第1章 第7話

文字数 2,276文字

「ありゃりゃ。パワハラかあ。それはアウトだわー」
 ミキ、という中年のホステスが苦笑しながら首を振る。
「ダメだよー永野さん。今時の若いヤツは根性ないんだからさー。チンピラ中坊相手に立ち向かってく永野さん世代とは、違うんだからさあー」
「ボロカスに弱えくせに、な」
 隣でラーメンを食べ終わったトラが見下し笑いを健太に向ける。
「弱えくせに、口ではえらそーなこと言ってでしゃばって。弱え奴だけに威張り散らして。アンタ最低じゃん。」

 健太は顔が歪ませ下を向くしかなかった。その通りだ。そんなつまらない人間に俺は何時からなってしまったのか。

 少なくともサッカーを引退するまではこんな自分ではなかった。仲間を愛し信頼し、喜びも苦しみも皆で分かち合っていた。何よりサッカーを愛し、愛され、この世に不満なんて何一つなかった。
 それが、一体どうして…

「あなた。ちょっとお話があります」
 健太の辞令が下された。川崎工場の資料課課長。地方に飛ばされなかっただけまだマシである、そう思っていたある日。
 妻の良子が硬い表情で切り出した。
「これにハンコを押してくださいませんか?」
 一枚の緑色の紙を健太の前に差し出した。

「ちょ、ちょっと待ってくれ。これは一体どういうことなんだ?」
「どういうことも何も。こういうことです。」
「いきなり離婚してくれなんて…どうして…」
「あなたは今まで私の言うことなんて、何一つ聞いてくれませんでした。仕事のこともそう。父の会社を継いでくれとあれほど言っても、耳を貸してくれませんでしたし。」

 良子の父は横浜で手広く不動産業を営んでいる。その仕事を結婚当初から継いでくれないか、と言われてはいたのだが。

「それに克哉のことにしてもそう。あなたは勝手に学校を決めてしまうし、無理矢理サッカーをやらせるし。あなたは全てが自分の思う通りにならないと済まない人なのです、昔から。」
 
 いや… 学校は大学まで受験が無いから良い、と賛成してくれていたのでは… それにサッカーは克哉がしたいと言ったから…

「全然違います。学校は横浜の父の母校の附属が良いと言ったのに、勝手に東京の学校に入れてしまうし。それに克哉はサッカーがしたいだなんて、一言も言った事はありませんよ。あなたは何でもそう。自分の独りよがりを周りに押し付けてきたのです。」

 健太は呆然としてしまう… これまで良子が健太に対して、こんなにはっきり自分の意見を言うことなど一度もなかったからだ。

「そんな事はありません。私は何度も何度もあなたに話しています。でもあなたは全く耳をかさなかったのです。」

 本当にそうなのだろうか、結婚してからの自分を振り返ろうとした時、

「これ以上あなたと一緒にいる事はできません。克哉は当家で引き取ります。来週実家に戻ろうと思います。」

 克哉との思い出が走馬灯の様に健太の頭の中を駆け巡った。

「この家は父があなたに与えたものなので、どうぞご自由にお使いください。」

 結婚祝いに良子の父は、新丸子の新築マンションの最上階を二人に与えたのだった。
 それだけ言うと良子は、離婚届をテーブルの上に置いたままキッチンに入っていった。

 翌週、健太が仕事から帰ると、良子は不要な荷物は置いたまま家からいなくなっていた。

「ううー、キっつー…」
「ひでー女じゃん。なにそれ、信じらんない」

 二人の女が激しく健太に同情してくれるも、
「でも、まあ、思い返してみたら思い当たることも多々あってさ。仕方ねぇかなって。」
 ママが空になったビール瓶をよく冷えた新しい瓶に換えてくれた。そして栓を抜き健太のグラスに注ぎ足してくれる。
「正直、女房はいいんだ。元々育ちも全然違うし。向こうはお嬢さん育ち、こっちはサッカーしか知らない下町育ちの庶民。合うはずなかったんだ」
「……」
「でも、克哉は… 息子は… 」

 健太はそれ以上、何も言えなかった。
 僕、パパみたいなサッカー選手になるんだ、と目を輝かせながら、昔健太が出ていた試合のD V Dを観ていたことを思い出すと、鼻の奥がむず痒くなってくる。
 今は大学のサッカー部でそこそこ頑張っているようだ。合宿所に入っているのでこの一、二年はちゃんと話した記憶がない。

 突然の左遷、突然の離婚が健太の心を蝕み始めた。仕事はほとんどなく定時には帰宅の毎日。自然とアルコールの量は増え、飲み歩く毎日。
 酔っ払って警察に世話になることが増え、ついに先月、夜の街で暴力事件に巻き込まれて、会社を無期休職となった。
 基本給のみ支払われるので収入は激減し、毎日の生活も苦しくなってきた。飲みに行く余裕がないので、酒を買ってきては家で飲む。一日中酒浸りの日々が続いていた…
「そして、今夜ここに至る。と言う訳さ。」

 ママとミキは大きく溜息をつく。隣のトラは一人スマホを弄っている。
「そんで、永野さんアンタ、これからどーすんの?」
 ミキが何本目かのタバコに火を付けながら問いかける。
「エリート社員がこんなに落ちこぼれちまってさあ。」
 赤の他人にこんなことを言われるなんて。ちょっと前の健太だったらなら、プライドを傷つけられたと怒り狂っていただろう。
 しかし今夜は、いやこの店では全く怒りが湧いてこなかった。寧ろその苦言が心地良くもある。不思議な店だ、いや不思議な人たちだ。

「そっか、ヒマ、なんだオッさん」

 不意にトラが口を挟んでくる。

「そしたらさ、俺たちの中学のサッカー部のコーチ、やってくんね?」

 飲みかけたビールを咽せてしまう。
「は? 何だって?」

「だからー。ウチのサッカー部の面倒みてくんね?」
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