外すことはしなくなった――俺が返事を期待しているわけではないからか、サクルドの返事はない。
外へ出ると、エメラードは白い霧に覆われていた。木々の間から森をうかがおうとしても、一寸先も見えない有様だ。
確かに、俺の血を吸っただけでも豊は大分元気になった。あの時とは状況が違うってことか。
オルンの左隣に腰を下ろすと、皮に包まれた何かを差し出された。
俺の小屋はライトがこしらえたもんでな。
そこに住む対価として、俺は連中に頼まれた道具は何でもすぐに作る。
そのナイフは毎回、ソースがエメラードに来たら渡す手はずになってるのさ。
エメラードに来た以上、今後は狩りをしたり肉をさばいたりするだろう
そうさな……一言で言えば、魔物の中でも飛びきり変わった生き方をしてきた連中だな。
ライトは暇さえあれば人間の島へ出掛けて、わざわざ人間の仕組みの中で働いたりする。
エリスは世にも珍しい純正のエルフだ。
エルフってやつは基本的に、エルフ界にこもって地上へは出てこないものなのでな。
ベルとはそうそう出会わないから、語れるようなことは知らん
そうだ、彼女のために作られた装備を豊が使ったってことは、ベルはヴァンパイアってことだよな。なおかつ、ベルは「所長」と呼ばれる、ティアー達のリーダーってことになっている。
……そうなるとますます腑に落ちないものがある。ヴァンパイアにとって人間は格好の餌のはずだ。そのヴァンパイアが人間を助けるための集団を立ち上げたりするものだろうか。
ティアーと豊が戻ってきた。今朝は川の方で魚を、ついでに見かけた鳥を落として捕まえてきたという。魚は豊の持つ木のバケツに入っているが、鳥はその場で息の根を止めたらしく、ティアーが両手に二羽ずつぶら下げてきた。
オルンに貰った石ナイフを、豊に渡す。ほとんどの魔物はティアーやヴァニッシュがしているみたいに、手で生き物をさばくらしい。だけど普段通りにしても俺への見本にはならないから、豊がナイフを使うのもこれきりだろう。
うろこを落とした魚を腹からさばき、内臓を取り出す。バケツに入っていた八匹全ての作業を終えると、次は砂浜へ出向いてさばいた魚を洗った。
頻繁に母親の手伝いをする生活をしていたら魚をさばく機会もあったかもしれないが、俺は自分で食事の用意をする時はチャーハンみたいな単純な料理だったり、出来合いのものに頼っていた。だから魚をさばくことさえ、これが初体験だった。
朝食後、狙い済ましていたんじゃないかと疑いたくなるような絶好のタイミングで、狼のヴァニッシュが迎えに来た。
彼女は言った。手をつないで行こう、と。
俺は何の違和感もなく、その手を取った。少し前までなら照れたり下心だったりで激しく心を動かされたはずなんだけど。いつの間にか、彼女の傍にいるのが自然なことと思うようになっている。
今はまだ、何の技術も身につけていない俺だから、彼女の、みんなの背中を追っているようなものだ。少しでも早くみんなに追いつけるように、今日から頑張らないと。そんな気持ちで、森の中へと足を踏み出した。
森は緩やかに、その深みを増していく。地面が下がっているわけでもないのに、自分が沈んでいくかのように感じられた。
木々の高みが、自分が気にかけない間に増していたからだ。海辺から見える範囲では、木の背丈は人間の島でもありふれた程度だったのに、今はてっぺんも見えない。
本物の森の中というのは、こうも薄暗いものなのか。分厚い葉に覆われて、光があまり届いてこない。この緑の天井の上に集落があって何人も暮らしている、と言われても信じてしまいそうなくらいだ。
そんな天井にも、時折隙間がある。こもれ日というより、柱のように光が降り注ぐ。そんなスポットを狙ってか、その光の中ではたいてい、異形の獣が身体を休めている。日光で魔力を回復する魔物にとって、こういう場所は貴重なんだろう。
年中、夏に近い気候というエメラード。木々のおかげで直射日光に悩まされることはないけれど、とにかく蒸し暑い。全身から噴くように汗が垂れ、実際はそうではない地面までぬかるんでいるかのような錯覚をする。
地面の高低差はあまりないが、張り出した木の根が地面に与える凹凸は、身体にかなりの負担をかける。またぐというレベルに留まらず、全身を使って乗り越えなければならないこともある。その逆で、半円を描くように盛り上がった根の下を苦もなしにくぐれることもあった。
先導するヴァニッシュ、手をつないで歩くティアー、肩に乗るサクルド、後ろを守っている豊。サクルドはともかく、他の三人が足を乱すことはない。だから、気が抜けたらすぐにも泣き事を吐いてしまいそうな自分を必死で律する。
エメラードにはソースを狙っている連中がいくらでもいる、というのはやはり事実なんだ。俺はついていくだけで精一杯だけど、みんなは明らかに張り詰めた
緊張感をまとわせている。長い道中でも、会話らしいものはほとんどなく、殺気に近い気配まで漂わせて周囲を警戒している。
聞くまでもなく俺のためなんだろうけど、途中、何度か挟んだ休憩の時間も静かに過ごしていた――ぎゃあぎゃあと騒がしい感じの鳥の声さえ、遥か彼方から申し訳程度に響いてくるだけ。俺の方は息が上がって、とても話すどころじゃない。
これまでの道のりと比べたらずいぶんと潤沢に光が射してるな、と感じる場所に出た。
その瞬間、つないだ手から、前方のヴァニッシュの気配からこわばりが消え、ほっとした空気が流れた。サクルドは笑顔を残して消えてしまう。
着いたよ、というティアーの宣言に、力が抜けそうな体をなんとか支えた。腰を抜かしたところで誰も責めないと思うけど、なんとなく格好つけていたかったんだ。