⑫ 森の朝
文字数 3,812文字
外はこもれ日で透き通るように輝いている。森の木々の分厚さは、夜に見たそれとは印象が違っていた。館の屋根を隠す目的があるらしい部分を除いては、茂る葉の天井は思いのほか軽く見えた。
館は一般的な家屋のおよそ二軒分、といった大きさで、古ぼけているとはいえどこか高級感があった。確かティアー達の仲間が、たったひとりで建てたとか言ってたっけ。それにしても、魔物が森の中で、機械の助けもなくひとりで作り上げたとはとても思えない代物だ。
二階はさして大きくない窓が左右合わせて十もあるのに対し、一階は壁よりガラスの面積の方が多いくらいで、中が丸見えだった。
膝に手を置いたジャックさんの、その手が握っているのはどう見てもマッチ箱だった。森の中に住む魔物達が、火おこしにマッチを使うというのは想像していなかった。まぁ、それを言えば館に住んでいる時点で自分のイメージなんて粉微塵になったようなものだけど。
ティアーが学校に通うには、やっぱりどうしてもお金がかかってしまうから、
ヴァニッシュはそのための学費を稼いでいるんだ。
ワー・ウルフというのはそれほど数いる種族ではないから、
ふたりは本当の兄妹のように支え合って生きてきたんだよ
俺はまだ、魔物としての――「海月涙さん」ではない「ティアー」としての彼女と接した時間が、あまりに短い。「ヴァニッシュ」なんてそれよりもっと短いし、ワー・ウルフという種族がどういった魔物なのかも知らない。
一見のどかな風景のようでも、俺が今立っているこの森は、人間ではなく魔物の世界なんだ。そう思うと心細くて、どうしたらいいのかわからなかった。
ティアーの姿が見えないのは、体を動かすのに不自由しているというジャックさんのために、食材を調達しに出かけているということだった。この時の俺は昨夜の出来事を引きずって胸やけがやまず、とても食事をするような気になれなかったため、彼女には自分の分の食材はいらないと断っておいた。また、ティアーは俺よりも状況を把握していたから、そもそも俺達には悠長に食事をとっている時間の余裕もないことに気が付いていたかもしれない。
なぜかやけに楽しげに焚き火の火起こしをしているジャックさんを眺めながら、手持ち無沙汰に立っていた俺は、木立の奥、遠目にもよく目立つ人の姿を見かけた。銀髪に陽射しを受けて細かな光を散らしながら、ヴァニッシュが歩いて来る。人間の力じゃ易々とは持ち上げられないだろう大きさの岩を胸に抱いて、平然と歩いてくる。それをジャックさんの向かいに静かに置き、俺を見やる。黙りこくって、しかも向こうから話しかけてくる気配はない。なんなん
だ、と思いかけて、
……今一度、ジャックさんの持つマッチ箱を見せてもらう。何度見ても変わるはずもない、そこに書かれているのは繁華街入り口の飲み屋の名前だ。別に飲み屋に入ったことがあるわけではないので定かじゃないが、そういう店ってヴァニッシュみたいにとことん無愛想で口数の少ない男につとまるものなんだろうか。
せっかく持ってきてくれたイス代わりなので素直に腰を下ろす。そういえば、太陽の下でヴァニッシュと会ったのはこれが初めてだっけ――なんて、光をまぶした銀髪を見て今さらのように思う。 たとえばアルミホイルのような、黒を混ぜた感じの重い銀色ではなく。ヴァニッシュの銀色は白みがかっていて、単純にきれいだと思った。
毛が細めなので、髪の量が多い割にはうなじまでの髪型はすっきりと清潔感がある。髪とまったく同じ色をした銀色の瞳は、前髪が短いので目の表情がはっきりと見えてしまう。ただしその解釈が難しい、いつも複雑な表情をしていることに俺はすでに気がついていた。
思わず見とれてしまい、数秒ほどぼんやり眺めていたら、不審に思われたのかヴァニッシュも俺をじっと見つめてきた。
感情が見えにくい――と言っても、無感情に見えるわけじゃない。ただ、あいまいなだけで。今の表情で言えば、泣き出しそうにも笑い出しそうにも見えて、表情の動きが乏しいくせにそこには誰よりもたくさんの感情が詰め込まれているような気さえしてくるんだ。
ついで、というのも何だけど。先ほどティアーが言っていた、ヴァニッシュの耳の有無も確認してみる。頬をさらさらと撫でそうなもみあげが垂れているので
わかりにくいが、確かに人間の耳が確認できる。そういえばティアーも髪型で人間の耳がないのをごまかしていたのだから、ヴァニッシュの髪型も多少なりともその対策としての伸ばし方なのかもしれない。
ジャックさんにうながされ、ヴァニッシュは遠慮がちに右手を差し出す。どう見ても握手の形にしか見えない動きだったので、俺も右手を出し、ヴァニッシュの手を握る。
変化は極端ではなく、ゆるやかに起こった。じわじわと、胸の、心臓だろうと思われる部分が熱を帯びたような気がした。つないだ手はおろか、体の他の部分には一切の変化が感じられないのに。
手を離すと、ヴァニッシュは嬉しそうなそうでもないような、ますます複雑そうな表情を見せた。
口数の少ないヴァニッシュの説明を、サクルドが引き継ぐ。
昨晩、ヴァンパイアにとどめをさした銀の矢のこと、ヴァニッシュが倒れた豊に触れなかったことなどを思い出した。
同じ考えでいたらしく、ジャックさんは満足げに笑う。
その手の仕事というのは、ヴァンパイアの捕獲や退治には懸賞金がかけられていて、それを生業にしている業者がいるらしいと知られている。存在だけは有名だが、だからってその業者がどこにいるかというのを知る一般人はそういない。
サクルドに話題を振って、話を戻す。
手のひらに乗るような小さな小さな彼女の体、さらに小さなその顔が、生真面目に引き締められたのを見て、核心に触れようとしているのを察する。
ごく当たり前に人間の世界に生まれた俺が、一夜にして魔物の世界に巻き込まれてしまったその理由が、きっと、明らかにされるのだろうと。