迷宮

文字数 3,795文字

 7.

「チルーはさ、あの人のことどう思う?」
 夕陽は迷宮都市をくっきりと光と闇にわけていた。二人は町を切り裂く高い壁に沿って闇を歩いた。チルーは飾らずに答えた。
「あの人、なんか怖い」
 リリスが満足げに頷く。
「そう言うと思ったよ。君は人より感覚が鋭いからね。ま、これでどっちを信用すべきかって問題は片がついたわけだ」
「スアラを信じるの?」
「まさか」影の中、リリスの瞳が表通りのナトリウム灯を反射した。「どっちも信用しないに決まってるじゃん」
 チルーが反応に困っていると、リリスは話を変えた。
「でも、あの男の言ったこと全部が虚言だったとは思えない」
「それは……私も同意見」
 リリスに向かって、父親は生きて帰ってこないと言ったときのあの態度。
 あの人も、悪い大人なの?
 人の不幸が嬉しくて、それを未成年にぶつけて喜ぶ人だったの? 最初は優しそうな人だったのに? 大人って、そんなに上手に顔を使いわけるものなの?
 だが、それより気がかりなのは、リリスの父親もまたリリスやチルーと同じものを追っていたという点だ。タリム・セリスには二人の旅の目的など知る由もないのだから、そこで嘘をつく理由はない。
「どうしてリリスのお父さんはそんな旅に出たんだろうね」
「私たちは君のカワセミがあるからだけど……そうでないなら……」
 さも嫌そうに顔をしかめながら、リリスは口にした。
「……巡礼の、煽動者に……取り憑かれたか」
 柄にもなく口ごもる。
 チルーが代わりに言った。
「『さまよう王』」
 リリスの反応を横目で伺った。チルーの話を聞きながら、素早く周囲に目配せをしていた。
 この先、道はもっと細くなる。ドラム缶に座る三人組の男たちの鈍い目に宿る感情が、夕闇から少女たちを照らしていた。早足になって、リリスは荒れた舗道を急ぐ。チルーはよほどリリスと手を繋ごうかと思った。
「お嬢さん」すれ違うとき、男の一人が猫なで声で呼んだ。「どこ行くの?」
 返事はしなかった。ただ通り過ぎる。大きな通りにつながる方向へ、次の角を曲がった。
 が、そこには周囲の家々より少し低い壁が隠れ、眼前に立ちはだかっていた。二人ははたと足を止めた。手を伸ばせば触れられる位置にあるその壁は、二軒の家の間を隙なく埋めている。諦めて後ろを向いた途端、胸に何かがぶつかってきて、チルーは叫んだ。
 缶の転がる音がした。胸に目を落とせば、迷宮の影の中、色の濃い液体が胸に広がっていた。トマトの臭いがした。
 トマトのペーストが、ラナからもらったコートを汚しながら腹へと落ちていく。
 動揺と恐怖で立ち尽くすチルーを見て、三人組の男たちが一斉に笑った。
「無視すんじゃねえよ、ガキ!」
 ドラム缶に足を広げて座る男が、笑いながらチルーを指差した。髪を剃り上げている。(しらみ)対策だろうか。脱走兵かもしれない。
「どこ行くんだって聞いてんだよ」
 チルーは左右に目配せした。どちらにも壁しかなかった。後ろに向かって走る? たぶん追いつかれる。前方では男たちが立ち上がった。
 チルーは逃げ道を探す前に、リリスを見た。
 リリスは足を開いてしっかり地面に立っており、無表情で、目はひたと男たちを見据えていた。
 左手が動いた。腕で優しくチルーを後ろに下がらせると、手首から先を迷宮の壁に埋める。
「リリス、やめよう」
 ゼリーのように取り出された壁の一部は、リリスの手の上で跳ねるとき、元の硬さを取り戻していた。彼女のしたことを男たちが理解する前に、最初の一撃がリリスの手から放たれた。
 石であるはずなのに、ひどく粘性の音がした。
 顔面に投擲を受け、ギャッ、と叫んだ男は鼻血を出したかもしれないし、出さなかったかもしれない。チルーには確認できなかった。壁のかけらは男の鼻と口にピタリと吸いついていた。
「おじさんさあ」
 十四歳の女の子にしては低い声でリリスが口火を切った。
「私の友達に何してくれるわけ?」
 後ろの二人が浮き足立つ。
「石工だ!」一人が叫び、もう一人が叫びを上書きした。「魔女だ!」そして、仲間を見捨てて走り去った。
 チルーに缶を投げた男は、今や及び腰で少女たちに戸惑いの視線を投げていた。舐めた真似をするガキ共を殴って大人の恐さを教えてやるか、それとも逃げたほうがいいか、判断しかねているようだった。
 明らかに彼は逃げたほうが良さそうだった。スピー、スピー、と下手な笛のような息の音がする。しかも次第に荒くなっていく。
 片方の鼻の穴しか開いていなくて、その穴で必死に酸素を取り込んでいるのだ。
「聞いてんじゃん」
 リリスはもう一度壁から欠片(かけら)を取り出すと、いたぶるように優しく尋ねた。
「何してくれるわけ? 友達に」
 手の上で欠片を転がす。みるみる球体に整えられていく。
「ああ、答えられないか」
 一歩踏み出すリリスに、チルーは手を差し伸べずに懇願した。
「やめて。私、本当になんともないから――」
 尻すぼみになったのは、リリスが走り出したからだった。チルーは諦めた。リリスが男の腹に飛び蹴りを食らわすと、新しい呼吸法に慣れない男は腕をばたつかせながらひっくり返った。もちろん悲鳴はなかった。
