29/ エメラードの水源

文字数 3,426文字

 寝起きの頭で無意識に身体を動かすと、激痛とはいわないが地道に肉体を痛めてやる気を奪う感覚に全身を支配された。
いてててててっ
おはようさん。もしかして筋肉痛かぁ?
そ、そうだよたぶん

筋肉痛が翌日にやって来るのは身体が若く健康的な証よ。

良かったじゃない。

それより、あんまり騒ぐとベルが起きてきてどつかれるわよ

 呑気な調子で口々に言ってくるライトとエリスをうらめしく思うも、まぁ他人事だしなと自己完結する。どうやら俺は朝っぱらから少し混乱しているらしい。
てーか、何だか筋肉痛とは違う痛さもあるんだけど、ところどころにっ……
ほぅほぅ、どのあたりだ?
右の頬とか、足とか腕とか……とにかく色々……

ヤブ蚊に刺されただけじゃない。

その内免疫が出来て何とも感じなくなるから、安心なさい

 ああ、そういえば自然に身を置くと言うのにそういった予防をすっかり失念していた。蚊に刺された、ってレベルよりいささか強い痛みなんだけど、住宅街にいるような蚊とは種類が違うのかもしれない。


 人間の島だったら、刺される前に防虫剤という予防法、刺されたらかゆみ止めという対症療法があるのに、エメラードではそれらが何一つ存在しないのだから厳しい。


 それなりに騒いでしまったように思うが、隅で体を丸めているベルと、大の字になっている豊にはあまり影響がなかったようだ。

……起きたか、敦
 しずしずと扉を半ばまで開けて、ヴァニッシュが顔を覗かせる。
……俺だけでも用は足りるんじゃないか、エリス

ダメダメ。初っぱなから甘やかしてどうするの。

それにティアーだったらまだしも、あなただけだとあの子、脅えるでしょう。

敦、あなたの最初のお勤めよ。行ってらっしゃい

はいよー……

 ガチガチに固まってるんじゃないかと思える両手を突っ張って、棒のような両足でどうにか立ち上がる。ふらふらの足取りで向かってくる俺を、ヴァニッシュは同情するような、それでいて厳しさも感じられる表情で見守っていた。




 ツリーハウスからは東と西の空が見渡せる。東の空に、まだ明けたばかりの太陽が見えるので、夜明けからまだほんのわずかしか経っていないのだろうと推測する。


 昼に活動する魔物達は、夜明けと共に起床し、森が完全な闇に支配される前に寝床へ入るのが一般的だという。エメラードには電灯もないし、火を用いるのにも魔術で光源を用意するのにも資源が必要になる。だったら夜は素直に寝てしまえというのが普通らしい。


 筋肉痛の体で下りる縄ばしごは生きた心地がしなかった。当事者である俺だけでなく、先に下りたヴァニッシュにも余計な心配をかけてしまう。




それで、俺は何をすればいいんだ?
……水源まで出掛けて、水を汲んで帰ってくる
 ヴァニッシュはあくまで護衛とのことで、俺は大きめの木のバケツを二つ受け取った。何者かに襲われた際、頼りのヴァニッシュの手が塞がっていた、なんて笑い話にもならない。

水源ねぇ。

すぐ近くを流れてる川の水じゃダメなのかな

 昨日の日没前、ティアーがこの周辺を案内してくれた。歩いて五分とかからない場所に川があり、魚はたいていそこで調達するのだと教わったのだが、水源とやらの話はまだ聞かされていない。

……俺達だけなら川の水でもかまわないが、

人間は簡単に腹を壊すから、念の為。

それに水源の水は美味しいし体にも良い。

魔物や野生の獣さえ、可能な限り日に一度は水源まで出向いて水を飲むくらいだから

 そういうヴァニッシュの言葉に嘘はないようで、水源までの道のりは楽だった。動物や魔物が日常的に通って出来たのだろう、歩きやすい獣道が一筋、目的の地点まで伸びているから。




 道中、せっかく同行しているのだからと先ほどから気になっていたことを訊いてみる。

そういやさ、ヴァニッシュだけおとといまでと服が変わってないか? 

