68/ 新たな幕開け
文字数 3,008文字
それじゃ、始めるか。
奇遇、とでも言うべきか、マージャと俺の、ささやき程度の宣言は見事に一致した。
マージャは、かけているゴーグルのゴム紐を左手で掴む。逡巡したようなひとときの間の後、ゴーグルを外す。そんな動作を目で確認しながら、俺は最大級の防御壁を展開した。大きさにして、俺と、少し離れた位置に立つ豊の全身を覆う程度。規模は小さいが、だからこそ効力は集中して、より効果を発揮するはずだ。
ゴーグルの下の素顔は、何てことはないものだった。それは、マージャが目を開けていなかったから。彼が、そっと、もったいぶるようにして持ち上げたまぶたに隠されていた瞳は。
透明だった。天然の水晶のように透き通って、うっすらと、ごくささやかに紫の色が着いているようだ。不思議なことに、それでいてその向こう側に見えるはずの器官が見えない。深く深く、どこまでも続いて吸い込まれそうな、言いようのない不気味な目だった。
なんて認識をしている間にも、マージャの能力はすでに発動していた。強いんだか儚いんだか、どちらにもとれる眼光そのものが奴の力なのだろうか。驚異は、奴の視線に乗ってまっすぐにやってくるようだった。
しかし、何の芸もなく直進してくるマージャの力は、俺の展開している魔術壁――相手の魔術そのままを跳ね返せるこの状態には、この上なく都合の良いものだ。
まばたきひとつほどの一瞬、その攻防の中に、想像だにしない乱入者があった。
実際には上空から降りたったのだろうが、あまりに唐突だったもので、まるで瞬間移動してきたかのように錯覚した。それは、人間の学生服に身を包み、いつ もおおざっぱに結わえていた黒髪を下ろした彼女――その姿は今朝からずっと見てきたのに、人間の装いをしていることこそが新鮮で、やっぱり見慣れない……。
そうして歩きだした豊の歩調は気楽な感じで、たどり着いたのはマージャの傍らだった。
大切なものを失った、あの夜に見上げた月のような喪失の予感は、今はなかった。
気持ちよく晴れた、雲ひとつない空を見上げ、その視界にかぶせるように両手を掲げた。それに合わせるように豊が身を屈めるのを見届けて、俺は魔術壁を作り上げた。
そんな下準備と、そして心構えを決めた時、シュゼットに目を向けると、まさにその瞬間だった。
彼女を象っていた石が、あっけなく粉砕し、その光景はすぐさま緋色に染められた。夕暮れ時、太陽が町並みを染める赤を、凝縮して爆発させたような。魔術壁を通してなお感じられる、瞬間的な熱と轟音。そのおそろしさに圧倒されそうになって、しかし俺は持ちこたえてみせた。膝をつかず、魔術壁を支え続けた。 ただ、強烈な閃光にはさすがに目が耐えきれず、きつくきつく、俺の意思に反してまぶたが閉ざされていた。
事が済んだらしいと、感覚的に悟って、目を開けた時。学校裏に放置されていた、雑多な……粗大ゴミたちは、燃え尽きていた。その痕跡さえ残さず、地面には小さな火が点々とくすぶっていた。
何の遮蔽物もなく拝めていた青空が隠されて、まるで目を閉じた一瞬に夕焼け空に早変わりしてしまったかのような赤がこの一帯を満たしている。
見上げると、途方もなく大きな鳥――実際には校舎よりやや大きいくらいだろうと思うが、言葉のあやというやつだ――それもただの鳥ではなく、深紅の炎が鳥の形をしているのだ。空高く、羽を動かし漂っていると、羽音はないが火の粉というには大きすぎる熱の固まりを地上に降らせていた。慌てて、油断して消えかかっていた魔術壁を復活させる。
これが死の瞬間に燃え上がり、復活するというフェニックスの炎なのか。あまりにも巨大で、計り知れない熱の威力を思い知らされる。人知を超えた、と言いたいところだが、恐るべきことにこれを作り出したのは神話時代の人間なのだ。
一息ついたところで、周囲の状況を確認する。倒れているマージャの顔色は青ざめていて、座り込んだ豊にも疲れが見受けられる。何にせよ、ふたりは無事なようだった。
広場は、炎によって完全に掃き清められ、すっきりしたものだった。対して、ここに隣接する学校と、小規模な森の木々がこれっぽっちも炎のダメージを受けていないのはむしろ不自然すぎるくらいだった。
こうして新学期の一日目は、とても人間の島に帰ってきたとは思えないような幕開けとなったのだった。