時間感覚も距離感も忘れ始めていたけれど、疲労でへばる前に目的地に到着したのは何よりだった。
そこは道もないような森の中にあってはひどく場違いな、中規模とはいえ立派な洋館だった。その屋根を覆うように、ほとんどすき間もなく木々の葉が茂って
いるので、空からの光の恵みは一筋さえ射してこない。小さなサクルドの光だけが頼りでは、洋館の全体像はつかめないのだが、おそらく二階建てで各階五部屋くらい、といったところか。
サクルドが俺の目の高さまで浮かび上がり、告げる。そこで気がついたのだが、サクルドは飛んでいる間、羽を動かしていない。となると、その羽は飛ぶためのものじゃないってことか? だったら何のためについてるんだろう……。
わたしは、敦さまが本当に必要としてくださった時にしか、
外にいることはできないんです。
館が目の前にあって、安心なさったみたいですね
苦笑混じりに言うサクルド。嫌みはいっさいないけれど、当人としては照れくさいことこの上ない暴露である。
なんて考えていたら、その姿は地に落ちる滴のように、はじけて消えた。
サクルドの光だけがこの場を照らしていたので、彼女を急に失ったことで視界が不安定になる。仕方なしに、俺はまばたきを繰り返して闇に慣れようとつとめた。
でもさ、来たのはいいけど誰もいないように見えるんだけど。
ジャックって奴に、早く豊を診てもらわなきゃまずいんじゃなかったっけ
俺がそう思った根拠は、サクルドの消えた後の暗闇だ。普通、建物の中に誰かいるのなら、多少なりともあかりが漏れてくるはずだから。
いると思うよ。ジャックはよっぽどのことがない限り、この館を出ないから
……夜はあかりが漏れないように細工しているんだ。
あかりがあると、上から見たらこの場所が知られてしまうかもしれない
空を飛ぶ魔物もいるんだろうか。そしてこう神経質にしてまで、知られてはまずい場所なんだろうか。ここは。
涙さんが呼びかけると、手を触れてもいない玄関の両開きの扉が、奥へ開いていく。中からジャックさんとやらが開けたのかと思ったのに、そこには影も形もなかった。
戸を開けたからといって、さっそく中のあかりがもれてくるということもない。吹き抜けの玄関ホールには若干大きめのランプがあるものの、廊下を照らすのは一定の距離で床に置かれた、皿の上の小さなろうそくだから。
そういえば、電灯なんていうのは人間社会の利器なんだったな。さすがに森の奥にわざわざ電気を通したりはしていないんだ。
でもすごいな、森の中にこんなでかい家があるなんて。
ヴァニッシュ達だけで建てたのか?
ここはね、仲間のひとりが自分だけで建てたんだよ。
もう何百年って前のことなんだけど。
あたし達の島に人間の建築技術を持って帰ってきたっていうんで、とっても有名なんだ
魔物でも人間の技術を必要とすることなんてあるんだな。もっと、野に暮らし自由気ままな生活でもしているものかと思っていた。
確かに、野良猫だって雨に降られたらそのまま降られっぱなし、なんてことはない。雨宿りをする。魔物だって、雨や風を妨げる宿を求めたって不思議ではない。
ヴァニッシュが気遣うように、俺を見やる。確かにもうへとへとで、この上に階段というのはきついものがあるけど、あと少しの辛抱だ。
いざ行かんとしたところで、上から声が投げられた。見上げると、手すりを強くつかみながら、ゆっくりと階段を下りてくるおじいさんが見えた。顔も手もしわくちゃで、動くのもつらそうだ。こんなことなら、無理をしても俺達が二階へ行った方が安心だったかもしれない。
ああ、調子が良くてね、
久しぶりに薪を集めに森へ出てきたんだよ
……いくらなんでも、人間が単身で夜の森をうろつくのは危ない
昔は私も狩りに出ていたんだ。
レーシィが多少のひいきをしてくれるから大丈夫
暖かで気性の優しそうな人ではあるのだが、今は豊の方を何とかして欲しいんだけど……。
ところで――豊の気配が変わっているね。
と、いうことは……
それだけで事情を察したのか、ジャックさんは沈んだ表情の涙さんの頬を撫でる。かなり腰が曲がっているので、頭を撫でようにも手が届かないのだろう。
そうか……ヴァンパイアへ変わったのだね。
なぁに、今の豊は孤独じゃないからね。
これまでそうしてきたように、助け合っていけば道を外しはしないはずだよ。
特に、敦君。
これからも豊の良い友達でいておくれ
名乗る前から俺の名前を知っている、なんていうのはもう疑問に思う必要はないんだろう。涙さんとその仲間は、俺以上に俺のことを知ろうとしてきたのだろうから。
それはともかく、豊のことだったら今さら、言われるまでもない。
もちろん。豊だって、俺のために戦ってくれたんだから。
挙句、こんなことになっちまって……豊には恩を返さなきゃ
ジャックさんがまた階段を上るのを待つようだとかなりの時間を消費するので、ヴァニッシュがジャックさんを背負うことになった。ジャックさんはその背中から、涙さんに俺の使う客室を整えるように言いつける。
豊は二階の客室のベッドで休ませることになり、
よく眠っているところを悪いのだけどね、豊。
一旦、目を覚ましておくれ
ジャックさんが声をかけ、やや力をかけて豊の頭を撫でる。そうしてようやく、豊は目を開けた。何ともまぶたの重たげな、緩慢な目覚めだった。
……ジャックがいるってことは、出張所だろ?
俺、どうしてたんだ
豊、蘇生を急ぎすぎたんだね?
無理をするから、急激に魔力を消費して、意識を失ったのだろう。
敦君がここまで運んでくれたのだよ
まだ意識がもうろうとするのか、ただ寝ぼけているのかわからないが、豊が言葉を返すのにはかなりの時間がかかった。
敦、疲れただろ。
ただでさえ慣れない森を歩くってのに、大の男背負ってきてさ
つまらないこと気にすんなよ。
豊こそ、俺のためにこんなことになって、ごめんな
結果的に、豊は俺のために死んでしまったのだから、お互いさまで済ませるレベルではないとも思う。けれど、豊がそう言ってくれるなら、これ以上食い下がるべきじゃない。そういうしつこいやり取りを嫌う奴だから。
なんか、妙な気分だな。目が覚めたら、自分がこれまでと全く別の生き物になってるなんて
そりゃそうだろ……しかも、
ヴァンパイアなんて最悪もいいところだ。
なんせ……