77/ 未来
文字数 4,994文字
ふいに体をひねり、西の空を仰ぐようにするキネ先輩……その瞳には、誰かを慈しむような、そして自身を憂いているような、寂しい光を宿している。
どうしようもない焦燥感を抱きながら、俺もその方向を見やる。
夕暮れは地平、町並みの向こうへ消えかけた時間帯だ。薄紫の鮮やかな闇が、なりかかりの夜空を染めている。――その中にあっては、決して小柄ではない豊の体もいやにちっぽけに見える。
フェンスの向こう側、わずかばかりの風の影響さえ見受けられず、音もなく宙空に佇むのは俺の知らない豊だった。体つきも、濃い緑色の眼も、黒い髪も、ほとんどの要素が彼であることをしめしているが。それらを打ち消す決定的な違和感がある。かけらほどの光さえ映さない瞳と、それに付随する無感情すぎる表情……。
今の豊の様子からは、俺は、とてもあの中にいるのがいつもの豊であるようには思えないが……無表情だった顔に、皺が刻まれた。痛みに耐えるしかめ面ではあるが、それは確かに豊の感情だった。
苦しい息でそう呟いた豊に、心配が取り越し苦労に終わったことを俺は悟った。
もしかしたら、キネ先輩も同じような心境だったのだろうか。いくらか気を張っていたかのようにも見えた彼女が、何故だかやたらと懐かしく見える、いつも通りの穏やかな笑顔で答えを返す。
もし、ユイノであるのが豊でなかったら、
わたしだってこんな性急なこと考えなかったわ。
あなたとだったら、「約束の日」までの長い時間を共にするのもいいな、って
……そんな、自分勝手な夢を見たの。
ずっと側にいたい、いて欲しいって……
豊のこと、好きだから、ね
顔を隠したままのキネ先輩をわずかに見下ろす豊は、苦しそうで、つらそうで、やるせなさそうで……両手の自由が利くならば、俺だって目を覆ってしまいたかった。そう思いつつ、自由である首で目をそむけることはしなかった。
豊の、深緑の瞳はうつろだった。次の瞬間にも別の何かに取って代わられてしまいそうな、脆く危うい状態が見て取れる。それでも顔全体に表しているのは苦悶だけでなく、目の前の少女に対する慈しみだった。
やがて、吹っ切れたように動いて、キネ先輩を抱きしめた。自らの手のひらに顔を埋めていたキネ先輩の身体が、大きくのけぞる……豊の左腕が腰を抱き、右手の拳が彼女の背中に突き立てられたから。
彼女の力による俺の拘束はその瞬間に消滅したが、前のめりに倒れ込んだ豊を支えるのには到底間に合わなかった。
駆け寄って確認した豊の様子は苦しげで、そんな姿はいつかどこかで見たような覚えがあった。
ヴァンパイアになってからというもの元から顔色は良くないが、顔面蒼白といった有様で。息は荒くはなく、しかし寒気に耐えるかのように小さく体を震わせていた。
そうだ、これは豊が最初に血を吸った夜。ヴァンパイアの本能と人間でありたい思いとで葛藤していたあの時の。
顔以外は伏せる形で倒れた豊は、肩肘を地面に着いて身を起こす。ようやく安定した体勢になると、豊は、まだ夜に覆われていない、中途半端な空の色を眺めた。
俺さ、おまえが知らないところで、もう何人か殺してるんだ。
一応、夜の間におまえのこと狙ってきた奴らだけど……
これに魔力を集めたくてやったことでもあるから……
結局、自分の都合で他人を殺したってことだな……
豊は、右手に握り拳を作ったままキネ先輩を貫いていた。その手を開くと、中には十字架に象られた薄紫色の石があった。四方の先端が鋭利に尖っているそれは、握りしめた豊の手を刺していたようで、あふれた血に汚れている。
手のひらの中にあったのは、それだけではない。刻んでから、少なからず日数が経過しているだろうとわかる、魔術式。
正直、目が覚めた時は愕然としたけどな。
何で、よりによって俺なんだ、って……
ヴァニッシュやティアーは、
俺がおまえに力を使うような事態ありっこないって考えてし……
俺だって、おまえを信じてるよ。
でも、これからも……
ふたりが死んだ後も、時間は過ぎていく。
時代は変わっていく。
その中でもし、戦いが起こったりそれに巻き込まれたりしたら、
どっちに転ぶかなんてわからない。
ユイノの記憶が見せるこれまでに起こった戦いは、
どっちが良いも悪いもなかった。
誰もが、少しでも望む未来に近付くために必死だった。
そしておまえは、未来のために平気で自分を犠牲に出来る人間だったよ
しかし、ソースが過ちを犯した時に強制封印するのがユイノの役目だというなら。あの戦いは、織江心という名のソースであった女性が関わっていたのだから、少なくともユイノと彼の面識くらいは信じるべきなんだろうが。
豊の口が塞がっている状態だから当たり前だが、お互いに黙りこくったまま、俺は血を吸わせた。
豊が俺の腕を放したのを見計らって――別に今更気にしやしないのに、どこかバツの悪そうな顔をしている――俺は、今日、豊に伝えると決心した事実を話し始めた。
案の定、豊の顔色が変わる。訝しむような、しかし感情の乱れを隠しきれないような。
数秒の間の後、合点がいったというような顔をしたと思ったら、その表情は見る間に憤りへと変わる。
討伐事務所には、自治体役所の一室を与えられ地元での魔物とのトラブルに出動する地域密着型と、純粋に利益を上げることを目的として自ら魔物を追う営利型がある。前者は役人と大差ない働きをしているが、後者は血気盛んに魔物を討って出るため、常に命の危険にさらされることになる。
東さんの属している討伐事務所はまごうことなき営利型で、知り合いがそんなところに勤めるなんて知ったら全力で説き引き留めるのが人情というものだろう。
だから最後まで、肝心要な部分はこの場で口にせず。必要なら東さんに直接聞いてくれ、と投げたら、豊はわかってるよ! と苛立たしげに髪に手を突っ込んでかき混ぜていた。
よほど動転しているのか、後先考えずに立ち上がり、ふと思い出したように俺を見下ろす。
別れを告げると、豊は背丈の倍以上はあるフェンスをひと跳びで乗り越え、薄闇の空を飛翔して姿を消した。
ようやく静かになった屋上に取り残された俺は、とりあえず大きく背伸びをした。気が抜けたせいか、とびきり大きなあくびも出た。
どうしてだろう……特に何か成し遂げたのでも、前進したわけでもないのに、こんなに爽快な気持ちでいるのは。何ひとつ解決していない、しかし、 お互い抱えていたものを吐き出すことが出来た。豊には、亡き仲間との約束だけでなく、自分自身の生きる目的というものが見つかった。素直に考えれば、この解放感のわけはそんなところだろう。
さて、ぼちぼち俺も帰ろうかな。家族はいないけれど、エメラードからの馴染みの待つ、森の奥の館へ。