第1章 第13話

文字数 1,908文字

「アタシ? なんでアタシの事? まいっか。うん、アタシ子供ん頃、勉強が嫌いじゃなかったんだよね」
「そうなのか? じゃあ、どうして…」
「どうしてこんな場末で落ちこぼれてんのかって? ケンカ売ってんのか! 親がさ、アタシが小学生の頃に離婚しちゃってさ」

 健太の胸がズキュンと痛む。
「そーだよー。親の離婚って子供の心にすっごい傷跡つけんだからねー。そー、そんで、アタシは母親に引き取られて暮らし始めたんだけど。やっぱ、経済力って子供の成長を大きく左右すんだよ。それまで行ってた塾も行けなくなって。母親は一日中仕事に出始めて。夕飯も遅くなって、それも出来合いばっかで。するとさ、親が褒めてくれなくなるんだよね」
「親、が? キミを?」
「そう。専業主婦だった頃はさ、自分に余裕があるんだよ。自分に余裕があるから子供を良く見れる、だから褒めてくれるし叱ってくれるし。でも親が生活で一杯一杯になっちゃうとさ、子供の事なんか見れなくなんだよ」

 亜弓の独白に健太は息を飲んで聞き入っている。
「テストでいい点とっても褒めてくれない。学校で悪さしても叱ってくれない。孤独、しかなかったんだ、あの頃のアタシ。」
「孤独、か…」
「そ。それからはテストでいい点取る意味がわかんなくなって勉強しなくなる。家にいても寂しいだけだから意味もなく外に出る。すると同じ様なヤツが居るわけよ。そんでそいつらとつるむ様になる。気がつくと髪の毛まっ茶っ茶、夜も家に帰んなくなる。」

 幸い、ウチの克哉は既に大学生。体育会の寮に入っており、その心配はなさそうだ…
「そいえば永野さんって出身どこ? 都内だよね?」
「江東区。門前仲町って知ってる?」

 亜弓は驚いた表情で、
「マジ? 門仲? ならさ、『深川のクイーン』って知ってんじゃね? 丁度タメくらいじゃない?」

 うわ… これまた懐かしい名前が飛び出してきたものだ…

「ああ、アイツな。同じ中学で同じクラスだったよ」

 亜弓は全力で身を乗り出す。近い、顔が近すぎる…

「きゃー、アタシ憧れなんだよねー、警官隊を殴り飛ばして仲間救って〜 今でも面識あるの?」
「さあ。高校出てから地元と全く繋がってないから。今頃どうしてんのかな」
 生まれ育った街に、久しく戻っていない。最後に行ったのはいつだったっけ…
「えー、いつか会わせてよー、ねーねー」
 急に可愛いキャラになる亜弓にちょっと驚きながら、
「ま、いつか偶然会ったら、な」

 懐かしい。何十年前の話だろう。あの時の仲間は今頃どうしているだろうー

「そうそう、それはさておき。だからね、旦那と一緒になって子供出来て。自分の子供だけは絶対寂しい思いさせないって誓ったんだ。だから今でも絶対夕飯はここで食べさせる。学校は絶対サボらせない。テストの点数は全部チェックする。いい点とったらハグしてやる。」

 羨ましい。真剣に思った。
「悪い点とったら。復習させる。」
「復讐じゃなくてか?」
「学校に乗り込んで、テメーうちの子に何て点数つけてんだコラってか? な訳ないじゃん!」

 その笑顔に、素直に惹かれる。サッカー馬鹿で学生生活を過ごし、職場にも女子が少なかった為、健太はあまり女性を知らなかった。結婚も上司の勧めであったので、女性とデートなんて数えるほどしか経験が無い。
 結婚後も仕事が忙しく、女性と付き合う、即ち不倫など皆無だった。

 そんな健太が、素直に亜弓は美しい、と思った。

 ま、こんなしょぼくれた五十オヤジじゃ真面に相手してくれる筈もないだろう。
 高嶺の花。
 それでも、いっか。

 今日のサッカーといい、彼女といい。この数年で今日、一気に目の鱗が落ちた感が半端ない。
「だからさ。出来たら、アイツらのコーチ、引き受けてくんないかなあ。そんでさ、トラのヤツを思いっきりシゴいて叱ってくんないかなー」
 この人の頼み。こんな俺へのお願い。健太はすっかりコーチを引き受ける気持ちになっている。

「顧問の先生が言っていた学校の指導許可? の問題はどうなんだろう」
「大丈夫だって。元Jリーガーで大企業の部長様だよ! 大歓迎さ!」
 だから… そうじゃないって…
「頼むよー。そしたらさ、永野サンもここで毎晩夕飯食べていきなよ。あ、酒は金取るよお」
 これ程魅力的なオファーは社会人になって初めてだ。
「分かった。学校次第だけど、引き受けるよ」

 カウンター越しに亜弓は健太に抱きついて感謝の意を表す。タバコと香水の混じった匂いに不思議な癒しを感じる。女性の匂いを意識したのはいつ以来だろう、健太はそっと目を閉じ暫しの幸福感に身を委ねる。

 そして。明日、御徒町に行ってスパイクやトレーニングウェアを買ってこよう。そう決める。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み