神の家の子供たち
文字数 2,469文字
3.
「我々は、教会が悪と背信の手に堕ちるのを見た!」
入り混じって降る灰と雪を浴びながら、逞しい若者が檄文 を読み上げていた。場所は南ルナリア大聖堂の正門前である。二十人弱の取り巻きがいた。警察は見当たらなかった。
「贖 いを忘れ、謙虚の精神は地に投げ捨てられた! 教会は全世界で貧しき者から財を搾取し、政府に干渉し、独自の軍を持つに至った! 愛は蹂躙され、肥え太った聖職者によって飢える者は見捨てられ、病める者は嘲りを受け――」
檄に足を止める人の数が、一人、また一人と増えていく。大聖堂の門の向こうにいる人々でさえ、木の根本や階段に座り込みながら、呆けた顔を若者に向けている。
その人の群れを、司祭平服姿のセフが何ら躊躇せずかき分けて、教会の敷地に入っていく。アズも後に続いた。
「――あなた方にも心当たりはないだろうか!」
「右側から入れ」
前庭の中央まで来て、セフがアズを振り返った。
「聖堂の右側面の傾斜路 を下ると片開きの扉がある。入って二つめの部屋が客室で、階段を地下に降りたら寄付品をしまう倉庫がある。勝手に着替えておけ」
「ありがとうございます」
セフはそれだけ言って、さっさと大聖堂の前階段を上り始めた。アズは右を向きながら、この場にいる人々の顔に目を走らせた。
フクシャで出会ったミアやイスラの顔を見た気がした。
もちろん幻覚だった。
教会の右手に回り込むと、意外にもそこは無人だった。白い石壁に沿って傾斜路を下りながら、コートのポケットに手を入れる。
皺だらけの桃の種に触れた。
「知恵を貸していただけませんか」
ポケットの中で握ってみる。それは軽く、乾いていて、生気がない。
「あなたのスアラは……」
その名を口にしても、反応はなかった。
山中でローザと口論した際に、種は『奏明』、と言った。思えばそれ以来、一言も口をきいていない。
去ったのか。死者として。それとも西へ行くのだろうか。悪い魔女になって。
「はい! どいたどいた!」
女の声が耳を刺し、アズは肩を震わせた。背後でざわめきが起きた。檄が途切れ、演説者とは別の男の声が誰かを怒鳴りつけた。
「邪魔だ!」
振り向くと、二つに割れた人垣の中央に太った女が立っていた。まっすぐ聖堂に向かってくるところだったのを、立ち止まり、怒鳴り返す。
「邪魔なのはあんただよ、バーカ! なんなのよ教会の前で!」
アズは前庭に戻って身構えたが、演説者たちは思わぬ反撃に面食らっていた。その隙に女がもう一言。
「神が好きなら喚いてないで祈ってごらんなさい!」
それにしても、灰と雪に染められた街でなんと色鮮やかな女だろう。黄色い髪は生まれつきのものだとしても、桃色の毛糸で編まれた帽子、桃色の二重マント、空色のスカート、桃色のブーツ。そして、手にはフリルがたくさんついた桃色のバッグを提げていた。
人々が失笑し、催眠術が解けたかのように散り始めた。演説者たちもまた騒ぎ始めるのだろうが、今は興を削がれて互いの顔を見合っている。
女は太っていた。そそくさと正門をくぐり、注目されながら聖堂の前階段まで足を急がせ、そこでふとアズがいるほうに目を向けた。
視線があう。
何を思ってか、女は図面用の筒状鞄を肩にかけたアズめがけて走ってきた。
「お兄さん、あなた見ない人ね」
年齢がわからないほど化粧が濃い。アズは黙って首を振るが、その拒否に対して女は頓着しなかった。
「どこの人? 自分の教会はどうしたの?」
「燃えてしまったので」
「あらああぁ!」
大袈裟に仰け反り、手をあげる。
「教会が燃えた! なんで!?」
昨夜の火災のあとでなんでもへったくれもないはずだが、構わずまくしたてる。
「どうしてあなたの教会は神様に守られなかったのかしら? なんで?」
