蜂起

文字数 2,331文字

 1.

 驚くべきことに、これより述べる状況に一人で立ち向かおうとする者がいた。
 茜の夕日がはるか迷宮の果てに消え去ろうとしていた。多くの人にとって、それは生涯最期に目にする太陽となった。蜂起の夜が来たのだ。
 工作機械が静まると、労働者たちの毛むくじゃらの手が、タレット旋盤、研削盤、フライス盤やボール盤の下から機関銃を引っ張り出した。武装した男女が迷宮の壁に沿って歩き、都市の心臓部へ向かうのを、大人たちより大人びた路上の子供らが、険しい目つきで見送った。
 夜の(とばり)の中、冬枯れの薔薇園では聖教軍の士官学生部隊が叉銃(さじゅう)にて待機していた。要塞化した刑務所では、拷問された革命家たちを銃殺する音が、日暮れてなお続いていた。議場やガイエン司教座聖堂を取り囲む迷路のあらゆる角に、火炎銃の台座が据え付けられていた。兵士たちは雪のちらつく下、耳まで覆う帽子をかぶり、配置についていた。
 状況は着々と進んでいた。
 無宿の脱走兵たちが、ちょいと屋根を借りるふりをして、迷宮の壁を(また)いで走る市電の駅舎に立ち入っていった。さも道に迷ったふうを装いながら、各方面から男たちが電信電話局の敷地に入り込んでいく。水道局は上下水道から狙われた。発電所は既に、人知れず征圧されていた。発電所の征圧者たちは、エリ河の河川交通局から赤い煙が立ちのぼるのを目にすると、窓の下の兵士に向けて火炎瓶を投げ始めた。
 都市中心部と下町を結ぶ橋の詰所に向かって、四人の男が歩いていた。男たちはガイエン守備隊の制服に身を包み、長身の後装連発銃を(にな)っていた。男たちは詰所のドアを叩いた。詰めていた河川交通局の職員たちは、彼らの装いを見て、守備隊の兵士たちが要請に応じて来てくれたと思った。
 兵士の格好をした男らは、武装した革命勢力に抗するため、この詰所を占拠させてもらうと約束したが、嘘だった。首尾よく彼らが入り込むと、中で銃声が轟き、撃ち殺された職員の血が、ドアの下から流れ出てきた。
 別の橋の詰所の外では、武装した『抵抗者の教会』の闘士が、震える手で煙草をふかしていた。橋はまだ封鎖されていなかった。ガス灯が、夜の河川に赤っぽい光の筋を落としていた。
 ガス灯の下を通り、一人の青年が橋を渡っていた。都市ガイエンの運命は、外套を着込み、マフラーで顔の半分を隠したこの若者に託されようとしていた。

 ※

 青年は、橋を渡り終えるとガイエン司教座聖堂(カテドラル)に向かった。士官学生たちの胡乱(うろん)げな視線を浴びながら、正面玄関の扉を開け、吹き抜けの、薄暗い広間を進んでいった。
「首都レライヤで昨日、守備隊は――」
 聖堂(みどう)の扉を開く。
「――国家権力の中枢、国会、議事堂、王宮、聖レライヤ大聖堂、陸軍兵舎及び聖レライヤ学園を防御していた」
 高い(まる)天井は、今は薄闇に閉ざされている。側廊の円柱には燭台が用意されており、千五百人を収容できる会衆席のベンチの上には照明が吊るされていた。だが、今光っているものは蝋燭の灯火(ともしび)だけだった。
「しかし連中が攻撃を仕掛けたのは、発電所、電話局、駅、陸運局、水道局、新聞社、図書館そして劇場だ」
 祭壇には二本、赤く太い蝋燭が立っていた。聖四位一体紋が描かれたそれらの蝋燭のてっぺんにも、小さな火が、小ゆるぎもせず宿っていた。
「王も枢機卿も、すでに陸軍が抵抗教会に汚染されていることを知っていたのだよ。だから、防御には警察機構と王宮警備隊を用いざるを得なかった」
 祭壇上の司教座(カテドラ)には老人が腰を下ろしていた。祭服がはち切れそうなほど、まるまると太っている。
 青年は歩み寄りながら、顔の半分を隠すマフラーを手で押し下げた。
「しかしながら、猊下(げいか)」あらわになった口で問う。「果たして国家の防衛が、警察機構の仕事でしょうか」
 青年は長い身廊(しんろう)を渡って祭壇前に到達し、蝋燭の光輪に入った。
 短く切った葡萄茶(えびちゃ)の髪と、小麦色の肌。二十代後半の、健康な若者だ。体つきは細身だがよく鍛えられており、腰の左側には拳銃を、右側には驚くほど時代遅れの品物をぶら下げていた。
 処刑用の両手剣だ。
 彼は外套の裾を床に広げて(ひざまず)いた。その紫水晶の瞳から放たれる意志の強そうな視線を浴びながら、司教座に座す老人は尋ねた。
「街の様子はどうだね」
「蜂起が始まっております。河川交通局から狼煙(のろし)が上がるのを見ました」
 老人は腹を揺すって短く笑ったが、楽しそうではなかった。
「……勉学でも芸術でも……」肘掛に肘を置き、頬杖をついた。「才能が限界を迎えた者は、揃って政権批判をし始める。そうすれば、自己の無能を忘れられるとばかりにな。虚しいと思わんかね? 我が懐刀(ふところがたな)、アザリアス・ラティアよ」
 それが青年の名であり、老人は、相手を服従させたいときにしか、人の名を呼ばない男だった。
 防寒具の下で、青年の喉仏が上下した。唾を呑んだのだ。それが、顔色を変えない青年の、唯一の抵抗であった。
「仰る通りでございます」
「君はいつもそれだ」
 今度の笑いはほんの少しだけ楽しそうだった。だが、一瞬だった。
「頼みたい用事があったのだが、それどころではなくなってしまった。君が外で見てきた通り、状況が変わったのだよ」
「はい、猊下」
「緊急指令だ」
 司教座に座す老人、ガイエン大司教モレク・ハライは、もう頬杖をついていなかった。
「聖四位一体の神の御名によりて、行って、公教会に仇なす異端の(ともがら)を正したまえ」


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登場人物紹介

■チルー・ミシマ

■14歳/女性


『言葉つかい』と呼ばれる異能力者の育成機関、聖レライヤ学園の第十七階梯生。

内気で緊張に弱く、場面緘黙の症状に悩んでいる。

『鳥飼い』の賜物(=異能力)を持つ。

■リリス・ヨリス

■14歳/女性


チルーの同級生で、唯一の友達。『英雄の娘』と呼ばれるが、両親のことは名前以外に何も知らない。

迷宮の壁に作用する『石工』の賜物を持つ。

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