ライトは川で熊肉の仕込みに、エリスは入り用だとかで山に薬草を摘みに出てしまった。
今や、俺の護衛にいちいち誰か側に置いておく必要はない。そればかりか、一時的にここを空けるライトとエリスから、ベルに万が一のことがないよう彼女の眠るツリーハウスを見守る役を期待されているのが明らかに感じられる。
明日からはマージャの担当だが、今日のところは俺が魔術で起こした火を見張って退屈な時を過ごす。何とはなしに目線を上げると、起床した豊がツリーハ ウスの小屋から出てくるのが目に入る。その豊が、足場に腰を落ち着かせ時間の浪費をしているマージャにひと声かけた――あいつの性格からして、その行為を咎めたんだろうな――この距離では彼らの声が届くはずもないが、俺は視力は良い方なので見えるだけの情報でもそれなりの判断材料になる。
そうして気楽な傍観者でいたのも束の間、あまりにも予想通りに、ふたりは口論を始めたようだ。口論というより、マージャがいつもの調子で軽はずみなことを言って、豊の機嫌を損ねたんだろう。彼らは元から相性が良くないが――マージャの方は思うところなどなさそうだが、豊の方はマージャのような悪ノリした奴は苦手そうだし。さらに悪いことに再会したあの日、不覚をとって片腕を落とされたことを「はいそうですか」と許容してやるわけにもいかないのだろう――これから行動を共にするというのに、ちょっと油断するとすぐに険悪な空気になるのは何とかしてもらいたいところだ。
やがて、剣呑な表情でマージャを睨み据える豊が口をつぐんだのを見た時、思いついた。マージャに訊いておきたいことがあるんだけど、せっかくつけた火の番をしている以上、ここを離れるわけにはいかない。誰かに代わってもらわないと。
と。ごく小さな、届ける気がないような声でそっと呼びかける。
しかし俺の思惑通りに声は届き、豊だけがこちらに顔を向ける。魔物の耳にはこの距離に囁きのような声でも届いてしまうのだ。
もくろみが成立したせいで、事が済んだわけでもないのに心なしか満足しながら、豊に向けて手招きをした。
火の番を豊に頼み、縄ばしごを上ってツリーハウスの足場に立ち。その義眼でどこまで見えているのかわからない、しかし目線はまっすぐ空に向けているマージャの背中にそう問いかけた。
普通に見えてる奴には説明しにくいんだけどな……
俺に見えるのは、死んだ色だけだよ。
う~ん……
俺を見ないまま、俺に理解させるための例えをマージャは探っているようだ。
例えば、炭と、それを燃やした後の灰みたいな色かな。
特別濃い色は真っ黒に、それ以外はほとんど灰色って感じかなぁ
そ。さっきエリスが言ってたろ?
性別がないのと見たものを石化させる目ぇ以外は、
俺は普通の人間と一緒なの。
それがどうかしたか?
五体満足に生まれた人間には、障害を負う者の不自由など想像するしかない。余計なお世話だ、と思われるとしても、俺は理解したかった。こいつの、抉り取られた目の代わりの義眼も、ゴブリン族と共に背負う呪いも。それらが与える苦痛と困難を。
俺の言葉に、マージャは小さく笑った。本心からおかしくて笑うのとは違う、空元気をちっともごまかせない乾いた笑いだ。
おまえ見てるとさぁ、
おまえによく似た友達を思い出すんだよな、
しょっちゅうさ。
今のも、ほとんど同じ意味のこと
そいつに言われたよ
俺に似てる?
さぞかし良い奴なんだろうなぁ、そいつ
ああ、まったく。こんな人間が世の中にふたりいて、
そのどっちとも出会うなんて恵まれすぎてるよなぁ
ボケたつもりだったのにあっさり肯定されてしまう。褒められているんだから喜ぶべきなんだろうけど、どうしてかちょっと面白くない。
……ほんと、まるで現実じゃないみたいだ。
人間の体になったのも、
あいつらと会ったのも、
人間の学校に通ったのも、
おまえとこうしてエメラードにいることも。
実は全部が夢で、目が覚めたら……
今もユークレースの泥の仲間の中にいる……
なんてこと、ないよな?