ティアーも豊も着替えてないのに

 昨日、ヴァニッシュはずっと獣の姿のままだった。人間の姿をしたヴァニッシュと顔を合わせたのはおとといの夜に別れたきりだったが、今朝、ヴァニッシュはかなりの軽装をしている。下は膝下までのゆったりとしたズボンで、腰のかなりきわどい位置で固定している。上は布一枚を適当に縫ったようなアンバランスさで、左鎖骨のすぐ下あたりに結び目があって腹が見えている。布の色は白が基調だが、そこかしこに青い絞り染めの模様があり、全体的にうっすらと空色がかっているように錯覚して見える。

……本当なら、俺もティアーのように獣に戻りやすいラフな服を着ていたいんだ。

けど、大の男がこう薄着で人間の島をうろうろできないから

 と、困ったような、あるいはどうでもいいようにもとれる表情でヴァニッシュはぼやいた。




 水源というくらいだから山奥の湧き水のようなものを想像していたのだけど――人間を襲う類の魔物は人里に近い森に住みつくため、フェナサイトでは平地にある森よりは山の方が安心とされている。だから資材とする木の伐採は山で行うが、それに関する仕事を専門とする人達くらいしか山深くには立ち入らない。やはり魔物に遭遇する可能性はゼロにはならないから、庶民にとってどちらも縁のない場所であることには変わりない――そんなわけで湧き水については小学校の理科の授業で触れられただけで、実際には見たことも触ったこともないのだけれど。


 目的の水源とやらは、湖だった。ただしフェナサイトでいうところの普通の湖とは趣が異なる。




 湖を囲う木々までは通常の森のままなのだが、湖のところどころに生える木の数々は、淡い黄色で塗り重ねられたようにあいまいで湖の情景に溶けるようになっている。木が密集していないので見上げればあるはずの空はそこになく、プールの中から見上げる水面と似たゆらめきがあった。


 不可思議な景色に見とれていると、空の水面に、しずくが落ちたような波が広がった。数秒待ってもそれ以外の変化がないので地上の湖へ目をやると、その中央にたたずむ少女が目にとまる。距離があるので詳細は知りようがないけれど、たたずまいからどことなくおどおどとした様子が伝わってきた。




……あれが、エメラードの水源だ
 水に立つ彼女を指差し、ヴァニッシュが静かに告げる。

あれって……湖じゃなくって、

あの女の子がそうだってこと?

……そうだ。せっかくだから挨拶するといい。

俺が離れればきっと寄ってくる。

この場所で騒ぎを起こしてまでソースを襲う者なんているはずがないから、心配いらない。

話の終わりを見計らって迎えに来る

 俺自身には心配はないというのはその説明でわかったけれど、逆にヴァニッシュのことが少し気がかりになった。そう言いながら、諦めるように、寂しいようにも見える表情をしていたから。




 ヴァニッシュが姿を消すのを待ってか、水源と呼ばれた少女はようやくこちらへ向かって一歩を踏み出した。


 今日も恨めしく思う程に風がないため木々はしんとしずまりかえり、容赦ない湿度にじわじわと湧き続ける汗の音さえ聞こえそうな静寂がここにある。その中にあって、彼女の挙動には音が伴わない。水面を歩いているにも関わらず波さえ起こらなかった。




 いつからか彼女の身体は少しずつ水に沈みつつあった。そうして、俺の立つ岸に指をかける頃には目から下が水の中にあり、そこまでしたら疲れるんじゃないかと思うような上目遣いで俺を見ている。この状態からわかる彼女の外見は、空を透かしたような髪と瞳の色くらいのものだ。


 悪いがこのままだと話しにくいので、地面に腰を下ろして目線を近づけさせてもらう。ただそれだけの動きで、まぁ予想通りに彼女は肩をびくりと震わせた。

あ、あの……こちらはセレナート……

その名のまま呼んでもらえたら嬉しい、な……

 少しばかり意外だったのは、そう話す彼女の目には不安や怯えはなく、純粋な好奇心の表情だった。

俺は高泉敦。その内、別の名前を貰うらしいんだけど、今は敦って呼ばれてる。

水汲み当番らしいから毎日顔を合わせるかもしれないんで、よろしくお願いします

ふふ、知ってるよ……

エメラードに来たソースはみんな、

同じことをしてきたんだもの……

 葉に溜まった雫が、葉を大きく揺らせて下に落ちる瞬間のように彼女は微笑んだ。ささやかなようでいて喜びがたっぷり含まれた、見ている方が幸せになれそうな笑顔だ。そんな表情がはっきりわかるのは、そう言いながら彼女が首までを水面から出したからだ。
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登場人物紹介

