50/ 彼女が決めたこと
文字数 3,888文字
……水源が。そしてその岸辺に並んで腰を下している、ティアーとセレナートの後ろ姿が見えてきた。背後まで近付いたところで俺はふたりに呼びかける。そんなに大きな声を出したつもりはないのだが、ティアーを驚かせてしまったようで、彼女の肩がびくりと震え上がる。
何事もなかったように立ち上がったティアーの反応は、ごく普通だ。でも、一瞬だけ、正体不明の違和感を覚えたような……。
水に足をつけたままのセレナートの、見上げる瞳は心細げで、見返すティアーの瞳は優しげだった。
水源を離れる前に、ティアーは調達してきたという靴を俺に渡してくれた。
両手のひらに木靴をのせていると、そこにサクルドが降り立って、靴底にあるという魔術式を確認した。
このまま魔術の勉強を続ければ、俺もいつかはこういった魔術式を読めるように、描けるようになるかもしれない。そんな風になれるまで、一体どれくらいの時間が必要になるんだろう……。
セレナートに別れを告げ帰路につくと、いつの間にかサクルドは姿を隠していた。ティアーと合流したから俺の身の危険もなくなったし、何よりこれからするであろう話のために配慮してくれたのかもしれない。
緊張とタイミングを見計らうとので、俺は口をつぐんでしまっていた。そんな態度を心配してか、ティアーがおずおずとそんなことを訊いてくる。
あんなこと、っていうのは襲撃のことだろう。そんなこともあったな、なんてどこか遠く思い返す。俺自身は何も出来なかったし、その直後があまりにも平和なものだから、すっかり印象が薄れてしまっていた。
こんなことじゃ、いけないのに……狼のティアーと再会した夜、誓ったじゃないか。ティアー達に負担をかけないように、いつかは自分の力で戦えるようになるんだ、って。そうならないと、とても同じ場所に並んで立っているとは言えないって……。
はたと、自分が想いを告げることを先延ばしにした理由に思い当たる。涙さんは、誰よりも輝いて見えた。ティアーは、いつでも俺を守ってくれていた。俺は、そんな彼女に見合う自分なのか、確信がなかったんだ。せめて彼女の負担にならないだけの力を身につけてからでなければ、一方的に負担をかけるだけになってしまうんじゃないかって……。
返事がないばかりか足も止めてしまった俺に、数歩先を歩いていたティアーが歩み寄る。
うつむきがちだった目線をまっすぐ前に向けると、ティアーと真正面から向き合うことになった。一体俺はどんな顔をしてしまっているのか、彼女が少々たじろぐ気配があった。
緊張の極みの中、それでもその重い言葉は、震えることなく声に出せたと思う。
その後のティアーの反応は、正直、目を背けたくなるような……俺の心には痛すぎるものだった。
彼女は、何の気なしに首をかしげ、こう言った。
今日はとても天気が良い。ツリーハウス前の広場から覗ける空は、皮肉なくらいに青く澄み渡っていた。今日という日、この場所で流された血と命を思うと、一点の曇りもない美しい空はまるで嫌味のように思える。
俺はツリーハウスの扉の前に立ちどまり、うじうじと空を眺めて時間稼ぎをした。先ほどエリスと交わしたやりとり、その後のティアーとの結末。エリスと顔を合わせるのが憂鬱だった。
あえてティアーのことを考えないように、と言い聞かせる中で、ふいに思い出された。去年の夏休みの最中、涙さんとアネキに付き合うと約束した、花火大会の夜。出かける直前に、俺は同じ団地に住む中学生の女の子に呼び出された。
女の子は俺に恋人として付き合って欲しい、と告白してきた。俺は彼女のことを知らなかったが、彼女は初めて俺の姿を見かけた時から俺に興味を引かれたのだという。いわゆる一目ぼれだ。
当時の俺は、たぶん涙さんに対する想いを決定的には自覚していなかったのだが、かといって一目ぼれというものに対しても懐疑的だった。見ず知らずの女の子といきなり付き合うなんて出来ない、と、彼女の気持ちを断った。
