第2章 第10話

文字数 2,442文字

「…という訳で、この度学校側からもお願いして、サッカー部のコーチに就任してくださった、永野さんです。永野さん、一言お願いします。」

 健太は立ち上がり、エリートサラリーマン然としたお辞儀をする。保護者達はちょっと背筋を伸ばして黙礼する。

「この度、ご縁があってこの学校のサッカー部を指導することになりました永野健太です。サッカーは子供の頃からやっていまして、高校の時にインターハイに出場しました。」

 おおお、と保護者がどよめく。

「大学でもインカレでベスト4に入りました。卒業後、玉川電機に入社しサッカー部でJリーグ昇格まで選手としてやっていました。」

 すごい… 保護者達の目がウルウルしている。

「選手引退後は営業職に邁進し、去年まで営業部長を拝命しておりました。」
 遂に拍手が起こる。勿論煽動しているのは松本の母親だ。

「そう。去年まで。」

 健太は静かに着席する。保護者達は頭上にはてなマークを浮かべる。

「去年。私はパワハラで訴えられ、関連会社に左遷となりました。」
 会議室がシーンと静まりかえる。
「同じ頃、妻に離婚を申し立てられ、独り身となりました。」
 皆が健太の言葉に、息をするのも忘れるほど聞き入っている。

 特に一美の衝撃は相当のものであった、まさかこんな立派な紳士がパワハラ? 離婚して独身? 信じられない…

「私は仕事と家庭の両方を失い、自暴自棄となり、昨年末暴力事件を起こしてしまい、現在会社から自宅謹慎処分を受けております。」

 遠くの車のクラクションの音が会議室に響き渡る。一美は自分の息を呑む声が会議室に響いた気がする。

「そんな私がお子さん達を預かる資格があるでしょうか。おそらく保護者の皆さんは大変不安を持たれると思います。」

 皆が、いやあゆみを除く皆が、軽く頷く。

「ですが。私はサッカーを愛しています!」

 健太は急に立ち上がり、胸を張って声を高める。

「先日、数十年ぶりにスパイクを履きボールを蹴り、私にとって仕事や家庭を失っても、サッカーだけは失いようのない、掛け替えのないものだと再確認しました。サッカーは世界中で愛されているスポーツです。老いも若きも、富める者もそうでない者も、皆が等しく楽しめるスポーツなのです。そんなサッカーの魅力を私は皆さんのお子さんに伝えたい。勿論、勝利には拘ります。しかしそれ以前にこの世界中で愛されているサッカーを好きになってもらいたい。皆さんは学生時代、何かスポーツに打ち込んだ事はありますか?」

 全員が首を横に振る。一美は一人首を縦に振る。

「学生時代、それはこの中学生時代も含めます、何かスポーツに打ち込めば、仲間が出来ます。それは一生付き合うことになるかけがえのない仲間が、です。」

 ほーー。会議室に感嘆の声が流れる。
 その通りだ。未だに月一で飲む友人は全て高校、大学時代のバレー部の面子だ。一美は健太の言葉に何度も頷く。

「そして。この最近の私の様に、この先の人生でへし折れることがあっても、スポーツがあれば、サッカーがあれば必ず立ち上がれます! 」

 全員が、一美も亜弓も深く頷く。

「どうか皆さん。私にチャンスを頂けませんか。お子さんが人生のかけがえのないものを手にする手助けを、どうかさせて頂けませんか。お願いしますっ!」

 健太は営業時代の頃よりも真摯に真剣に頭を下げた。

 一美は己の中の閉じ込められた情熱が噴き出すのを感じている。前の中学のバレー部での指導を思い出す。生徒も自分も、そして保護者も一丸となりと大会を目指したあの日々。そしてその栄光を勝ち取り皆で抱き合い流した涙の熱さを。

 この学校で、この区内最底辺の中学で、しかも男子だけのサッカー部で。私はまたあの栄光と興奮の日々を味わえるのだろうか?

 直角に腰を曲げお辞儀をしている健太をじっと眺める。
 この人と、一緒なら…

 普段は単なる野蛮で薄汚い中年男。だが、こうしてやるときはやる男。こんな底辺の保護者にさえ深く頭を下げられる男の器の大きさ。

 それと。

 無精髭を剃り髪を整えた今日の健太の顔。実は一美のドストライクなのである。日焼けした端正な顔。太い眉毛。意志の強そうな目。

 この人と、一緒なら…

 一美もスクッと立ち上がり、保護者に向かって
「私はサッカーの事は何も知りません。ですが、永野コーチを支え、お子さん達にサッカーを通じて人生のかけがえのないものを掴んでもらいたいです! この学校の、この部活でしか手にできないものを! どうか皆さん、お願いします!」

 叫ぶ様に言い放った後、頭を下げた。何度も、何度も頭を下げた。
 そして程なくその想いは会議室の全員に伝わった。

「コーチ、お願いしますよ。もういうこと聞かなかったら、引っ叩いてやってください!」
「ウチのも全然いうこと聞かないんで。蹴っ飛ばしてやってくださいよ」
「先生、どうかよろしくね。」
「あのー、何か手伝いとかしましょうか、球拾いくらいなら僕にも出来そうなんですが…」

 健太は一人一人の保護者の前に行き、手を握り頭を下げる。
 顧問の一美もそれに倣い、一人一人の保護者に深く頭を下げる。頭を下げるたびに、心に熱い物が込み上げてくる。ああ、又味わえる、あの熱く燃えたぎるような情熱の日々が!

 一美が亜弓に頭を下げ、そして亜弓の顔を見る。
「せんせ。おにぎり」
「は…?」
「試合の時。おにぎり。作ってくよ。みんなの分。」
「松本さん…」
「だから。試合の日。取りに来てよ。ウチの店に」
「あ…ありがとう…ございます」

 不意に一美の目に涙が浮かぶ。さっきまで理由なく睨まれていた一美は

「至らない点ばかりだと思います… 私、サッカーのルールも知らないし… でも…頑張ります。この子達のために、頑張ります。何でもします。なので… 色々…」

 亜弓が一美をしっかりと抱きしめる。互いに身長が170センチ近くあり、それはなかなかの迫力だ。そんな二人が涙を流して抱き合っている。

 他の保護者は何事かと慄きつつも、温かい目でそれを見守っていた。
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