名前:高泉 敦(こういずみ あつし)

主人公。高校二年生。

ごく平凡な高校生のつもりで生きていたが、この世で最強の「無限に湧き続ける魔力」を持つことが判明。

人間に敵対的な魔物達から命を狙われるようになってしまった。


(敦のアイコンは、主人公=読者自身としても読めるように顔の見えない仕様にしました)


〇〇の色:不明

(〇〇←本編のネタバレにつき伏せています。

吹き出しの色と連動させたいので作者が忘れないようにするためにここに書いています)

名前:海月 涙(みつき なみだ)

高校三年生。敦の姉、円(まどか)の親友。


〇〇の色:不明

名前:長矢 豊(ながや ゆたか)

高校二年生。敦のクラスメイト。

昼間は眠たくなる体質とのことで、不真面目ではないが学校生活では怠惰になりがち。


〇〇の色:深緑

名前:市野 学(しの まなぶ)

高校二年生。敦のクラスメイト。噂好きで学校内の情報通。

成績優秀だがお調子者のムードメーカー。

目に障害がある? とのことで、分厚いゴーグルをかけている。


〇〇の色:水晶のように澄んだ、白混じりの紫

名前:綺音 紫(きね ゆかり)

高校三年生。敦は「キネ先輩」と呼ぶ。

豊と親しいらしい、大人びた先輩。


〇〇の色:紫

魔物名:ティアー

敦を守る側の魔物。狼少女で、秘密が多い?


種族:ワー・ウルフ


〇〇の色:不明

魔物名:ユイノ

敦を守る側の魔物


種族:ヴァンパイア

(変身能力があり、たまにアイコンが変わります。

別の登場人物と同じアイコンですが使い回しではなく、

彼が無意識に過去の知り合いをイメージして変身したせいです)


〇〇の色:深緑

魔物名:ヴァニッシュ

敦を守る側の魔物。物静かな青年。血縁ではないが、ティアーとは兄と妹のような関係。


種族:ワー・ウルフ


〇〇の色:銀色

名前:サクルド

敦に仕えると自称し、彼が望んだ時にしか姿を現せないらしい。

魔物達は基本的に敬語を使わないが、彼女だけは丁寧な話し口。


〇〇の色:新緑のように鮮やかなエメラルド・グリーン

名前:エリス

敦を守る側の魔物。知識豊富で戦闘は不得手だが、いざという時は戦う。


種族:エルフ


〇〇の色:青

名前:ライト

敦を守る側の魔物。仲間内では最も戦闘力に長ける。


種族:タイタン


〇〇の色:紫混じりの黒

名前:ベル

敦を守る側の魔物達のリーダー。ちょっと意地悪? だけど、いざという時は最前線で指揮を執り、頼れる存在らしい。


種族:ヴァンパイア


〇〇の色:薄紫

名前:セレナート

エメラードの水源。


種族:ウンディーネ


〇〇の色:常に多様に変化していて、一定ではない

名前:シュゼット

エメラードを監視する魔物。敦達に対して中立……と言いながら、要事には割と関わって助けてくれる。


種族:レッド・フェニックス


〇〇の色:赤

名前:トール

敦とは子供の頃に知り合いだったが、何故かエメラードで再会することに。


種族:ゴーレム


〇〇の色:茶色

名前:アッキー

トールをゴーレムとして作り上げた、アンデッド種族の研究者。


種族:パン


〇〇の色:不明

名前:フェイド

魔物なのかそうではないのかもわからない、謎の青年。

人間ではないことだけは、確か。


種族:不明


〇〇の色:黄金

名前:カリン (小笠原 楓)

アクアマリン同盟に属する、人間の魔術技師。


〇〇の色:赤紫。ワインレッド。

名前:春日居 梓(かすがい あずさ)

アクアマリン同盟に属する戦士。


種族:人間と魔物(ハーフ・キャット)の混血


〇〇の色:麦穂のような黄金(こがね)色

名前:江波 聖(えなみ ひじり)

