71/ 戻れない日々
文字数 3,174文字
おかえり、と疲れたようなか細い声。昨日、シュゼットと共に森の奥の館へ帰ると、夕食の準備で火起こしをしている豊が出迎えた。九月の夕方頃なんてまだ日が高く、明るい。太陽光を苦手とするヴァンパイアである彼が疲れるのも無理はない。
この手の家事は、今はこの館を守る主であるシヴァ・ジャクリーヌの仕事だ。豊から事情を聞くと、そろそろ食事の支度を始めるべき時間だというのに姿が見えないという。自我というものを失ってしまったシヴァ・ジャクリーヌは、たまにこうして意味不明の徘徊をすることがある。
その捜索はシュゼットが自ら申し出て、白いセーラー服を着替えないまま森の奥へ消えていった。
その、「ろくなこと」の内容を、俺は知っていた。それを教えてくれたのは豊の旧友で、豊の正体と生存を知りながら、合わせる顔がないと嘆いていた東さんだ。
そう言った瞬間の豊の態度は、その話をしてくれた時の東さんと、少しばかりの違いさえなかった。そうして俺は、自分の過ちと愚かさを思い知らされたのだった。
後は、小声でぐちぐちやっているだけで、マージャの主張は俺に伝わってこない。そんな態度を見て、俺は思った。
もしかして、こいつ、意外と優柔不断なんじゃないだろうか。自分の使命を果たすためにソースの力が必要だ、と訴えてはみたものの……それはおそらく、俺に人間の島での人生を捨てさせるほどのものなのだろう。だから、いざ決断が出来ずに、「まだその時じゃない」なんてごまかしてみたりして。
いちクラスメイト、市野学としてのこいつのイメージは優等生だが話しやすい、隙のない奴だと感じていた。マージャとして本性を表しつつあるこいつの意外な一面に、不本意ながら俺は少しだけ微笑ましい思いがした。まだ、マージャの奴に心を許すつもりはないから、表面には出さないでおくが。
下校間際のホームルームが終わると、俺は早速帰ろうと席を立った。いつもならこんなに帰宅を急いたりしないのだが、今日は特別だ。
帰ったら豊に、東さんのことを伝えよう。そう決めた。それから豊がどう思い行動するかなんて、俺が判断するべきじゃなかったんだから。
それに、今日はシュゼットがいない。どういうわけか五時限目終了後の休み時間で早退してしまった。言わずもがな、早退理由は訊いても答えてくれなかった。もうどうにでもなれ。
校門前で男子生徒がふたり、帰るでもなく延々話し込んでいるのは、誰が気にするでもないだろうが居心地が悪い。
いつの間にやら、下校する生徒達の波は一旦途切れているようで、校舎内に人は大勢いるだろうが校庭にいるのは俺とマージャだけになっていた。その中にあっては気兼ねすることもないだろう、マージャは「とっておきの秘密」に、人差し指を向けた。
マージャの示す先にあったのは、巨大な石碑だった。……石碑?
校門脇には、この学校の名前とならわしを簡潔に記した石碑がある。それは知っていた。だが、こじんまりとしたそれの三倍弱ほどの大きさはあろうかという、隣の、巨大な石碑。こんなものがここにあったっけ?
おかしい。小さい方の石碑の存在を知っているのに、それより遙かに大きくて目立つ石碑に気がつかないなんて。いぶかしむ、なんてレベルでなく薄気味悪さを感じながら、俺はその巨大な石碑の前に立ち、そこに刻まれた文章に目を通す。
気味が悪い、という感想は、驚愕によって塗り替えられた。
はいそうですか、と納得するには、不可能としか思えない事柄が多すぎる。
まずは、言うまでもない。明るく人好きのする笑顔を振りまくキネ先輩は、今もこの学校に存在するじゃないか。
仮にこの石碑に刻まれた事件が事実だとするなら、キネ先輩の存在をこの学校にいる誰ひとりとして疑わないのは何故なのか。こんな事件が自分の通う学校で
起こったのなら、いくら長い年月が経ったとしても未だ語りぐさにくらいはなるはずだ。そも、こんな石碑が校舎内に堂々と鎮座し、「綺音紫」と実名まで入っていて、誰も気がつかないなんてありえない。
そして、それらは全て俺自身が気がつかなかったことでもある。こんな馬鹿でかい石碑に気がつかないわけがない、自分の通う学校で過去、こんな事件があったことを知らないわけがない。
そして、何より信じられないのは……こんな死に方をした人が、もしもキネ先輩だとしたら。あんな風に何の陰りもなく笑えるはずが……。
つまり、いくら考えたって。こんなこと、俺は信じたくなかった。そんな結論を察したのだろうか、マージャは残酷な説明を始めた。俺のすがっている要素を、ひとつひとつ、握り潰していくかのように。