「火に教会を選ぶ分別があると思いますか?」
「あなた、信仰が足りないわね」と、睨む。「祈りによって災害から家や聖所が守られた例なんていくらでもあるわ。ほら、私たちの大聖堂を見て!」
「あなたが祈ったから燃えなかったと?」
「真実の祈りは必ず聞き届けられるのよ。あなた、何か困りごとがあるなら言ってごらんなさい。あたしが神に執りなしてあげるから」
黙っていてもまとわりつかれるだけだと判断し、アズはこう尋ねてみた。相手を不安にさせてやろうという意地悪な気持ちがあったことは否定しない。
「じゃあ、鳥と出会えるようにしてください」
「鳥?」
「生きている鳥と」相手の目を、まっすぐ視線で突き刺した。「鳥を見ませんでしたか」
夜明けまで人を殺していた男の目と声に、女は初めて恐怖の色を見せた。
アズは目を閉ざす。
息を吐き出すと、恐怖から解放された女がけたたましく笑い出した。
「お兄さん、馬鹿だあ! 生きている鳥なんて、街にはいませんよーだ!」
笑いながら聖堂の前階段を駆け上っていく。
一人になり、アズは今度こそセフに教えられた裏口に向かおうと考えたが、周囲の人の視線はまだアズを気にしているようだった。考えを変え、アズもまた階段を上る。
正面の両開きの大扉は施錠されているが、その横の小さな片開きの扉は押し開くことができた。
「正しい信仰を持って!」
南ルナリア大聖堂は三廊式のバシリカ型で、暗い身廊はステンドグラスによってほの青く染められていた。
身廊の手前には前室があり、片隅で人がうずくまっていた。二面の壁に体を押しつけて、膝を抱き、膝頭に額をくっつけている。長く不潔な髪が腕に垂れていた。その姿勢とひどく痩せた体格から、アズは最初、女だと思った。
喉から嗚咽が漏れている。しかも震えていた。
「大丈夫ですか」
返事がない。近付き、屈み込んだ。身廊ではまだ女が騒いでいた。
「それでね、今週の週報! 神の証 についてこんなによ! こんなに書いてきたの! 今から刷るの手伝いたい人、手ぇ上げて! はーい!」
「うるせぇなあ」
震える人は男の声で言った。
「死ねよ」
動いた。身じろぎし、尻をさぐる。ズボンのポケットからスキットルを出した。アルコール中毒者だ。
アズはその場をあとにした。
「我々は、教会が悪と背信の手に堕ちるのを見た!」
入り混じって降る灰と雪を浴びながら、逞しい若者が
「
檄に足を止める人の数が、一人、また一人と増えていく。大聖堂の門の向こうにいる人々でさえ、木の根本や階段に座り込みながら、呆けた顔を若者に向けている。
その人の群れを、司祭平服姿のセフが何ら躊躇せずかき分けて、教会の敷地に入っていく。アズも後に続いた。
「――あなた方にも心当たりはないだろうか!」
「右側から入れ」
前庭の中央まで来て、セフがアズを振り返った。
「聖堂の右側面の
「ありがとうございます」
セフはそれだけ言って、さっさと大聖堂の前階段を上り始めた。アズは右を向きながら、この場にいる人々の顔に目を走らせた。
フクシャで出会ったミアやイスラの顔を見た気がした。
もちろん幻覚だった。
教会の右手に回り込むと、意外にもそこは無人だった。白い石壁に沿って傾斜路を下りながら、コートのポケットに手を入れる。
皺だらけの桃の種に触れた。
「知恵を貸していただけませんか」
ポケットの中で握ってみる。それは軽く、乾いていて、生気がない。
「あなたのスアラは……」
その名を口にしても、反応はなかった。
山中でローザと口論した際に、種は『奏明』、と言った。思えばそれ以来、一言も口をきいていない。
去ったのか。死者として。それとも西へ行くのだろうか。悪い魔女になって。
「はい! どいたどいた!」
女の声が耳を刺し、アズは肩を震わせた。背後でざわめきが起きた。檄が途切れ、演説者とは別の男の声が誰かを怒鳴りつけた。
