⑥ 夜道(前)
文字数 2,886文字
どうしてここに、涙さんがいるんだろう。そもそも、誰かが歩いてくる気配さえ、これっぽっちも感じなかったのに。
もちろん別れが惜しくなかったわけじゃないが、この状況下にあって誰の顔を最も見たくなかったかといえば、それは彼女だったっていうのに……。
その味気ない腐肉の匂いは……
ワ―・ウルフか。
獣に戻る余裕もなかったのか?
怖れのない声で、涙さんは毅然と、見るからにやばそうなヴァンパイアを相手に言い放つ。いつものように軽く跳ねるみたいに歩くことはなく、力強い足取りで進み出て、背中に俺をかばうような位置を選ぶ。
いつもの彼女と、あまりにも違う。まるで別の何かであるかのよう――危うくそんな風に思いかけたが、その華奢な背中はどこか頼りなげで、普段の涙さんと変わりない。
ヴァンパイアが人間を糧にするのは肉体を存続させるため。
それを理解していない同胞がいるとはな
随分と潔癖なものだ。と、いうことは……
おまえはエメラード側なのか
涙さんとヴァンパイア、揃って臨戦態勢になってから問いかけるには間抜けすぎる質問かもしれない。
涙さんは戦えるのか? 何者なんだ? ヴァンパイアがワ―・ウルフだ魔物だと言っているのは、涙さんのことなのか?
涙さんは道を挟む左右の森をざっと見回す。それでも前方の相手に注意をはらうことを忘れず、ヴァンパイアも黙ってその行動をうかがっている。
確かに、高さこそ他より抜きんでているということはないが、やたらとがっしりとした幹の木が一本。俺はあまり大柄ではないから、両肩よりさらに余裕のありそうな、たくましい木だ。
背中を向けたまま、彼女は相手に聞かせない声色で呟いた。
俺は木の幹に背をつけて数秒、心を無にして沈黙していた。――何やってるんだろう、涙さんが、人間を一息で殺せる魔物を相手にしようとしているっていうのに。たとえ涙さんが何者だとしても、こんな風にひとりで戦わせるなんて最低だ……そんな想いで、俺はぐちゃぐちゃに潰れてしまいそうだった。
しかし、場の動き出す様子がなかったので、ついにほんの少し身を乗り出して、涙さんの無事な姿を確認した。
宣戦布告を交わしたものの、両者は揃って、動こうとしない。
先にしびれを切らしたのは、ヴァンパイアだった。ゆっくりと両手を腰の高さに上げて、何もない手のひらを広げたまま、何かを投げるような動作をする。何かあるのか何もないのか、俺にはさっぱりわからないが、ともかく涙さんは何かをよけるような動作で、左に二度、跳躍した。あまり広い道ではないため、森に体を突っ込む形になる。
その時、俺の頭上の木の葉が不可視の衝撃を受けてはじけ、ぱらぱらと俺に降り注ぐ。
二つ目の衝撃は、涙さんの近くの木の幹に当たり、その肌をえぐれさせていた。その様子を見届けたところで、涙さんは特攻をしかけた。
森を通って一気に距離を詰めた涙さんは、左手をヴァンパイアへ袈裟がけに振りおろす。ヴァンパイアはわずかに後退し、涙さんの手は届かなかった。ヴァンパイアのまとうマントの首元の結び目だけを切断して、黒い布が宙に遊ぶ――今も思い出す、彼女の手の爪はいたって普通の女の子のそれだったはずなのに――倒れている豊の身体の上に、ふわりと舞い降りた。
よけることができた割には、何が不服なのか、ヴァンパイアは忌まわしげに舌打ちをする。涙さんはといえば、豊の身体を踏まないように気をつかったのか、一瞬バランスを崩した。それでも、ヴァンパイアが動く前に再び、奴に飛びかかっていく。
涙さんは両手で交互に切りかかる。ヴァンパイアはそのスピードについていくだけでやっとのようだが、確実に涙さんの腕をはじく。相手は涙さんと比べてもなお小柄なので、涙さんも懐に入ることができず、お互いに一進一退という感じだ。
ようやく涙さんの一撃が奴に届き、右頬に三本の赤い線が斜めに刻まれた。お返しとばかりに、ヴァンパイアの腕がひときわ強く命中し、涙さんはかなりの距離をはじき飛ばされた。
こらえきず、叫ぶ。涙さんは無事だった。ヴァンパイアとの距離を開けられはしたが、しっかりと両足で着地する。ふりだしに戻り、両者は黙して対峙する。
この時、俺ははじめてヴァンパイアの背中を見た。俺の前で奴に立ちはだかった涙さんと同じように、その背後は無防備だった。当然だ、俺が立ち向かうなんて夢にも思わないだろうから。
……ひょっとして、この立ち位置は、一度限りのチャンスなんじゃないか?
第一――涙さんが俺よりよっぽど強いってことはわかっているけど、だからって――好きな女の子を強大な魔物と戦わせて、指をくわえて見ているだけなんて。
光のない世界が、前触れなく、発生源もわからず控えめな光に包まれる。晴れやかな日のこもれびの中にいるような、淡く緑をはらんだ不思議な光だ――こんな事態でなければ、それなりに感動できたのかもしれないが。
よく見たら、光の源は俺の上着の下からだった。そこにあるものといえば、涙さんのくれた小瓶のお守り――
紐を引いて服の下から出すと、出てきたのは小瓶だけではなく。光を放っているのも小瓶の中の水だけではなかった。
そいつは不格好に小瓶に抱きついているので、小瓶ごと手のひらの上に乗せてやる。
自分の目の高さまで持ち上げてじっと見つめると、手のひらの上の小さな小さな女の子は、どこか照れくさそうに見える笑顔で。
髪の毛は足首に届きそうな長さで、持て余しているのかところどころ紐のようなもので結わえている。髪も瞳も衣服も、夜の中でも色あせない鮮やかすぎる新緑の色だ。
そう言って、サクルドは涙さんの方を指さした。