出来るだけ、非道な言い方にならないように気をつけたつもりだった。それでも、精一杯の想いを拒絶されて傷つかない人間なんていない。今になって、俺はそのことを痛感していた。
……自分が振られたからって急に理解した気になるなんて、俺も大概、身勝手な野郎だよな。なんて自虐をしてみたら少しだけスッキリした気がして……ようやく、俺は小屋の戸に手をかける。
エリスはこちらを見ていなかった。棒立ちになって窓の外を眺めているようだ。いつも凛とした気高さのある彼女は、ただ立っているだけでも気が抜けない。手足の先までピンと伸ばし、
エルフという種族はね、同じ母神竜から生まれたウンディーネの影でしかない。
私情に流されず、ただ黙々と使命を果たさなければならないウンディーネのために、
彼女達を惑わす要因となる欲望を切り捨てさせた。
その残骸に人格の芽生えたのが、エルフの始まりなの
語りだす、その口調は独り言めいていたが、おそらく俺に語り聞かせているのだろう。入ってきた戸を閉めて、その扉に体重を預けて聞き入る。
エルフ界にいるエルフが何をしているかというと、
ひたすらにこの世界を監視して、
自分の伴侶とする相手を物色しているのよ。
そうして選んだ男をエルフ界に連れ込み、
たった一度の性交の果てに子を生み落として死ぬ。
今、この世界が続く限り、エルフは延々とそれを繰り返す。
エルフ界という徹底的に匿われたゆりかごの中で、
生まれてから死ぬ瞬間まで色欲と快楽しか持たない。
そんな生き物なのよ
エリスは、そんなくだらない生き物として生まれたことに納得出来なかった。
こんな連中と同じじゃない、って証明したかった。
だから外の世界へ出ることを夢見てきた。
その夢を叶えるために百年を費やし、祈りを捧げ、外で生きるための魔術道具を作り上げた……
けれど、ヴァニッシュの姿を一目見た時、エリスは知ってしまった。
一目、見た、だけでね。
彼の内面など何も知らないその瞬間に、
心の中心を突き抜ける動揺が走り抜けた。
現実を突き付けられたのよ。
エリスは、散々見下してきた同胞と、やはり同じ生き物でしかなかったということを……。
それを認めるのは、自分の心の芯をへし折るようで、苦しかった。
そればかりか、この想いは決して彼へ届かないと気がついた時、エリスはどこを見たらいいのかわからなかった。
彼のこと、直視出来なかったわ。
こんなにも苦しいのなら、いっそ誇りも何もかも投げ捨てて、
エルフ界へ逃げ帰ってしまおうかとさえ思った。
しなかったけれど。
それをしてしまったら、エリスの生きた全ての時間で信じてきたものを否定してしまうから。
エルフ界の同胞を見下げる気持ちも消えたわ。
彼女達に言わせれば、エリスはつまらないプライドにとらわれて素直に快楽に身を置
けない、哀れな女。
今なら、そんな言い草にも納得出来る。
心というものは決して純潔でなどありえない。
清らかな気持ちと汚れた気持ちはいつだって内包され
て、どんな苦しみも尊いものだわ
長い長い独白を、俺は口を挟まず吟味するように聞いていた。エリスもそれを望んでいるのだろうと、そう思うから、言葉に出さず頭を働かせていた。
想いを寄せる相手と、心を通わせ合える関係というのは、きっとこの上なく幸せなのでしょうね。
ただし、それが叶わないのが不幸ではない。
報われない想いを悲観して、自分、あるいは相手をおとしめるのがみじめなのよ。
「私達」の場合、叶わないのは相手の生まれ持った種としての性質であって、
決して否定してはいけないものだから
エリスは最後まで背を向けていて、どんな表情で語っているのかわからない。でも、こんな話を喜んでしているわけがないってことだけはわかる。
エリスは常に自分のことを名前で呼称して、話す。それは自分の生まれ、親である母神竜を誇るための種族としての総意だ。それに背いてまで、「私達」と強調してくれたのは、たぶん……。