62/ おやすみなさい
文字数 2,181文字
同じ小屋の中、すでに眠っているエリスとライトに気を使ってのことだろう。本当にかすかな、ともすれば俺の左手側で寝ているライトの、巨体に似合った騒々しいいびきにかきけされそうな、ティアーの囁き。
仰向けで横になったまま、頭だけを彼女の方へ向ける。ティアーは左の手のひらを頬に敷く形で、体ごとこちらに向けていた。力なく放置された右腕、その手のひらが胸の前にある。
かけがえのない仲間を、何もしてやれないまま、ただ見送るしかなかった。そんな夜なんだ。とても安らかに眠りにつけるような心境じゃない。
いやならいいんだけど、とおまけのように呟く彼女はどこか寂しげで、第一断る理由もないようなことだ。
いいよ、と答えると、彼女は嬉しそうに笑ってくれて、横たわったまま全身を使ってこちらにすり寄ってくる。……これは、伝える内容もさることながら、体勢までいかにも気恥ずかしい。
幸い、この小屋は外の光を可能な限り遮蔽する作りになっている――元はといえば、ここはライトがヴァンパイアとなったベルのために用意した住
処なのだから、当然のことだ――闇に慣れた目ではおぼろながらに相手の表情も見えるが、頬の赤らみくらいなら暗闇がごまかしてくれるはずだ。
俺は、何だかみっともない類の勇気を振り絞って、ティアーに目いっぱい近付いた。そりゃあ、エリス達を起こせないっていうこの状況で、取るべき形は内緒話くらいしかないってもんだ。
つたないながらも懸命に集め、並べた言葉達だった。自信なんてあるはずがないけど、それを聞いたティアーは、この上なく満足そうに笑ってくれて、俺はそれだけで十分に報われた心持ちだった。
本当はね、あたし、月を見るのは嫌いなんだ。
日が沈んで月が出ると、そろそろ眠らなきゃ――
ああ、今日も大切な一日が終わってしまうんだな、
って気持ちになるから。
それと……あたしにはただの狼だった時の気持ち、
覚えてないっていうか、残ってないんだけど……
敦が会いに来てくれて、日が暮れてお家に帰って。
月を見上げる時はいつもひとりで、
そんな時間はなんだか寂しかったような気がする
ティアーがそっと、音を立てないよう配慮して小屋の戸を開ける。すぅっと一斉に入り込む月明かりが彼女の横顔を照らす。出て行く直前にこちらに顔を向けて、
たった今、俺の伝えた歌詞で、ティアーが歌っていた。薄い木の壁一枚隔てただけの、向こう側で。それは薄っぺらなはずなのに、いやに遠くに感じられた。まるで彼女のいるのが、もう手の届かないところであるかのように。
自分が作ったとはいえ、こう、実際に歌われるのを耳にすると照れくさくもなる。……そう思うんだけど、ティアーの歌声はどこか、はしゃいでいるような明るさと、気落ちしているような暗さといった、相反した音色をしていて。
――生のおわりは寂しいけれど 今日まで絶えずそそいでくれた
命の 恵みに ありがとうって言わなくちゃ
……俺の伝えた覚えのない、それどころか聞き覚えさえない歌詞を、彼女は歌に乗せた。それきりティアーの歌声は止んでしまう。
この程度のことでも文句をつけてきそうなベルは今、この小屋にいない。だからかまわないだろうと思って、俺は小屋の窓を押し上げ、全開にした。
そこに、ティアーの姿はなかった。使い古し、くたびれた包帯。そして、彼女の傷跡を隠していたはずのその包帯の中身が、その形のまま、ツリーハウスの足場にぽつんと置かれている。その下に敷かれているのは、森の中での暮らし相応には薄汚れた、白いワンピースだった。
どこか遠く、……森の奥深くだか空の彼方だか、とにかく見当もつかないような遠い場所から、獣の遠吠えが聞こえてきた。