いつもと違う、茶化したところのまるでない痛切な響き。普段はこらえている不安がおさえきれなくて、うっかり口をついて出て、それがしのびなくて今もこちらに顔を向けられないでいる。そんな風に、俺には感じられた。
俺は今、間違いなく起きてるよ。
少なくとも、こうしておまえと話してる今が
夢なんてことはありえないから
安心しろ、とはあえて言わず、俺はわざわざ呆れている風を装った。平常時のこいつならそんな演出など当たり前に見抜かれるのだが……こんなつまらない言葉にさえ、マージャはすがらずにいられないようだった。
ツリーハウスに帰って最初の朝は、どす黒くさえ見える深紅の朝焼けに迎えられた。赤い朝焼けは雨の前兆だ。まったく降らないのも困るのだが、狩りをするには面倒な天候になりそうだ、とうんざりしてしまう。
朝焼けを観察したところで大きく伸びをしていると、縄ばしごを上って顔を出したマージャから脳天気な朝の挨拶をよこされた。俺だって夜明けと共に目覚めているのだから、決して俺が遅く起きたわけではないのに。ここでの暮らしに慣れていないこいつが先に起きるとは。
ユイノが夜のお出かけから帰ってきた時にさ。
ついでに、先に火を作っといたから、
これから水源へ行ってくる
豊が朝食分の狩りに出て、帰ってくる時か。あいつの行動時間に俺はいつも眠っているので、それがいつ頃なのかがよくわからない。
水源の場所は知ってるのか、と確認しようとして、その前に察した。ツリーハウスから水源まではわかりやすい獣道があり、分岐もない。素人だって間違えようがないくらいに単純だった。
やたらテンション高いマージャが水源目指して駆けだしていったのを見計らい、俺はツリーハウスを下りる。
もう陽が出ているというのにマージャに付き合わされていた豊は、やはり疲労の色が濃い。
おはようさん、ユイノ!
お勤めご苦労さん。
後は任せてさっさか休みな~
後から起きてきたライトはいつもと違う事情があるとは知らず、いつもと同じねぎらいの言葉を豊に贈る。しかし、豊の反応は事情を知る俺にも予想外のものだった。
至極、まじめな顔をしてそう呟いた。他ならぬ豊にそう言われると、俺もライトも真剣になるしかない。
豊の予言めいた発言は、いわゆる「虫の知らせ」でしかないのだが、彼を含めヴァンパイアという種族のそれはほぼ確実に的中するからだ。
さあね。何かあるかも、
ってことはわかっても、
それが何かはわからない。
そういう役立たずの力だし
どうやら豊に不本意な解釈をされてしまったようだが、構っている場合ではない。
戦闘になればこちらの戦力の要になるだろうライトに、意見を求めようと彼を仰ぎ見る。
ライトは、あらぬ方向を見ていた――いや、目がその方向に向いているというだけで、何も見ていないかもしれない。顔面の筋肉を硬直させ、限界いっぱいまで見開いた目。その眼球さえ、何らかの感情に動かされるように震えて。
これまでの付き合いで見たこともないような、感情を剥きだした表情だった。
その答えを待たず、ライトは長くたくましい足を踏み出してたき火を超えると、その勢いのまま走っていった。あっと言う間に木々の向こうに姿を消す彼をただ見送るしかない。こうなってしまえば、巨人族の疾走に追いつくことなど不可能だ。
魔力が近付いてる。
この距離でもにおってくる……
この感じ、タイタンだ。
だけど、ライト以外のタイタンが縄張りを出るなんて
ライトの急変にさしたる関心を示さなかった豊は、どうやら異変の原因を探っていたらしい。
「ユイノ」の知ってる限りでも、
ライトの他にはひとりしか
実りがあるような、しかしこの非常事態にあってはどうでもいいような会話は遮られた――ともすれば、空の青に溶け込んでしまいそうな儚く澄んだ空色をした鳥が、俺と豊のちょうど間に割り込むように舞い降りたことで。
呟いてから、事の重大さに思い至った。この島の水源であるセレナート……彼女を喪えば、エメラードから水は消え去り、ただ滅びを待つのみとなる。その彼女が可愛がっている鳥が、わざわざ俺達の前に現れたのだ。
いや、そんな気配はしない。
そもそも水源に危機が迫るようなことがあったら
島中おお騒ぎになってるよ
落ち着き払った豊の指摘に、それもそうか、と思わず納得しそうになる。そうだとしても、異常であることは変わりないのに。
現に、羽ばたく音こそないものの――これは、セレナートの寵愛を受けた証だ――鳥の動きは慌ただしく、こちらを急かしているように見える。
俺は言うまでもなく、この鳥の導きに任せるつもりだった。
長い逡巡があった。ぴりぴりと、唐突な緊張感が肌をつついているような気がした。