36/ 百年
文字数 5,502文字
何事もなかったような涼しい声で、エリスが告げる。よく確認すると、白い刃はエリスの足から生えているのだとわかった。
恐ろしいことに、その状態でエリスは立ち上がると、無造作に力を込めて足を振る。その反動でディーヴの体は白い刃から解放され、腹に大穴を空けた状態で
後ろに倒れこむ。悲鳴をあげる余力もないのだろう、穴と口からごぼごぼと血をこぼしながら、ただ痙攣するしかないようだった。
魔力を魔術に使用出来ないエルフが、
実戦に耐えうる魔術道具を作るには、
エルフ界の恵みから地道に魔力を集めるしかありません。
百年の間、水で編んだ布を光にさらし、祈りを捧げ、
点で繋ぐように魔術式を描いていった。
全てが完成するまでに百年を費やしてしまった
立ち上がりたいのだろうか、左右に投げ出した腕、指先だけがひくひくと無念そうに動く。共感しないというエリスの言葉を聞いていなかったのか、ディーヴの声色は明らかに同意を求めていた。
俺やエリスよりも小柄で幼い身体は血だまりに囲われ、そうして痙攣さえなくして動かなくなった。最期のひと時、サータ、と消えいるように呟く。
すると、あまり直視したくはないがディーヴの身体に空いた大穴の傷口で、内臓をかき分けるように何かがうごめいた。積もりたての雪のように真っ白なカブトムシ――恐ろしいことに、血のあふれ出る体内から這い出てきたくせに、一点の汚れもない純白を保っている――角を除いたとしてもゆうに十五センチはあると思われる大きさも併せて、異様な存在感だった。
の角を掴んで目線に合わせて持ち上げる。ライトの目の高さなのだから、当然俺やエリスには見上げる形になるが、虫は抵抗する様子もなかった。
いつからか、エリスは右腕で腹を隠すようにしていた。
その腕の隙間から透明な水が流れ、地面に水たまりを広げ始めている。
ライトもヴァニッシュも、すでに動かなくなっているディーヴについて言及しない。
想像だけど、何となくでも理解している。エリスのバンダナやディーヴに致命傷を与えたあれは、エリスにとっては奥の手のようなものなんだろう。ディーヴ
が最初からエリスのバンダナと足に魔術式が刻まれていることを知っていたら、今回の策は通用しないと判断したかもしれない。そう考えるとまたサクルドから補足があり、エルフは名前と同様にマザー=クレアから授かった肉体を大事にしているから、魔術式を刻んで身体を傷つけることをよしとしないのだという。
ディーヴを生かして帰さないと言ったのは、きっとこういうことなんだ。彼女の最期の言葉から同情していいような事情があったかもしれないとしたって……。
豊のヴァンパイア用の保護服はゆったりとした黒いローブだ。その懐に手を差し入れて、内側に隠していた何かを取り出すと、裏地の鮮やかな赤が目に入る。
俺達に確かめさせるように豊が握っているのは――黒い毛の、獣の足だった。
誰かが叫ぶように、俺の名を呼ぶ。全身の力の抜けて倒れかけた俺を、とっさにヴァニッシュが支えたんだろう……発熱とは違う、心臓からにじみ出るような熱さが他の誰でもない彼の証だ。
ティアーのところにいた虫は神経毒の強いやつで、右の前足をすでにやられてたんだ。
捕まるわけにいかないんだって、あいつ、自分でその足を噛みちぎったらしい。
俺はティアーを連れてこっちに戻ろうと思ったんだけど……
……ティアーのところまで歩ける体力が回復してからでないと、駄目だ。
ティアーの治療にはきっと数日かかるから、今行っても会えるとは限らない。
何より、ティアーは自分の為に敦が無理をしたと知ったら気に病む……わかってくれ
答えたかったけど、やっぱりつかえたように声が出せない。力を振り絞って、一回、頷くだけで精いっぱいだった。
人間と鳥を足して二で割ったような、アンバランスな姿だった。ヘソから下は羽毛で覆われ鳥の足が突き出ており、腕にあたる部位は羽。それ以外は人間。服を着ていないので、小ぶりだが女性的な膨らみのある胸が丸出しだ。内に巻くような癖のある茶髪が頬を撫でる長さで、くりっとやたら大きく 見える青い瞳は主張が強すぎる。右腕……羽、とするべきだろうか……だけでかなり大きな氷塊を抱えているのだから、かなりの力持ちかもしれない。
確かめようがないけどそんなことも言ってたっけかなぁ。
あいつは人間に羽衣とられて夫婦になった鳥精霊の娘なんだがよ。
夫婦はフェナサイトで暮らそうと したんだがディーヴの頭の羽があって、
人間に受け入れられなくてアクアマリンへ渡ったとか。
人間に気に入られたくて丁寧に話すように心掛けたけど無駄だったってぼやいてたんだよ
夕方、流れてくる風が涼しくて気持ちいいから外に出たいと頼んだら、ベルが許可してくれた。体を動かさず、傍に狼になっているヴァニッシュを待機させておくという条件付きで。
視線の先、向かいの木の枝には、この上なく気持ちよさそうに歌っているナウルの姿がある。といってもその歌声は空気をひっかくような不協和音で、気持ちのいい代物ではない。俺の感性や気分の問題ではなく、ハ―ピーという種族の歌はそういうものらしい。
しかし、ハ―ピーの主食である虫は何故かその音に魅かれて集まってくる。今も、ベルが気絶させて埋めておいたというディーヴの虫が四匹、歌声に引き寄せられるように木を登ってきた。
最初にナウルの膝元にたどり着いた人間大のむかでが、甘えるようにすり寄るのを掴まえて、彼女は大きく口を開ける。その瞬間を見る気はしないので、俺は体育座りの膝に顔を埋めた。
ディーヴが百年かかりで育て上げた虫達も、ハ―ピーの手にかかればあっという間に胃袋の中に消えていく。
ディーヴが百年間、かすかな希望にすがって守り続けた父親は、ベルが一滴残らず血を吸い上げて殺した――ソースをかくまう目的は合法的にそうした餌がやって来るからよ、なんていつもの調子で言っていた――百年越しに起こされるくらいなら、眠ったまま楽にしたやった方がましだろう、というのはベルの意見だ。
そして、ディーヴは百年間を共に過ごした盟友と、また共に過ごせる日を願い続けた父の末路を知ることもなく死んでしまった。
あいつのせいでティアーは体の一部を失って、痛い苦しい思いをした。同情なんてしたくないのに、胸が痛くてたまらなかった。あいつの為に流してやる涙なんてない、だから気を抜くとこみ上げそうになる涙はどうにかこらえてみせた……。