⑮ 侵入
文字数 4,191文字
いつの間に眠っていたんだろう、目覚まし時計を見ると、一時間ほど経過していた。普段、うつぶせに眠ってしまう習慣にないので、何となく肩が凝ったように感じる。
まだ寝ぼけたままの頭に、静かに部屋のドアが開く音が染み入ってきた。アネキ? 両親? ……ひょっとして、ティアー?
思いつく限りの全てを挙げたが、そのいずれでもなかった。親交は一切無いけれど、入学式だったり、学校の廊下だったりで見かけた、保健室の柴木先生だ。清潔に整えられた茶色の髪に、三十歳という年齢の割に目もとの皺が深く、まなじりの下がって優しげな顔が印象的な人だ。いつ見ても表情は笑みに刻まれ、目の色が判別できないのがすごいな……。
アネキの恋人だっていうけど、面識のない人に勝手に部屋に入られて黙っているわけにもいかない。身を起こそうとベッドに両手をついたところで、耳元に火花が散ったのがわかる。
――サクルドは、俺が望まないと姿を現すことさえ出来ないと言っていた。それはおそらく、俺が必要に迫られていなければ力を発揮できないってことだと思う。断りなく部屋に入ってきた人物に、わずかばかりでも警戒心があったから、サクルドの防御が間に合ったんだろう。
あのまま眠りこけていたらどうなっていたものやら、と、ひやりとしたものを感じながら柴木先生の方を見る。彼の表情は先に見たものと、少しも変わりがなかった。顔全体で自然に笑んでいて、とても作りものには見えないのに。状況は、それが心からの笑顔とは認めやしない。
その声は、外見から想像できる範疇を超えていた。高く、澄んだ、明らかな女性の声。確かに、この人の声は元から男にしては高めだったような覚えもあったが、こうもあからさまではなかったはずだ。
服の下の小瓶が発光しているのがわかったので、取り出すとやはりサクルドが姿を現していた。
そーよねー。正直、私もありえないと思うわ。
偶然……いいえ、奇跡の産物ね。
製作者である私自身、何ら計算した上での成果じゃない。
だからこの子と全く同じホムンクルスを再び作り出すことは、私にもできないのよ。
もったいない話よねぇ
高泉円だったら心配いらないよ。
もう用は済んだから、今後どうにかするってことはないわ。
今は安らか~におねむでいてもらってるだけだから。
あ、こういうと誤解を招くか。
永眠してもらったって意味じゃあないからね?
その点は確かに安心だが、その言葉を噛みしめる内に、今さらながら事のおそろしさをはっきりと自覚するはめになる。
柴木先生は、本当に、この俺を殺すために家へ入り込んだ。アネキと関係を持ったのも、もしかしたら俺と関わりがあるのかもしれない。そうだとしたら、余りにも不憫だ。アネキの性格からして、この事実を知ったらショックで錯乱するかもしれない。
ホムンクルスっていうのはねー、魔術で一から作り出す人工生物よ。
まだまだ研究段階だから、生まれた器から出て活動できない役立たずだけどね。
具体的な生成方法は知らない方がいいかな。胸くそ悪くなるでしょうから。
本来はこんな風に、単身で自由に動き回れるような生き物じゃあないのよ。
そこはそれ、やっぱり我らが父――
源泉竜ソース=アイラの専売特許ってことでしょうねー
小さい身体で精いっぱい凄みをきかせようとしているのか、サクルドの声は冷えきっている。
そういえば、源泉竜は神様だとか言いながら、ティアーもヴァニッシュも「アイラ」なんて随分と気安く呼んでいたような。
サクルドは言葉を返すことができずにいる。悔しそうに、歯噛みしている様子がうかがえる。
相手がその隙を逃すはずもなく、柴木先生は片手を上へかざし、すぐさま垂直に振り下す。
やむをえず、サクルドも何か防御の術を繰り出したようだ。昨夜のような緑色の鮮やかな光が、俺達を包み込む。俺の目の前で柴木先生の爪が緑の防壁に食い込むが、破ることはできず、赤と緑の火花が散った。
ひととき、静寂があった。俺にその意図はわからないが、サクルドと柴木先生は視線を交わしあう。柴木先生は相変わらず、微動だにしない笑みを浮かべて。サクルドの方は俺に背を向けているので見えないが――
その瞬間、俺の部屋を満たしていた緑の光がかき消えた。サクルドはおろか、柴木先生でさえ、あっけにとられて動きを止めていた。
思った通り、俺が望まなければ、サクルドは力を発揮できないようだ。そんな俺の行動に、サクルドは俺の目の前に浮上し、全身で抗議を表してみせる。
どうせ言葉にしなくても、俺の意思は彼女に伝わる。だからあえて、俺は飾りのない気持ちをそのままに、思いを馳せることにする。
俺のために、小さな身体を張って攻撃に耐える。そんな姿を見ていられなかった。ただ、それだけのことだった。
それでも、見ていられなかったんだ……一旦、そう感じてしまったら、もうどうすることもできなかった。
何故だろう、俺だって死にたいわけじゃないのに。サクルドがすぐに再生できるなら、ここは彼女の後ろに隠れていた方がいいってことくらい、俺にだってわかるのに。それでも、サクルドに俺の分も攻撃を受けさせることに、耐えられなかった。
表情は変わらず、口調はどこか残念そうに。言いながら、柴木先生は片手を振り上げた。
居間からガラスの砕け散る騒音が届いたのは、それとほぼ同時だった。
柴木先生が開けたままにしていた俺の部屋の扉。そこから、居間にいたらしいアネキの悲鳴が漏れ聞こえ、さらに銀色の狼が飛び込んできた。
柴木先生に飛びかかるつもりで勢いをつけていたらしいヴァニッシュに、さすがに避けるしかないようで、柴木先生は右手側へ跳んだ。
ヴァニッシュから身をかわす時、左に避けていたら逃げ道はなく、こうも余裕ではいられなかっただろう。