34/ 発熱
文字数 4,434文字
この十日間、食事は肉続きだった。ときたま、川魚の場合もあった。海辺を見てみれば、ちょっぴり嬉しくなるようなおかずもあるのかもしれないけれど、海が見えるまで半日近く歩くことになると思うとその気も失せた。
人間の島の基準で言えば、おそらく栄養なんて偏りまくってるんだろう。人間らしい食生活として、五大栄養素に一日カロリーいくらぶんの野菜を摂らなければならない、なんてよく聞いた話だったけど。
「あなたの鍛え方が悪いなんて次元じゃなく、人間の体は脆いからね。
フェナサイトと生活様式も違うのだから、どうしても感染症のひとつやふたつは避けられないわ。
気負うことはないのよ、敦。
人間の医者もいないことだし、念のため完治するまではおとなしくしているしかないわね
昨日までの俺のスケジュールは、起きて水汲み、朝食から昼まではライトに体術を習う。昼食から夕食まではエリスから魔術や魔物について教わる。夕食を済ませてからが唯一の自由時間なのだが、何もすることがないのでおそらく一、二時間もしないでさっさと寝てしまう。
疲れ知らずの巨人を相手にとっくみあいの喧嘩をしなけりゃならないんだから午前中には俺はもう疲れ果てている。午後は、ある意味で冗談半分のライトよりも真剣で厳格なエリスの指導に頭の回転が追いつかず、精神的な疲れが大きくのしかかるのだった。
もちろん、俺がいくら体術を身に付けたところで人間の体では魔物にかなわないし、無制限に湧き続ける魔力があるのだから魔術の量で魔物を圧倒すれば済む話だ。けど、突然の奇襲や万が一の場面で体が動かないようだと為す術もなく殺されるしかない。
それに、これからエメラードに住み続ける可能性もなきにしもあらず。ひとりで森歩きや狩りが出来るくらいには人間離れしていた方が進路選択の幅も広がるというわけだ。
昨日までに俺が会得出来たのは、一通りの受け身と体力のわずかな底上げ。魔術では、防御の基礎である魔術壁だけだ。
魔術壁には主に反射系と拡散系がある。反射の魔術壁は相手から放たれた魔術を反射して返す。拡散の魔術壁は放たれた魔術を受け流して消滅させる。反射系は拡散系よりも多く魔術を消費してしまう為、現存の魔物で扱える者は限られ、そう多くはないという。
魔術壁が機能するかは相手との魔力量に影響される。いくら術を発動しても、相手の魔力量が自分より格上だったら意味を為さない。
その点、ソースの魔力は無限大だから、どんな魔物と対峙しても魔術壁の機能を疑う余地はない。恐ろしいことに――というのはエリスの弁で、俺に実感はないのだが――本来ありえない、物理攻撃さえ魔術壁で防ぐことが出来る。
言ってしまえば、攻撃の手段をひとつも持たなくても、魔術壁さえ心得ていれば魔物の襲撃に耐えられるということだ。
とりあえずみんなの厚意に甘えて眠らせて貰おう……そう決めて、目を閉じた瞬間。
ぱちん、と強く手を叩く音に、反射的にまぶたが持ち上がる。
アクアマリンからエメラードの船は三十日おきに一度だけ。
だから、こっちへ来る船に魔物の同乗者がいない場合、
最も警戒するべきなのはひと月後になるわ。
二カ月の特訓を受けたソースに太刀打ちできるかといえば、賭けになるからね
俺自身、ダウンするような熱にさいなまれているわけだが、それにしたって今日はえらく蒸し暑い。安静にしていろと言われるので眠ろうとしても、暑さですぐに目が覚めてしまう。
人間の島から持ってきた荷物は、衣類が数点。エメラードじゃあそう頻繁に服を着替える習慣はないとわかっていたけど――せいぜいが、川の水で汗を流すつ いでに着ているものを水にさらして、乾くまで川辺で昼寝をするという適当な光景を目撃できるくらいだ――わがままを言って、最低限の着替えだけは持たせて もらった。特に下着と靴下は数が欲しかったから、上着やズボンの類を二着ずつに妥協して多めに詰め込んできた。
熱を出して寝込んでいるんだから、せめて汗だくのシャツを替えたいと思い、俺はけだるい体を起こして脱いだ。室内にはベルと豊もいるが、ベル は定位置で、豊は寝相が悪くもぞもぞと左右に動きながら眠っている。エリスは多分、下で火の番でもしているんだろう……と、思っていたんだけど。
木々の隙間から、うぞうぞとうごめいている黒い影。むかでをでっかくしたような、まぁ虫だよなと理解できるものが二体――虫なんだから二匹とするべきな のかもしれないが、十分に成長した豚のようなサイズだから抵抗がある――二足歩行の人間の全身像からところどころ太い節足が突き出したようなもの、牛を直 立させて人間のような体格に改造したような茶色の生き物……見える範囲では、この四体だ。
率直に言えば、グロテスクな生き物で、思わず目を反らせたくなってしまう。
俺達が顔を見せるのを待っていたのか、頭部が牛に似た虫が右手をかざすと、手のひらの内に収まっていた小さな虫がこちらを目指して飛んでくる。セミの姿をした、見た目はごく普通の虫だった。
こんにちわ、エリス。
あとの皆さんとの面識はありませんでしたね……
ソース、あなたの身柄を頂きにまいりました
ソース、あなたのことはこの数日、ほんの少し調べさせて頂きました。
今のあなたが最も大切に想う方の姿を、思い浮かべて……
彼女の身柄は、わたくしの虫が確保いたします