32/ ブラック・アニス
文字数 4,376文字
今の流れでどうしてそうなるのか、俺には今いちわからないのだが、エリスは納得したようだったので話はそこで終わってしまった。
俺よりヴァニッシュやティアーと付き合いの長い豊なら何かわかるかもしれないと、意見を求めるつもりだったが、見ると豊は考え事をしていそうだったので諦めた。何故か、普段のヴァニッシュに負けないくらい、複雑そうな表情をしていた。嬉しいといえば嬉しいけど、喜んでいいのかわからない。そんな 、心の声が聞こえてきそうな……。
そんな豊の状態を知ってか知らずか、エリスは豊の前に立つと、黒い布を彼の頭にかぶせる。
さばく作業の途中だった肉をライトに預け、豊は渡された黒い上着をさっそく着込む。鎖骨の辺りを紐で結び前は開いたままの、ゆったりとした服だ。布の裏地は、やはりまがまがしさの強く感じられる赤だった。
出かける豊を見送ると、両手に肉を持ったライトが寄って来た。
みんなの気持ちを代弁したエリスの言葉に、ティアーは力強く頷いてみせる。ティアーが仲間に背を向けて歩き出すと、エリスは火の番と朝食の調理に――と言っても、昨夜、豊が用意した肉を焼くだけだが――ヴァニッシュとライトは今後の為の食材調査に、豊とベルは小屋で眠る……そんな日常に戻る。
俺はといえば、右肩にサクルドを乗せ、両手に空のバケツをぶら下げてティアーの後を追う。
そうして、エリスの予測通りに事態は動いた。
声が降ってくる。存外あっけなく、枝の上にいて木々の葉に姿を隠していたそいつは、兎のように軽やかに飛び降りて着地した――鉄のような黒みがかった長い爪と、長さはそれと同等ながら対象的に白い牙が印象的な、青い皮膚の老婆だった。灰色の髪で顔の右半分を隠している為、ぎらぎらと淀んだ輝きを照りかえしている茶色の左目が印象的だ。
布の少ないローブをまとっているため、枯れ枝のような細長い手足がすらりと伸びている。意外と背は低くないようで、俺達よりも少し身長が高かったりする。
ということは明らかに、老婆――ブラック・アニスというのは種族名なんだろうな――の、目的はわかっているだろう。サクルドのささやかな抵抗に、ブラック・アニスは声を抑えて笑った。
その笑い声は、外見に合ってしわがれた声をした老婆には不釣り合いな、少女のような清らかさがあった。そのギャップに俺は悪寒を覚え、両手が塞がってさえいなければ両肩を抱いていただろう。
それは昨日おとといと見た、セレナートの小さな笑みを思い起こさせたのだ。幸せな気持ちが伝わるような、あのふくみ笑い。イメージとして正反対な両者の奇妙な符号が、どうしようもなく不気味だった。
敦さま、準備はよろしいですか?
老婆に向けたセリフと同時に、脳裏に届くサクルドの言葉。
多少は間違えても、わたしからフォローすることは出来ます。思い切って、今、発動してしまいましょう。
わかった、とにかく、やってみるよ……。
全ては、ブラック・アニスにこちらの用意周到を悟らせないことにかかっている。エリスはそう言った。だから老婆の狙い通りにティアーが単独で護衛に立ち、他の仲間はさも気がついていないかのように日常を送ることにしたのだから。
長くベル達とやりあってきたからだろう、相手――ブラック・アニスも用意周到なことに変わりはない。だからある程度、こちらの油断を見せてやらないと姿を現さないだろうと思われた。
だったらこちらから仕掛ければ、なんて豊が言ったものの、手を出されない限りエメラードの同胞にはあまり手出ししたくない、というのはベルの方針だった。
ひとつひとつ丁寧に説明をしてくれる。
そういうこと。
魂というのは、魔術式の結晶のようなものよ。
たとえば個人を狙いうちした、呪いに近い魔術を使う場合、
相手の魂を刻んだ魔術式を描くの。
他の何も巻き添えにしないで、個人だけを攻撃したいって場合に有効ね。
もちろん、魂なんて並大抵のことでは視えないわけだから、
そう使われるものじゃない
けど
ブラック・アニスに悟られないよう、平静を装って。あるいは彼女に対して恐れおののいたようにでも見せて、俺はエリスに叩き込まれた魔術式を発動させなければならなかった。
俺はソースだから、理論上は簡単なことだ。魔物達と違って、俺は呪文も魔術道具もなしに、脳裏に描くだけで魔術を発動させることが出来るのだから。
最後に、ティアーを置いていっていいのだろうかと思った。ティアーの実力を信じようという、サクルドの言葉に後押しされた。
ひとおもいに、発動させる。昨夜、言われた通り死ぬ思いで記号構成と由来を覚えた魔術式だ。
正体不明の浮遊感に、俺は術の成否さえわからず周囲を見渡した。思い至る。これは、夏の日に、鼻をつまんで背泳ぎの態勢でプールに身を沈め、水面を眺め
た時の感覚だ。呼吸の苦しくない最初の瞬間がずっと続くような状態にあるのだと悟る。自分が水の中にあるとわかっても、一向に呼吸の苦しくなる様子がなかった。
ここはおそらく、セレナートの水源のただ中だ。例の魔術式は、セレナートの傍へ瞬間移動する為に組まれた式だった。瞬間移動の魔術の原理は、現在地点と目標地点それぞれに式を用意し、相互反応させるものだそうだ。セレナートはエメラードの水源を守る、土地に密着した存在だから、目標地点としてはぴったりということだった。
水面を仰いでも、セレナートの姿は見えない。下を見やると、思いがけない気配に思わず息が詰まる。
とりあえず、魔物のようには見えない……人間の女が、沈んでいた。俺の母親のような年代で、水中で溶けてなじむような空色の短髪が、頬を包むようにゆらめく。歴史の教科書で見かけるような、古めいた衣服の上に最低限の鎧をまとっている。
まるで生気がなく、確かめる気にもならない、亡骸だった。
そよ風のような微弱な気配を察し、見上げると、セレナートの寂しげな微笑があった。
あらゆる生物にとって不可侵である水源に、ひとりの人間の遺体。それも、遠く過ぎ去った時代の人と思われる身なりなのに、腐敗の様子は少しばかりもない。
こんな状況で、水源の主である彼女――セレナートに、どう切り出したらいいものか、俺は考えあぐねていた。肩に乗るサクルドはといえば、身を乗り出し、懐かしいものを見るように遺体を眺めていたりするからなおさらわからない。