戦いに備えろ

文字数 2,910文字

 4.

 廊下の気配で目を覚ました。深く眠っていた。厚いカーテンの隙間には、濁った光が滲んでいる。夕刻だ。
 ストーブの炎が赤く揺らめく室内で、アズは片側を壁に寄せられたベッドの上で身を起こした。女が、聞こえよがしに喚きながら、薄い戸で隔たれた廊下を左から右へ走り抜けていく。
「はぁん、大変大変!」
 ベッドから足を下ろし、室内履きに爪先を突っ込む。そのまま呆然としていると、今度は落ち着いた足音が右から左へやって来て、部屋の前で止まった。
 ノックもなしに戸を開けたのはセフ神父だった。パンとポタージュを載せたトレイを左手に持ち、座り込むアズに突き出すと、感情を見せることなく告げた。
「戦いに備えろ」
 アズはベッドに腰をかけたまま、膝にトレイを置いてポタージュにパンを浸した。行儀など気にすることもなく、汁の滴るパンをちぎらずに口に運ぶ。
 味わいもせずに食べ、戸を一瞥してからセフに尋ねた。
「お願いがあるのですが」
「何だ」
「誰かに、私の家族の保護を頼むことはできませんか?」
 セフは一呼吸置いた。
「何故そんなことを?」
 凝視に促されて、アズはあの役人が知りたかったであろうことを全てセフに話した。星獣のこと。リールのこと。山中で出会った修道士のことも。
「急がなきゃ、急がなきゃ」
 右から左へ、廊下を人が走り抜けていく。
「仮にリール・クロウが公教会の間諜だったとしても、彼女が私の素性を革命家たちに打ち明けない理由にはなりません」
 吟味するように唸り、一つ頷いてからセフは尋ねた。
「保護すべき家族は何人だ?」
「双子の兄と兄嫁の二人です。フクシャの北の無医村で薬局を開いています」
「で、ガイエン大司教が約束する保護は信用ならんと言いたいわけか」
「率直に申し上げますと、そういうことでございます」
「保護となると難しい」
 セフの両肩が強張るのが司祭平服の上から見てとれた。
「全てを捨てさせ、いずこかへ逃がすというのなら伝手(つて)がなくもない。だがお前の家族が消えたと判明すれば、公教会はお前をどう思う」
「それでも――」
 走ってくる足音を聞きながら、アズは言いきった。
「兄夫婦にもしものことがあれば、私は私のままでいられません」
「神父様ぁ!」
 廊下の女は、今度は片端からそこらの戸を開け放っている。
「神父様ぁ、誰かいませんかー!」
 順番がきて、来客用の寝室が勢いよく開かれた。朝方出会ったあの女が姿を現した。
「あ! セフ神父様いた!」
 暗がりに浮く淡い桃色と大声が神経を逆撫でする。セフが身体の向きを変えた。
 どうなることかと思っていると、意外にも、セフは優しい声で語りかけた。
「ミリー、週報はできそうかい?」
 アズは少なからず驚いた。セフの目に、見せかけではない慈愛が宿っていたからだ。ストーブ以外に明かりがない部屋で、その炎に顔を染めながら女は体をくねらせた。
「それがぁ、セフ神父様ぁ、黒のインクがなくなっちゃってぇ」
「事務所に予備があるかもしれないね」階段のほうを顎で指した。「ちゃんと人に断ってから持っていくんだよ」
「はぁい、神父様!」
 戸が閉まり、二人きり。先ほどよりも静かになった。
 あの人について、アズは何かを尋ねたかったのだが、何を知りたいのかわからなかった。何も知る必要はないのだ。だが、沈黙が長すぎた。セフは、さも初めて目に入ったかのように、書き物机の椅子を引き、腰を落ち着けた。
「私は壊れてしまう前の彼女を知っている」
 またも居心地悪い沈黙があり、結局、アズは尋ねた。
「何があったのですか?」
「色々なことだ。個人の事情と、人間関係、そこに社会の情勢が悪いほうに噛み合えば、誰でもおかしくなる」
「単なる不幸だと?」
 セフは机に肘をつき、黙り込む。
「単なる不幸と言い切れないのなら、彼女を壊した人間がいると?」
「いろいろなことがある」廊下からはもう、何も聞こえてこなかった。「何も悪くない人間などおらん」
