99/ ツヴァイク
文字数 4,885文字
今夜めでたく投獄期間を終えるカリンには、身元引受人がこの牢まで迎えに来る。その存在を待たずして、俺はうとうととまどろんでいた。その眠気に耐えかねて、冷たい石造りの床に横たわり、毛布を引き寄せて眠りの態勢に入る。
日の出と共に目覚め暗くなれば床につく。もうすっかりそんな生活に順応していたから、夜更かしはすっかり不得手になってしまった。閉ざしたまぶたの代わりに聡くなった聴覚が、カリンの大きなあくびを聞き取ったのを最後に、俺は意識を落とす。
どれくらい経ったのだろう? 当然わかるはずもないが、不快な違和感に身じろごうとして、俺は異変に気が付いた。寝相でも悪かったのか、牢の壁に背中が張り付いたような冷たさがあった。その壁に、ただ寄りかかっているのとはわけが違う――体が、動かない?
事態に動転して動いた部位は、よじろうとした肩と、立ち上がろうとした足。肩を軸に寝返りを打とうとしたのが、ただ左肘がむなしく空振りし、足は地面を蹴ることはない。
漠然とした恐怖に目を見開くと、この牢獄生活を共にしてきた古ぼけた毛布が、繊維をちらして溶けていくのが見えた。その毛布と共に、自分の腹部が、まるごとゼリー状の何かにくるまれていた。
すでに裂け、複数に分かたれている毛布の隙間から、自分の身につけるシャツの溶けだしているのと……音もなく、自分の皮膚がはがれ、ゼリーの中に溶けて消えたのが……。
声の限りに、叫んだ。ここがどこか、自分は何か、ありとあらゆる情報が、感情が弾け散るように消えていく。ただひとつの事実と、恐怖だけを残して。
ブロッブという魔物がいる。スライム状の体をしたそれは、生物の肉を溶かして喰らう。あるいは生物の体内に入り込み、脳を溶かして自らが一体化することで、相手の体を乗っ取る。これは、この状況は、その前者であると。
甲高い声で、誰かが雄叫びをあげた。それが誰なのか思い出せない、そう自覚するより先に、高波のように絶え間なく襲い来るパニックに、脳みそがぐるりぐるりと回転しているような気がした。動けないはずなのに視界も回る。
めちゃくちゃに暴れる足は放っておいて、ゼリーをひきはがそうととっさに触れた手が、とぷり、音を立てて吸い込まれる。そうしてその手の自由も失い、爪が溶けるより先にはがれ、指の先が減っていくのを呆然と眺めた。
何より恐ろしいのは、こんなことになっていて、痛みが一切ないことだった。この現象に沿った痛みになど襲われていたら、それこそ正気など跡形もなく粉砕されるのだろうが、ともかく。痛みもなく、こんな風に溶かされて消えて、俺は死ぬのだろうか? 死ぬ、死んでしまう、このままでは、死ぬ、死
……!
すぐにも涸れてしまった喉に、悲鳴がかすれ、消えていく。自分の声が失われたような錯覚に、今度は、ぼろぼろと涙がこぼれだした。しゃくりあげ、せき込んでも声ひとつ出ない。
滲み、ぼやけてきた視界に、ゼリーの中がどうなっているのか判然としなくなってきた。そのことにひどく安心して、俺は動きを止めた。その途端、全身の力が抜けて、今度こそ体の自由が失われた。甲高い声が、どこか遠くで泣き叫んでいる。
冷たい、しかし男でも女でも通りそうな華奢な声が、投げてよこされた――死にたくない、なら。その一言が、投げ捨てかけていた俺の思考を引きずり戻した。
理屈で考えていられるような状況ではなかった。死にたくない、ただただ、それだけが意識の全てを占める。
ほとんど機能していなかったが別に閉ざしてはいなかった目が、ひとまず涙がおさまったことで光景をクリアにする。横倒しになった視界、牢の向こう側に男が立っていた。
助けて、という懇願さえ待たず、男は言い放った。ただでさえ働かない頭をいっそう混乱させるような要求。
目をこじあけるように、男を凝視する。黒い瞳は周囲への関心が薄い淡泊な表情。長髪を三つ編みにして、右肩に乗せるように
前へ垂らしている。藍色の、締め付けのないゆったりした衣服からさえざえと白い腕が伸びている。その腕は密やかに漂わせた威圧感に対して、存外細すぎてど
こか頼りない。外見だけなら、同年代の人間とほぼ変わりないと思う。顔立ちに幼いところもあるから年下めいて見えたりもするが、落ち着き払った表情のせい
で気安い雰囲気がない。
聞き覚えのある言葉をことさら強調して、男は、ほんのかすかに笑みを浮かべた。
目に見えるものだけが全てではない。そう言われた場面を思い出しながら、俺は目を閉じた。
狭い空間に、強烈すぎる魔力。じりじりと焼け付くような圧力を放つそれは、よく覚えている。厳しいようでいて、けれど時折、こっそり優しく微笑んでくれる少女。
ほろり、どうやら最後らしい涙がこぼれ落ちると、何だか頭がすっきりしたような気がする。どうなっているか知るのがおそろしくて、ゼリーの方を見ることが出来ず、一心に視線の先の男を見つめる。
