第1章 第6話

文字数 1,358文字

 本社の法務部に一通のメールが送られてきた。それは健太のパワハラに関する内容であった。入社二年目の若手社員が、健太の日頃の横暴ぶりを証拠の音声ファイルと共に法務部の社内コンプライアンス委員会に提出したのであった。

 ある日の昼休み、健太は本社法務部の会議室に呼び出され、その事実関係を確認された。音声ファイルを開くと健太の凄まじい怒声が会議室に響き渡り、委員会の面々は皆苦虫を噛んだような表情で首を横に振っていた。

「今時、ダメですよこれは。永野さん、毎年オンラインでやっている社内ハラスメント講習会、ちゃんと受講していましたか?」

 勿論していない。激務の最中にそんな暇は無かった。
「記録では… ちゃんと講習済みになっていますが。因みに今年の講習の内容を言ってみてくれますか?」
 部下に「チャチャっとやっとけ」と言ったのは思い出したが。内容なんて知る由もない。
「そうですか… これはかなりの問題です。講習会を自ら受講せず部下にやらせた。その部下とは誰ですか。確認しなければなりません」

 健太の背中に冷や汗が流れた。部下も責任を問われるだと?

 健太は部下に仕事上は非常に厳しい反面、人としては温かく接してきた。就業時間を過ぎれば人格がガラリと変わり、仕事のミスで凹む部下を励まし、部内の人間関係で悩む部下には何時間でも相談に乗ってきたのだ。

 この件では若手の有望株の田中が呼び出されることになった。田中は大学時代はラグビー部で、健太の体育会気質に良く合った大事な部下である。
「わかった。俺が悪かった。以後気をつけよう。だから田中を呼び出すのは勘弁してくれないか?」
 同席していた同期入社の須坂人事部長が首を振りながら、
「永野、そういう問題じゃないんだよ。昔ならそれで良かったのだけどな。これは今後の会社の在り方にとっても重要な事態なんだよ。ハラスメント撲滅は今や我が社の命題なのだから。」
「はあ?」
「ハラスメント対策が疎かな企業は東京オリンピックの協賛企業になれないのだよ。前からあれだけ言ってきたじゃないか。時代は変わったのだって!」

 須坂人事部長は冷徹な声音で吐き捨てる。

 健太の額から一筋の汗が流れ落ちた。

 一週間後。再度委員会に呼び出された。

「結論から申し上げます。今回の件はパワハラ自体の深刻さ及びハラスメント教育の意図的なボイコットの二つが、社長を含めた社内委員会で問題となりました。」

 社長もだと? 健太は顔が青ざめるのを感じた。

「そして。正式な辞令は来週発表するが。永野の部長職の任を解きしかるべき部署に転属とすることを決定した」

 須坂人事部長が冷たい声で言い放つ。

 膝の力が抜けた。会議室の硬い椅子に座り込んでしまった。
「あの… 田中は… 何か処分が下されたのですか」
 銀縁メガネの委員長が冷ややかに、
「彼の証言により、この一連の不祥事は全て永野部長の強い指示、いや命令によるものであることが判明しましたので、田中さんに対しては譴責処分とした次第です。停職や減俸処分はありません」

 俺の指示… 俺の命令… 確かにそうであるが、それを田中はありのままに委員会に全てぶちまけたのか? あれだけ目をかけてやったのに、あれ程面倒を見てやっていたのに…

 信頼し大事にしていた部下の裏切り行為が、健太には一番応えた。
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