アクアマリン同盟に属する戦士。人間でありながら魔物と対等に戦える実力を努力で培った。


〇〇の色:流水色

名前:唐馬 好(とうま このみ)

豊の伯父の、内縁の妻の娘。豊とは5歳くらいの年齢差。謎の言動が多い


〇〇の色:漆黒


大人になった好

名前:春日居 要(かすがい かなめ)

梓の養父で、アクアマリンに住む子供達を見守ってくれる。

代々、魔物の研究者の家系。


〇〇の色:不明

名前:ツヴァイク

アクアマリンを監視する魔物だが、梓達にとっては親しい友人。


種族:ブルー・フェニックス=フォボス


〇〇の色:青

名前:不明

両フェニックスに仕えるキメラ。

(AI変換で作中の外見情報を再現しきれなかったので、このアイコンは「イメージです」ということでお読みください)


種族:ムシュフシュ


◯◯の色:不明

名前:高泉 円(こういずみ まどか)

高校三年生。敦の姉、涙の親友。


〇〇の色:不明

名前:ジャック

人間の島の森の奥で魔物達が生活する、「出張所」の管理人。


〇〇の色:不明

名前:オルン

エメラードの船が着く小さな砂浜に住む技術者。ベル達の協力者。


種族:ドワーフ


〇〇の色:不明

名前:ボーン

エメラードに住む、ベル達の協力者。エリス同様、知識を披露したがるタイプの魔術師。


種族:竜


〇〇の色:白

魔物名:シヴァ・ジャクリーヌ

敦と敵対した魔物


種族:ホムンクルス


〇〇の色:不明

名前:ナウル

エメラードに住む魔物。敦達に対して中立。


種族:ハーピー


〇〇の色:桃色混じりの明るい茶色

名前:ディーヴ

敦と敵対した魔物。大量の虫を使役する。


種族:鳥精霊と人間の混血


〇〇の色:不明

名前:サリーシャ

敦と敵対した魔物。


種族:ブラック・アニス


〇〇の色:蒼白

名前:東 浩一(あずま ひろかず)

豊の旧友だが、仲違いしたことを深く悔いている。


〇〇の色:不明

名前:環(たまき)

愛称はタマちゃん。ごく普通の居酒屋店主。

ユズちゃんの兄。


〇〇の色:不明

名前:穣(ゆずる)

愛称はユズちゃん。動物と遊ぶのが好きな、ごく普通の小学生。

タマちゃんの弟。


〇〇の色:不明

名前:キリー

ライトの末の娘。


種族:タイタン


〇〇の色:紫混じりの黒

名前:ハイリア

アクアマリン同盟・盟主。全身に目玉を持つ。


種族:タイタン族の亜種


〇〇の色:不明

名前:セリオール

アクアマリンの水源


種族:ウンディーネ


〇〇の色:常に多様に変化していて、一定ではない

名前:カンナ

ベルの古い友人


〇〇の色:赤錆色


名前:長矢 実(ながや みのる)

豊の伯父。内縁の妻とその娘と暮らす。料理人。


〇〇の色:不明


名前:長矢 恵(ながや めぐみ)

豊の母。


〇〇の色:不明

名前:岬 結人(みさき ゆうと)

生き物の価値基準は全て「血のにおい」で判断する。典型的なヴァンパイア思想で生きている。


種族:ヴァンパイア


〇〇の色:深緑

名前:式竜

源泉竜直属の竜で、最も重要な使命を与えられた。


種族:竜


〇〇の色:深緑

名前:支竜

源泉竜直属の竜。式竜の使命を補佐させるために作られた。


種族:竜


〇〇の色:麦穂のような黄金色

名前:小竜

源泉竜直属で、源泉竜の憧れを叶えるために意図的に弱く作られた竜。


種族:竜


〇〇の色:不明

名前:巨竜

巨神竜直属の竜だが、勅命を受けて源泉竜領地にいた。


種族:竜


〇〇の色:山吹色

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せっかく登録されてるのでこの公式アイコン、使ってみたかった。使える場面があって良かった。

作者。あとがき書くかもしれないのでアイコン登録しておきます。

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