② 気になる噂
文字数 3,604文字
俺が今日、こいつの顔を見たのはここがお初じゃない。涙さんに手を引かれて校門をくぐった時、窓際の自分の席に座りこっちを見ている市野と、ばっちり目が合ってしまったのだ。その時から嫌な予感はあったのだが、案の定こうなったか。
市野は学年トップの優等生ながら、他人の噂話を集めるのが何よりの楽しみという迷惑な奴だ。そのおかげでどんな人間とも簡単に打ち溶けて親しく話せるため、成績一位の優等生にありがちなレッテル貼りややっかみとは無縁で、人望もある。
くらげといえば、俺は小学生くらいの頃、何を勘違いしたのかくらげ好きを公言してはばからなかったらしい。当時は山間の地域に住んでいたため海を知らず、水族館の水槽の中で光に照らされて、白く透き通りながらゆられている姿が幻想的で美しく見えた。
考えを改めたのは、漁業の盛んな街に引っ越した時。人が海で泳ぐのにも邪魔、漁の網に入り込んで獲った魚を台無しにするという事実を知ったから。
そして、海という本来の場所に暮らすくらげは実に醜かったから。ぶよぶよで巨大で茶色い海藻をまといつかせたような色をしていた。それまでの俺の知っていたくらげが美しかったのは、人間の目に都合の良いようにディスプレイされていたからだ。知ってしまえば、冷めるのはまさに一瞬だった。
このエピソード、なんだか涙さんには話しづらくて、俺はずっとひた隠しにしている。幸いこの街で知っているのは家族だけなので、両親とアネキにも内密にしてくれと頼んである。
くらげと同じ漢字を持つ彼女に、「俺はくらげなんか嫌いだ」と直に伝えたり知られたりすることは、なんだか象徴的というか、嫌な感じがしたから。
バンドマンっぽい、って言ってるだろ。
見た目の印象からそう言ってるだけだ。
背が馬鹿高くて、髪の毛が銀色で、レザーな服を着てるっていう。
加えて美形とくりゃあ、素朴な雰囲気のくらげさんと並んで歩いてたら目立つってもんだろ
涙さんは女性としては高すぎず低すぎずで、俺よりやや小さいくらい。でも目線の高さはほとんど変わらない。数字としては二センチも違わないかもしれない。
豊は高校で俺がたいてい行動を共にしている友人だ。アネキと涙さんほどべったりした付き合いではないが、側にいて一番過ごしやすい男友達といったところだ。
豊にはしょっちゅう涙さんの話をしていて、しかしあいつが怪しい反応を見せたことはなかったし。
俺達一家がこの土地にやって来たのは、俺が中学三年に上がる直前だった。うちの高校は地域の子供がそのまま持ち上がりで入学するパターンがお約束のようなものなので、せっかく高校生になっても見知った顔ばかりで面白味に欠けるなぁなどと呑気にかまえていた。
新しい顔は各クラスに片手で数え切るくらいしかいない。集団転校生のような状況に置かれた彼らは、早いことクラスに溶けこまなければとあくせく自分の存在をアピールしていた。
そんな中、この学校で目に入るもの何ひとつ関心がない、といわんばかりの顔をしてひとりでいたのが豊だった。
都合のいいことに、あいつは最も廊下寄りの列、最後尾の席なので、堂々と授業中に教室に入ってくる。そしてほとんどの授業を寝て過ごす。休み時間さえ誰かが話し掛けてやらないとそのまま眠っている。
今日も今日とて、三時間目の間に教室にやって来た豊は、いつも通り教師に小言を言われて適当に流した後、即行で眠る体勢になっていた。
気になることは当人に確認しないと、どうにももやもやして心地が悪い。ので、俺は次の休み時間に、涙さんとの噂について訊いてみた。
奴の性格上、あっさりすっきり噂は噂だと否定してくれることを期待していたのだが、その話を切り出すと見るからに、時が止まっていた。そして、
うちの高校は全ての部屋の廊下側に、大きな窓がついている。開け放してあったその窓から、見覚えのない女生徒が顔をのぞかせ、俺達の話に割り込んできたのだ。
窓のさんに胸を休ませ、腕は豊の額にまわり、頭を抱きしめるような形になる。緩やかに波打つような流れの茶色い長髪が豊の頬に当たる。
そういや涙さんとのことも結局うやむやになっちまったな。まぁいいか。確かに、あんな美人とお付き合いがあるのに、涙さんとどうにかなるとは考えにくいし。
涙さんがどこにいるかなんて、俺にとっては簡単な問題だ。彼女は高い場所が好きで、「めんどくさい」と嫌がるアネキを引っ張っては、また時には教室に置き去りにしてまで、この屋上まで来るのだということを知っている。
屋上は要事を除いて閉鎖する学校が多いらしいが、うちの高校はそうしていない。屋上はテニス部の練習場所として活用するため、緑色のネット で全面を覆ってしまっているから、少なくとも最低限の安全は保証出来ている。ネットの手前をさらに金網で囲うという徹底ぶりで、昼休みも熱心なテニス部員が部活外の息抜き代わりにラケットを振っていたりする。
思った通り、涙さんは屋上にいた。金網の手前、腰かけられる高さの段差に膝立ちになって、街並みを眺めている。