「仰る通りです」
 もう一度、パンを丸ごとポタージュに浸けた。
「静かなものですね」
「ああ」
 窓の向こうからは、悲鳴の一つも聞こえない。
「私が眠っている間に、衝突はありませんでしたか?」
「警察は無抵抗だし、革命家どももがなり立てる以外のことはしとらん。今のところはな」
「聖教軍か抵抗教会が、どちらかの増援がくるはずです」
「抵抗教会が先だ」セフは断言した。「ゆえに備えろと言った」
 アズはふやけたパンの残りを丸ごと口に押し込んだ。ポタージュを飲み干したときだった。別の気配が戸の向こう側に立った。
 枕もとの拳銃を手に取った。姿を見せたのは、ミズゥ、南ルナリア大聖堂の儚げな言葉つかいだった。
「どうだ」
 セフの、ただそれだけの質問にミズゥは答えた。
「敵勢力は、聖教軍の増援が来る市南部の防御を固めるように見せかけておりますが、優れた装備を持った部隊は北東アルメラ丘地区に集合しつつあります」
 ならば、敵増援は丘の背後の森から来る可能性が高い。
「セフ神父、鯨は」
「目撃の知らせはまだ入らん。だが奴らとしても我らを口封じできなかった以上、あれを隠しておく理由はなくなったはずだ。落とせるか」
「落とすしかありますまい」
 脅威の程度が未知数なのが気がかりだった。せめて、あれが前時代からの生き残りの星獣であるのか、それとも魔女か裏切り者の言葉つかい――『奏明』の手による作であるのかがわかればいいのだが。
 気がかりな点はもう一つあった。
「もう一晩、時間に猶予はございませんか」
「ない」と断言してからセフは尋ねた。「マデラという女たちのことか」
「はい。行方知れずのままですので」
「ラティアさん。鯨の市内への侵入を許せば、それだけその方々と市民が晒される危険の度合いは増すわけです」
 穏やかに、ミズゥが正論を告げた。アズは頷くしかない。
「仰る通りです、ミズゥさん」
「敬称はいりません。ミズゥとお呼びいただければ結構です、『天使』よ。真に呼ばれるべき我が名は、夢に置いてありますゆえ」
 ミズゥは戸口から歩み寄り、ベッドに座ったままのアズの眼前に(ひざまず)いた。
「夢を、見ておられましたね」
 アズは首を振った。
「深く眠っておりましたので」
「それは覚えておられぬだけです。お手を取らせて頂いても?」
「何をするのです?」
「夢を、お見せしましょう。先の眠りの夢を」
 許可を待たず、ミズゥは膝の上のトレイに添えられたアズの右手に、自分の手を重ねた。
「啓示を」
 その瞬間、闇を見て、アズはほとんど叫び出しそうになった。
 実際に視界が閉ざされたわけではなかった。跪くミズゥの姿は見えていた。隣にセフがいることもわかっていた。だが、現実の光景と二重写しで闇を見たのだ。
 闇の中、建物もなく、壁すらなく、ただ扉が立っている。それも一枚だけではない。暗く重たい空気の中、道を示すように、閉ざされた扉の列が延々続いている――。
 気がついたときには、ミズゥの手を振り払っていた。
「ああ――」乱暴な手つきだったことにすぐに思い至る。「すまない」
「いいえ」
 ミズゥは素っ気なく答えて立ち上がり、黒いドレスの皺を伸ばした。
「その夢が、あなたの道行きを示唆するものでありますように」


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登場人物紹介

■チルー・ミシマ

■14歳/女性


『言葉つかい』と呼ばれる異能力者の育成機関、聖レライヤ学園の第十七階梯生。

内気で緊張に弱く、場面緘黙の症状に悩んでいる。

『鳥飼い』の賜物(=異能力)を持つ。

■リリス・ヨリス

■14歳/女性


チルーの同級生で、唯一の友達。『英雄の娘』と呼ばれるが、両親のことは名前以外に何も知らない。

迷宮の壁に作用する『石工』の賜物を持つ。

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