80/ 当然の報い
文字数 3,748文字
まばたきの後には、目に入る建物の様子が一変していた。
変わったといっても、アパート全体が様変わりしたわけではなく、部分的な違いではある。しかし、それは人間の世界から魔物の世界という異界への境界を一目で表してしまう、まさしく「一変」だった。
アパートの二階、最奥の部屋の入り口は開け放たれまま、石化したらしい――扉だけでなく、白塗りの壁の一部が石となって灰色に染まっている。
答える代わりに、オーダー通りの魔術壁を展開する。何があるのかわからないので、魔力も加減せず全開に。こういう、魔力を節約する必要なく頭の悪い使い方が出来る辺りが、ソースの脅威なんだろう。
ぽっかりと、長方形に切り取っただけのように錯覚してしまいそうな入り口から室内に入る。そうじゃないかとは思っていたが、やはりこの一室そのものが石化していたらしい。
その目で見た者を一瞬で石に変え、絶命させる。それがマージャの攻撃方法だ。この部屋をこんな風にしたのはあいつの力なんだろうか。
台所が板の間で、居間が畳。灰色一色で無機質な石の形をしていたってそれくらいはわかる。真正面にある襖も開いたまま石になったのだろう。そこで、ようやく思い至る。扉を閉めたままで石化していたら、室内に閉じこめられ出られなくなってしまうんだと。
彼女を魔術壁の内側に入れている俺のことなどお構いなしに、シュゼットは土足でスタスタ上がり込んでしまう。抗議するのも無駄と察して、俺も急ぎ、彼女に倣って先へ進む。
居間へ入って、さっと左手側に視線を向けるシュゼット。その目線を追うと、本来窓があったと思われる正方形の切り抜きに、身を乗り出してぐったりと伏せているマージャがいた。肘をつき、両手のひらで頭を抱えるマージャは、全身が大きく震えている。
静かに、シュゼットが訊ねる。わずかなタイムラグの後、肘を持ち上げ、身を起こそうとしたらしいマージャはすぐに、狂ったように頭を振る。
思いもしない事態に、俺は動揺することも忘れただ唖然としていた。
今は亡き、ゴブリンという魔物の種族があった。
奴らは好戦的で、自らの楽しみがためだけに生きる。
気まぐれにフェナサイトを襲っては虐殺、略奪を繰り広げ、
魔物の他種族にも闘争をけしかける。
数ある種族の中で最低に下劣で俗悪な者どもとして、
魔物からも同胞と認められず、
アクアマリンに繋がる孤島ユークレースに隔離されていた。
かいつまんで述べれば、これがゴブリンだ。
あれは、およそ四百五十年前のことだったか。
ゴブリンに孕まされた人間の子供がひとり、
ユークレースでゴブリンと共に暮らしていた。
ゴブリンは混血を徹底的に虐げる慣習があり、
その者もそのように扱われた。
また、ゴブリンとの混血は例外なく、
顔の造作の歪んで生まれる。
それがため、かの者はフェナサイトへ逃れることも出来なかった
そんな日々に耐える中で、それ相応の怨念を蓄えていたのだろう。
幸か不幸か、奴が生まれて十五年後に、ソースの能力に目覚めた。
その日の内に、奴はその力でもってゴブリン族全体にまじないをかけた。
これまでに自身が、そして人間という種がゴブリンに与えられたものに見合うだけの苦痛を与えるために
ゴブリンの肉体は見る間に腐り、汚泥のようになりそして死んだ。
しかし、死んだ次の瞬間にはまた甦る。
生きている間は、拷問に等しい肉体的苦痛を受け続ける。
そうして死に、また苦痛と共に生き返る。
延々とこの繰り返しだ
この呪いを解く術は明らかになっていない。
いや、明らかにする必要がない。
これが魔物の総意だ。
何故なら、その苦痛に見合うだけの罪悪を、
ゴブリンは犯してきたのだから。
因果応報の報いに情けをかけるなど、
秩序のためにあってはならないことだ
この四百五十年の間に数回、確認されていることだ。
ゴブリン族は泥の肉体で、個体としての区別も難しいまでに群れて寄り合って生きている。
その中で、ごくごくまれに、人間の肉体に転生する個体が現れる。
泥と苦痛に支配され、罪を償い続ける運命から解放された者がいる。
こやつもそのひとり。ただし、人になったゴブリンには新たな運命が待ち受けている。それが、
激痛に、顔面には幾重にも深く皺が刻まれ、必死に紡ぐ言葉は息も絶え絶え。それでもマージャは、いつも通り、どこか茶化したように話そうとする。
そんな様子にため息をつき、シュゼットは中断した話を再開する。
そのゴーグルは魔眼を制御するため、
アクアマリンの法でもってマージャには装着が義務付けられている。
しかし、義眼と違ってそのゴーグルは、魔術道具としては粗悪品だ。
魔力を体の内へ強力に抑え込んでおり、力の逃げ場がない。
定期的に毒抜きをしてもなお、おそらく大幅に寿命を縮めるだろう。
特に、月からの魔力供給が最も強まる満月の夜を超えた翌日には、
今の有様のように激しく肉体を苛むのだ