ツリーハウスの小屋の中は、日中、太陽光に弱いヴァンパイアのベルのために完全に閉め切られている。エリスが先頭に立って戸を開けると、光の筋がくっきりと床に刻まれて、徐々にドアの形に切り抜かれていく。
意外なことに、ベルはおなじみの不機嫌顔ではなかった。感情の見えない、上から何か塗り固めたようにのっぺりした無表情。
これはこれは。また、
おもしろくなさそうな顔してるな、所長
豊から見ると、ベルの印象は俺と異なるらしい。言われてみれば、俺が夜眠っている間、少なからずベルと交流する時間のある豊の方が彼女との付き合いは深いんだよな。
おもしろくないっつーか……
正直、つまらない話よね。
せっかくのソースの力を、
ゴブリンを救うために使おうなんて。
物知らずってのはほんと、罪深いものだわ
はあ~あ。何だかんだ言って、ベルがこう深刻にため息を吐いているのはあまり見慣れない。
アタシもそろそろ、身の振り方ってものを決めないといけないかしら?
アタシだけじゃない。ゴブリンの味方なんかして、
全ての人間、多くの魔物を敵に回す覚悟がアンタにある?
ふん。お弟子ちゃんはツメが甘いわね。
訊くだけ訊いて返事はまだもらってない。
そうでしょ? おチビのお顔に書いてあるわ
まあね、とそっけなく呟いて、豊はあさっての方を見やる。確かに豊から同じ主旨の言葉を受け取ってはいたけれど、彼は答えを求めたのではなく、友人とし
て俺に忠告してくれただけだと解釈していた。しかし、それが許されるのはあくまで友人のよしみであって。他の誰かにでも同じ疑問を投げられたなら、俺は誠実な受け答えをしなければならない。俺がしようとしているのは、そういうことだ。
これが覚悟って言えるのかわからないけど……
俺は、自分自身で決めた道は、
たとえどんなことになっても自分で
責任を取らなきゃいけないと思ってる。
誰を敵にしても、望んだ結果にならなかったとしても、
誰のせいにもしない。こいつやゴブリン族や、
敵になった誰を恨んだりしないよ
よっこいせ、とまぬけな言葉を吐き出しつつ、ベルが重たく腰を上げ立ち上がる。しかし、立ち上がってからの動きはすばやかった。
ここでアタシがアンタの首かっさばいても、文句はないってわけね
いつのまにか、彼女の指先、爪が鋭利に長く伸びている。その爪先が喉仏に狙いを定め、つんつん、おしとやかにつついてみせる。
アタシの生まれた時代はね、
ゴブリン族が現役まっさかりの外道だった頃でね。
アイツらに救いの手を差し伸べるなんて、冗談でも吐き気がするわ
目を細め、口の端をつり上げるようなその笑みは、悪ふざけのように美しかった。
本気で俺が許せないなら、
ベルは俺の覚悟なんか聞かずに
とっくに斬り殺してるだろ
彼女の真意は読めなくても、これだけは確信を持っていた。ベルは、少なくとも今は、俺に危害を加えるつもりはないのだろうと。
そう吐き捨てるベルは、今度こそ俺にもわかるあからさまさで、つまらないものを見たとでも言いたそうな目を向けた。
閉ざされた窓際、彼女の定位置で横になり、ベルは俺達に背を向けた。
これまでのやり取りを、それこそ興味なさげに傍観していたエリス。その横で口を引き結んでいたマージャは、いつものごとくゴーグルで目を隠しているため真意のほどはさっぱり読めない。
目は口ほどにものを言う、とはその通りだが……その目が隠されていると、むしろ身体そのものの状態は大いに参考になる。マージャは、両方の拳を握りしめ、頭のてっぺんからつま先まで凍り付いたように固まっていた。
エリスも、ベルがこんな感じでよく協力する気になったな
こんなにも素早くベルが寝入るわけがないと思うのだが、それとも豊にとっては彼女の耳に入れるのが何でもないことなのか。
別に、エリスもライトも、ベルに従属しているわけではないもの。
所長というのは便宜上の呼び方であってね。
だからベルがどう思おうと、エリスには関わりのないことだわ
じゃあ、エリスはゴブリンの力になること、賛成してくれるのか
深く考えずに訊ねたことを、俺は後悔する羽目になる。
かの時代と違って、今はアクアマリンに魔物の政府を置いている。
もし、解放されたゴブリン族がかつてのままに殺戮を行おうとしたならば、
迎え撃って今度こそ一族根絶やしにしてしまえばいいのよ。
それはベルもわかっているでしょうけど、
ゴブリンに振り回された時代の人間だもの。
わりきれないのでしょうね……
ぽかん、と口を開けて、ただただ間抜け面をさらしている俺にエリスが目を留める。
普段、察しの良い彼女らしくなく。エリスは心底、俺の態度が理解できないようだった。
ほれみろ。何もベルばっかりが
ああいう心臓に悪いことを言うわけじゃないんだぞ
いや、むしろベルってやっぱり元は人間だったんだな。そんな風に、彼女に人間味を感じたのはこれが初めてだったかもしれない。