「ね、おじさん」
 粘土のようにしか見えないものを投げて弄びながら、リリスは男の前に屈み込んだ。チルーには彼女の背中しか見えないが、笑っていることは想像がついた。
「ごめんなさいしよか」
「やめようよ!」
「口、使えなくてもできるでしょ?」チルーが近寄ると、リリスは右手で壁の塊の一部をちぎりとった。「もう片方の鼻の穴塞がれたくなかったら這いつくばれば?」
「ねえ、やめて。本当に。お願いだから」
「こいつ、ゴミだよ」
 それでも駄目、と言おうとして、気が変わった。
 こう囁いた。
「足がつくよ」
 さも意外そうに、リリスは傍らに立つチルーを見上げた。それから顔を、前へ、男を通り過ぎてさらに前へ向けた。
 視線が飛んでいった先に、人が立っていた。
 斜めに差す夕日が、居並ぶ住宅の屋根に遮られて迷宮の壁を二色に塗り分けていた。その茜と影。影の中で、高いところの茜の光を灰色のベールが映していた。
 体格からして女。
 修道女だ。
 リリスは逃げようとしなかった。たじろぐチルーを気にもせず、民家二軒分離れた位置の修道女を凝視し続ける。
 目を逸らさぬまま、ゆっくりと膝を伸ばし立ち上がった。
 修道女もまた、チルーたちのほうに歩いてきた。歩みは(なめ)らかで、足音はない。十分に近付けば、腰に剣を下げているのがわかった。
 公教会の言葉つかい。
「許しておやりなさい」
 女は言った。
 リリスは不機嫌さを露わに、値踏みするような視線を向けながら一言。
「友達が侮辱されたのですが、救貧の聖女様」
「謝罪の機会をあげなさい。彼は怯えきっています」
「自業自得だよ」
「彼をこのままにすれば」
 チルーは目を細めながらベールの下にある顔を凝視した。空の光は刻々と失われていく。この修道女が巡礼の夜に見かけた女と同一人物か否か、確信は持てなかった。ただ、柔らかい声音と、優しいが堂堂とした話し口には覚えがあった。
 女は言う。
「さしもの市当局も黙ってはおりますまい。あなたが見た目の通りに賢い子であれば、わかるはずです」
 リリスは忌々しげに顔を(しか)めつつも納得した。
「そうだね」
 腰を屈め、男の顔面に張り付いた石を掴むと、実に呆気なく引き剥がす。途端に男は大きな口で息を吸い、咳き込んだ。
「ごめんなさいしなよ、おじさん」
 唾を飛ばして咳をしながら、男は地に左手をついて立ち上がった。よろめきつつ右手を振り上げる。
 馬鹿にしたような目で、リリスは攻撃を躱そうとしなかった。その前に男が驚いたような叫び声を上げ、姿が沈んだ。飛び退いたチルーが改めて見れば、彼は路上に膝をつかされており、後ろに立つ聖女によって左腕を捻り上げられていた。
「主よ、憐みたまえ」
 この上もなく優しげに、救貧の聖女テレジアは語りかけた。
「神はお前を愛しています」
「離せ! 痛い痛い痛い――」
「いかにお前が生まれついてのカス野郎であろうとも、神はお前を愛しています。生まれつき腐っているその頭を下劣な考えで満たしているときも、神はお前を愛しています。寄る()ない子供の口に汚いモノをくわえさせているときも、神はお前を愛しています」
 ボキッ! と音がした。すぐ悲鳴にかき消された。テレジアが何をしたのか、チルーの位置からは、男の体の陰で見えなかった。
「誰かぁ! 誰か来てくれ!」
 テレジアは全く声音を変えず、
「炊き出しの時間です。皆さま修道院に向かわれたかと」
「やめてくれ、頼む、頼む」
「お前を深く愛している神を共に賛美しましょう」
「賛美する、するから!」
「私を愛する神に賛美を」
「私を愛すぅうううるるる、神、さささ賛美」
「主の御名(みな)は讃えられよ」
 ボキッ!
「主の御名あああああ!!」
「天のいと高きところには」
「ガミッ!!」
「お言いなさい!」
 男は唾を飛ばしながら、
「がっ、(がみ)に栄光――がはっ」
 テレジアは突然男を解放し、背中を蹴飛ばして倒すと、伏した男の隣に屈み込み、何事か恐ろしいことを耳に囁いた。男は凍りついたが、ほどなくして立ち上がると、十分な勢いで路地を走り去っていった。
 後に残るのはチルー。リリス。
 聖女。
 テレジアは微笑む。男を痛めつけている間にも微笑んでいた。
 口を開く。
 話した。


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登場人物紹介

■チルー・ミシマ

■14歳/女性


『言葉つかい』と呼ばれる異能力者の育成機関、聖レライヤ学園の第十七階梯生。

内気で緊張に弱く、場面緘黙の症状に悩んでいる。

『鳥飼い』の賜物(=異能力)を持つ。

■リリス・ヨリス

■14歳/女性


チルーの同級生で、唯一の友達。『英雄の娘』と呼ばれるが、両親のことは名前以外に何も知らない。

迷宮の壁に作用する『石工』の賜物を持つ。

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