「邪魔だ!」
振り向くと、二つに割れた人垣の中央に太った女が立っていた。まっすぐ聖堂に向かってくるところだったのを、立ち止まり、怒鳴り返す。
「邪魔なのはあんただよ、バーカ! なんなのよ教会の前で!」
アズは前庭に戻って身構えたが、演説者たちは思わぬ反撃に面食らっていた。その隙に女がもう一言。
「神が好きなら喚いてないで祈ってごらんなさい!」
それにしても、灰と雪に染められた街でなんと色鮮やかな女だろう。黄色い髪は生まれつきのものだとしても、桃色の毛糸で編まれた帽子、桃色の二重マント、空色のスカート、桃色のブーツ。そして、手にはフリルがたくさんついた桃色のバッグを提げていた。
人々が失笑し、催眠術が解けたかのように散り始めた。演説者たちもまた騒ぎ始めるのだろうが、今は興を削がれて互いの顔を見合っている。
女は太っていた。そそくさと正門をくぐり、注目されながら聖堂の前階段まで足を急がせ、そこでふとアズがいるほうに目を向けた。
視線があう。
何を思ってか、女は図面用の筒状鞄を肩にかけたアズめがけて走ってきた。
「お兄さん、あなた見ない人ね」
年齢がわからないほど化粧が濃い。アズは黙って首を振るが、その拒否に対して女は頓着しなかった。
「どこの人? 自分の教会はどうしたの?」
「燃えてしまったので」
「あらああぁ!」
大袈裟に仰け反り、手をあげる。
「教会が燃えた! なんで!?」
昨夜の火災のあとでなんでもへったくれもないはずだが、構わずまくしたてる。
「どうしてあなたの教会は神様に守られなかったのかしら? なんで?」
「火に教会を選ぶ分別があると思いますか?」
「あなた、信仰が足りないわね」と、睨む。「祈りによって災害から家や聖所が守られた例なんていくらでもあるわ。ほら、私たちの大聖堂を見て!」
「あなたが祈ったから燃えなかったと?」
「真実の祈りは必ず聞き届けられるのよ。あなた、何か困りごとがあるなら言ってごらんなさい。あたしが神に執りなしてあげるから」
黙っていてもまとわりつかれるだけだと判断し、アズはこう尋ねてみた。相手を不安にさせてやろうという意地悪な気持ちがあったことは否定しない。
「じゃあ、鳥と出会えるようにしてください」
「鳥?」
「生きている鳥と」相手の目を、まっすぐ視線で突き刺した。「鳥を見ませんでしたか」
夜明けまで人を殺していた男の目と声に、女は初めて恐怖の色を見せた。
アズは目を閉ざす。
息を吐き出すと、恐怖から解放された女がけたたましく笑い出した。
「お兄さん、馬鹿だあ! 生きている鳥なんて、街にはいませんよーだ!」
笑いながら聖堂の前階段を駆け上っていく。
一人になり、アズは今度こそセフに教えられた裏口に向かおうと考えたが、周囲の人の視線はまだアズを気にしているようだった。考えを変え、アズもまた階段を上る。
正面の両開きの大扉は施錠されているが、その横の小さな片開きの扉は押し開くことができた。
「正しい信仰を持って!」
南ルナリア大聖堂は三廊式のバシリカ型で、暗い身廊はステンドグラスによってほの青く染められていた。
身廊の手前には前室があり、片隅で人がうずくまっていた。二面の壁に体を押しつけて、膝を抱き、膝頭に額をくっつけている。長く不潔な髪が腕に垂れていた。その姿勢とひどく痩せた体格から、アズは最初、女だと思った。
喉から嗚咽が漏れている。しかも震えていた。
「大丈夫ですか」
返事がない。近付き、屈み込んだ。身廊ではまだ女が騒いでいた。
「それでね、今週の週報! 神の
「うるせぇなあ」
震える人は男の声で言った。
「死ねよ」
動いた。身じろぎし、尻をさぐる。ズボンのポケットからスキットルを出した。アルコール中毒者だ。
アズはその場をあとにした。