何を? と、俺と豊とマージャの疑問の声が重なった。
例のまじないから解放されたゴブリン族の肉体には、
特徴があると伝え聞いたことがあるの。
それを確かめるための視診よ。
そういうわけだからマージャ、服を脱いで頂戴
マージャの今日の出で立ちは、ゆったりサイズのデニムのつなぎ――サロペットジーンズとかいうんだっけ、こういうの――だが、その胸元のボタンをふたつ 外し、すとんとジーンズが下に落ちる。トランクスをはいた素足が、実にあっけなく現れる。つなぎの下には長袖のワイシャツを着ているため、さながら登校前に制服を着替えている最中のような、実にエメラードになじまない有様である。
理解が早くて助かるわね。
どういうわけか、まじないの解けたゴブリンの肉体は
本来の姿には戻らない。基本は人間で、
竜族とは別の意味での無性別とされているわ
人間とも魔物とも違って、竜にはオスもメスもない。あるいは、オスでもありメスでもある。
エリスの言った視診という響きと、マージャのいち早い行動から嫌な予感を感じ取った俺は、ここは本人達にまかせておくことにして豊と一緒に小屋を出た。
暮れかかりの太陽が、大森林を赤く染め始めた頃合いだった。
どかどかと、盛大に音と砂埃をまき散らして駆けてくる巨大な影。どこか既視感を覚えるが、のんびり懐かしんでいる場合ではない。
案の定、でっかい熊の死体を担いだライトが、空いている方の肩でタックルを仕掛けてきた。相手にダメージを与えない程度に加減した、拡散の魔術壁でライトを受け止める。ばちっと音を立てて散った小さな火種を、ライトは満足げに握りしめた。
その図体にぶつかられちゃたまらないからさ。
つーか、来客を迎える時は熊料理って決めてるのか?
俺が初めてエメラードに来て、ベル、ライト、エリスと対面した夜も、彼が振る舞ったのは熊の肉だった。
おうよ。なんたってこいつぁ巨人族のとっておきだからなぁ!
得意げに解説が続く。なんでもこの熊はタイタンの集落に暮らしている熊で、名をハンドベアーというらしい。遙か昔、巨人族が人間五人分ほどの背丈を誇った当時は、この熊を手のひらの上で飼い慣らしていたという。
それにしても、夕食の狩りにしては帰ってくるのが遅いとは思っていたけど。タイタンの集落まで出かけていたとなれば納得だ。
ライトが突きつけた太い人差し指をたどった先には、ツリーハウスの足場に腰を下ろし、所在なく宙に足を投げ出したマージャがいる。
ふうん……今日はそっとしといた方がいいのかね、疲れてるようだから
遠目に見ただけでマージャの様子に気がついて、さらに気遣う方向に考えられるあたり、ライトも魔物にしては人が良いというべきか。
明日から、俺の時と同じで水源と火起こし担当になったし、
ゆっくりさせといてやれるのも今日だけだからね。
ライトがそれでいいっていうならそうしてやってくれよ
今日の様子を見た限りでは、マージャはあの頃の俺以上に体力面に不足がみられる。しかも、無制限に魔術を放てる俺は火起こしもマッチ以上の気安さだったけど、マージャはそうもいかない。先人の築いた文明の利器に頼らないと、火起こしっていうのはしんどくて厄介なものだ。
もう聞いてるか? おまえさん、
明日から昼夜分の狩りに出てもらうってこと
ああ。慣れるまでは
俺とマージャの分だけでいいっていう
自分の身は自分で守れる。一応、俺もそういう風に仲間内で認められるようになった。ということは、みんなと同じ仕事をひとりで任されるということでもある。そうは言っても一人前にはまだまだほど遠く、経験の足りない俺だ。狩りひとつとっても数えたくないほどの難題を抱えている。
俺は食材にふさわしい獲物がこの島のどの辺りにいるのかまでは知らない。それを完全に見定められるようになるまでは、俺と常に行動を共にすることが出来る、小さなサクルドに指示をしてもらうしかない。
さらに言えば、現状の俺には魔物ほどの腕力はない。人数分の肉を確保しても、それを仲間の待つツリーハウスまで運ぶのは骨と思われた。
狩りに使う道具として弓矢の指導を受けてはいるが、実践に使用出来るかといえばそれはまだまだと言える。こんな有様でどう狩りをするかというと、それは全て、魔術を使って何とかしろ、というのがエリスからの助言だった。俺の場合、狩りは貴重な実戦の場でもある。訓練以外で魔術を使い、魔力の加減を身につけるのに、日常生活に必要な狩りは手頃な機会ではある。
以上、様々な不足を鑑みて、俺に全員分の食糧確保を任せるのは荷が重い。ついでに、ベルの心情としてマージャを彼らの暮らしの中で養うのは気分の良いものではない。元より俺が引き受けた厄介だ、責任を持って面倒を見るように、ということで妥協点を見出したのだった。