男は、かすかに頭を動かした。俺には頷いているように見えた。
それからの動きは機敏だった。彼はぴたりと指先を揃えた手を持ち上げ、真横に切るように走らせる。その動きを追うように、鉄格子にひと筋の炎が描き出された。その炎が火勢を増して垂直に下りてくると、ありえないことに鉄格子は燃え尽きて煤になり、石の床へ散らばった。
もはや牢として機能しない空間に音を立てて上がり込むと、今度は人差し指を差し向ける。指先からこぼれ落ちたのは、やはり青い、炎のひとしずく。
ちらとその軌道を追うと、嫌な感じに赤く染まったゼリーに触れたそれが、燃え尽きることなく広がる。自分の腹の上の激しい火に戦慄した、次の瞬間にはゼリーを燃やしきって跡形もなくなっている。背中を壁に押しつけられていた力を失い、体が倒れ込んだ。
腹が地面につく感触に、事の経過から想像してしまうようなそれはなかった。吐き気をこらえながら、膝を地面にこすり上げるようにして身を起こす。見えない枷も青い炎は焼き尽くしていて、手のひらで腹の状態を確かめると、そこに異常がないことを伝えてくれる――そんな、まさか。疑いが晴れず、改めて目線を下にやる。今度こそ使いようがないまでにぼろきれと化した毛布と、着ているシャツの不自然に欠損した部分から覗く、極めて自然な人間の肌色。
何なんだこれは。幻覚でも見せられていたのか? あのおそろしいひとときと、自分の取り乱しようを思い出して、果たして俺は今青ざめているのか頬を赤らめているのか。いずれにせよ、かなりの間抜け面をさらしているんだろうことは想像に難くない。
いたたまれなくて、見ず知らずの男を正視出来ず、逃げた目の先にいたカリンも驚きを隠せないようだった。訝しげな、そしてどこか不安げな顔をしている。
いつまでもこうしていても仕方がないし、とりあえず窮状を救ってくれた何者かに礼を述べ、頭を下げた。
気を取り直したらしいカリンが勢い良く立ち上がるが、その彼女はまだ閉ざされた檻の中だった。
神話時代、おそらくは現在を軽くしのぐ科学力を持った人間達がいた。彼らの技術はこの世界を守護する、畏敬すべき神竜を冒涜するもので、現在のアクアマリンとエメラードにあたる場所で魔物と人間の戦争は起こった。
かの人間達は戦力として、人造的に強化した合成生物、キメラを作り出した。不死鳥――フェニックスは、その一体に数えられる。一体、しかしフェニックスは「ひとり」ではない。ブルー・フェニックス=フォボスと、レッド・フェニックス=ディモスの二対でひとり。彼らは見るもの聞くもの感じるものといった感覚を共有していて、フォボスがアクアマリンに、ディモスがエメラードに別れて過ごし、今もつながっている。
このふたりがふたつある魔物の島にいるのは、それぞれの島に暮らす魔物を牽制しているからだという。かつて魔物同士の戦争が起ころうとした時、争いを起こすならどちらも等しく、不死鳥の炎によって焼き尽くすと宣言した。
あまりにリアルな死の恐怖から解放され、これまでに得た情報を記憶のどこかから拾い上げて、このように考えを巡らせることが出来るまでに俺は回復した。この話の一部も、牢の中でお互いの暇つぶしのために繰り広げた、カリンとの数多の雑談の中に紛れていたものだ。
ブルー・フェニックス=フォボスが、先程の危機から俺を救ってくれて。今も俺に肩を貸して長い長いのぼり階段を共にしている彼のことで。レッド・フェニックス=ディモスはエメラードで、俺が魔物の中で暮らすようになってから多大に世話になった彼女、シュゼットのこと。
俺達の後ろをとぼとぼと、肩を落としてついてくるカリンにかけた言葉は平坦だ。
一から十まで話してやらないとわからないか。
その点はアースと同レベルなのか……
アースの悪評は、奴の養父である
春日居 要の評価に直結するということを忘れるな。
アースはそこまで頭が回らないだろうから、
パートナーとしてそなたが気を回せないでどうする
ここまで辛辣に言われたらカリンも、う~と唸りつつ口を尖らせ、しかし反論を続けることなど出来なかった。それでも心底から受け入れられないあたり、自分の信念に忠実な人なんだろうなぁ。
俺を解放するために力を尽くし、今もこうして議論を交わしているふたりには悪いが、俺は半ば放心状態で彼らの会話も話半分に聞いていた。
ツヴァイクがアースって呼んだのと、カリンが言った梓というのは同一人物だろうか。そしてその人物は、カリンのパートナーだという。
彼女にそういう相手がいるという事実に、何故だかほんのわずか、胸がちくりと痛む。何故、なんて白々しいか。きっと、羨ましいんだ。俺は、そうなりたかった相手を、失ってしまったのだから。