第1章 第9話

文字数 1,933文字

「そんな訳で、今日から松本が練習に来ると言うので、上田先生よろしくお願いしますよ」

 副校長の中野はそう言って一方的に電話を切った。

 冗談ではない! あの松本寅がサッカー部の練習に来るなんて…

 上田一美は蒲田南中の体育科の教諭であり、四月から三年二組の担任を務めることとなっている。更に四月からはサッカー部の顧問を任されてしまった。
 それまで顧問だった先生が他校に転出し、そのお鉢が回ってきたのだった。

 何故私が? サッカー部?
 二年前に蒲田南中に転入する前は田園調布の中学に勤めていた。自身がかつてやっていたバレー部の顧問を務め、都大会に出場する程熱心に指導していた。
 この学校にはすでにバレー部に顧問の先生が付いており、一美は二年間どの部活にもタッチせず過ごしてきた。

 そもそも、この学校の柄の悪さにヘキヘキとしていたのだ。大田区でも最悪の学校と揶揄されており、件の松本寅なぞ先週まで少年院に入っていたのだ!
 今年で四十になる一美の教員生活で少年院に入った生徒は居なかったし、これまで勤務した学校はどこも高級住宅地にあり、生徒の質も素晴らしかった。

 二年前。赴任の挨拶の為、壇上に上がった時。私語と野次は挨拶が終わるまで静まることはなかった。授業中も私語どころかゲーム、スマホ、時には乱闘が起き、今時こんな中学がこの世に存在していることが信じられなかった。
 生徒だけでなく、副校長の中野先生も責任は部下に押し付け、手柄は自分で持っていくと言う最悪の上司であり、たまの飲み会では体を触られたりもして、何度この学校からの転出を考えたことだろうか。

 それでも一美を思い止まらせたのは、学生時代にバレー部で全国大会出場というプライドである。練習中に吐くなんて当然。気を失うほどの練習を重ね、鍛え抜かれた根性だけは誰にも負けない、と言う自負があるのだ。
 その根性を持ってしても、どうしてもこの学校の子たちには、未だに慣れない。それもよりによって、不良の巣窟(と一美は信じ込んでいる)であるサッカー部の顧問をやらなければならないとは…

 私、このままでいいの? こんなヤンチャな子たちに小馬鹿にされながら、あんな嫌な上司にネチネチされながら、それでも教師を続けるべきなの? 他にやるべきことがあるんじゃないの?
人知れず思い悩む一美なのである。

 新三年生のキャプテンから連絡が入り、今日の二時から学校で練習するから来て欲しいとのことなので、午前中に新学期からの準備を済ませ、昼食は駅前の馴染みの中華料理店で大盛りチャーハンを掻き込み、十五分前には学校に到着していた。

 二時にグランドに出てみると、不審な中年男性が生徒を集めて話をしている。
 一美はメガネを押さえつつ慌てて走り出し、生徒の輪に近づく。
「どちら様ですか?」
 生徒達が一美を一瞥し、視線を男に戻す。

 男は話を済ませ、生徒に何事か指示を出すと一美の元に歩み寄ってくる。
「トラ… 松本に頼まれて、今日一日コーチの永野ですけど。先生は?」
 そんな話、一切聞いていない! 何それ!
「私、サッカー部顧問を四月から引き受けます上田です。えっと、永野さん? そう言った話を学校側は聞いていないのですが?」
「やっぱそうか。トラの奴、大丈夫大丈、なんて言ってたけど。そーだよね、いきなり部外者がコーチとか、不味いよね?」
 なんだこのやる気ゼロの中年オヤジ?

「はあ。あの、生徒の保護者関係の方でしょうか?」
 男は首を振りながら、
「いや。全然。この学校には縁もゆかりもないよ」
「だとすると、学校側から発行された指導許可証を持ってもらわないと…」
「ま。今日一日だけだから。それに春休みで誰も見てないでしょ」
「はあ、まあ…」

 誰なのだろうこの男は。背は175センチある一美より高く、がっしりしており、嘗てはサッカーの選手だったのかも知れない。
 髪の毛はボサボサで顔もやや浮腫んでいるのだが、昔はさぞや女子にモテたであろう整った顔つきだ。眉毛は太く、意志の強さを感じさせる。唇は薄く、やや繊細な神経の持ち主なのかもしれない、見かけによらず。

「では、取り敢えず、今日一日ということなので… あの、怪我だけは十分に気をつけてください」
 すると男はムッとして、
「怪我なんてしたくてするもんじゃねえんだよ」
 一美もカチンときて、
「指導者なら怪我の予防もしっかりしてくださいよ。またやむなき怪我の応急処置も!」
 男はちょっと驚いた顔をしながら、
「お、おう…」
 と言って一美に背を向け、生徒たちにグランドの真ん中にボールを集めさせる。

 何このオヤジ。なんかムカつく。だけれど、何か気になる。それが何なのか、未だに独身彼氏無しの一美にはさっぱりわからなかった。
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