小さな魔女
文字数 3,010文字
3.
スアラ。わがまま。気難しい。みんな彼女を嫌っている。
亜麻色の髪のスアラ。色白で、瞳の色は黒。
小さな魔女スアラ。
学校では避けられ揶揄 されて、けれどもどこか恐がられている少女スアラはまだ十三歳。
彼女が屋上の縁に立つまでの経緯はこうだった。
※
「就職するって書け」
タリム・セリスは図面をとりながら言い放った。製図用紙にまっすぐな線が引かれた。
お前の性根 もその線くらい真っすぐだったらいいのにね。
学校から持ち帰った書類を胸に押し付けながら、書斎の父の背中にスアラは苛立ちと嫌悪の目を向けた。スアラの父はいつでも彼女に緊張を抱かせた。思春期の自意識過剰とは明らかに違う、恐怖に近い思いだ。
「成績次第じゃグロリアナを出てもいいって言った」
両足をぴったり閉じて立ち、全身に力を込めてスアラは抗弁した。
「お父さんが言ったんだよ、初等部のときに。南ルナリアでも、リジェクや北ルナリアでも勉強に行かせてやるって。なんならレライヤでも……」
「お前は素行が悪すぎる。行っても恥をかくだけだ」
「約束が違う!」
タリムは手を止め、肩越しにスアラを振り向いた。冷たい目をしていた。その目でスアラを凍りつかせたあと、もう一度図面と向き合った。
「お前の行き先は決まってる」
スアラは今や嫌悪と恐怖で吐きそうになっていた。心臓の鼓動を喉で感じる。私はもう子供じゃない、つまりこれ以上口答えしたら殴られるだけじゃ済まない――。
タリムは吐き捨てた。
「革命の魔女になりたいって言ったのはお前だぞ」
だが、スアラとて折れるわけにはいかない。
「いつぐらいのとき? 二歳? 三歳?」
部屋には明かりがついていたが、暗く見えた。書籍や書類が多くて火を使う照明を持ち込めない部屋だ。頭上の電球はきちんと取り替えられ、音もしないし明滅もしない。
だが、暗かった。
絶望で自分の視界が暗くなっているのかとスアラは疑った。タリムが立ち上がる。
「就職するって書きなさい。悪いようにはしないから」
立ち上がり、歩み寄ってくるのでスアラは石像のように体を固くした。タリムは腕を伸ばし、スアラの手から書類を引ったくった。
破れないようすぐに手を離したが、紙で指の付け根が切れた。書類に目を走らせながら気難しい顔で部屋をうろつくタリムをよそに、スアラは左の掌を顔に向けた。痛みが走ったところに赤い血の線が浮き出た。この男から受け継いだ血だ、汚らしい。
と、書類に目を走らせるふりをしていたタリムが真後ろに立った。
スアラは咄嗟に自分の両腕を抱いた。背後から伸ばされたタリムの手は、胸で交差されたスアラの腕にぶつかった。
父親の大きな手は、スアラの腕の下、ふくらみはじめた二つの起伏があるところへもぐり込もうとして這いまわった。スアラは一層固く二の腕を抱く。断固拒否だ。
父親の、ぞっとするような声が耳に告げた。
「腕をどけろ」
スアラはただ、背中を若干 前に倒して拒否の意思表示をした。足は震えていた。タリムはまだスアラの胸を撫でまわそうとしていたが、腕づくでどうにかしようとはせず――とりあえず、今日は――スアラの右腕を思い切りつねった。
囁き声がうなじにぶつかった。
「次は犯す」
それから、ぱっ、と離れた。タリムはさも世間の説教くさい父親のように、書類を筒状に丸めて自分の左掌を叩いた。
「お父さんの署名が必要なんじゃないのか?」
彼は娘の口から言わせたいのだ。『進学希望という形で書類を出させてください、何でもしますから』
言わなかった。
「お前のそういうところがいけないんだぞ!」
タリムは顔を歪め、丸めた書類でスアラの顔を勢いよく叩いた。
書斎を追い出されるとき、スアラは尻を触られた。
※
そういう事情で、今日提出する書類を学校に持ってこられなかったから最悪だ。
「進路のことで父と折り合いがつかなくて」
シスター・エピファニアはいかにも厳格さと冷淡さを履き違えている教師だった。彼女は教壇の前にスアラを立たせ、クラス中が見ている中でスアラに恥をかかせようとして言った。
「その言い訳は何度めですか?」
スアラの後ろで、クラスメイトたちは早く帰りたくていらいらしていた。トレブ共和国コブレンに至る森林地帯の裾野から、レライヤ陸軍がグロリアナのほうへ押し戻され、その混乱で一月 ばかし休校になっていたのだ。スアラにとって、あの父と同じ家にいなければならない、つらい一か月だった。
休校の遅れを取り戻すべく、一日の授業は長くなっていた。みんな早く帰りたいのだ。誰かがこれ見よがしなため息をついた。
ただでさえ、魔女スアラはクラスの鼻つまみ者だというのに。
「あなたのご家庭にも、あなたが知らない事情があるはずですよ? 進学が難しいのはみんな一緒です」
このクソ腹の立つ無能ババアにも理想と人間味 にあふれていた時期があったのかな? スアラはふと思った。生徒の良き理解者であろうと努力していた時期が?
「とりあえず、今年はお父様の言う通りに書いて出すことはできませんか? 今回が最後じゃないのですから」
「できません」
スアラはきっぱり言い切った。一度曲げたら最後、父は二度とこちらの言い分を聞かないだろう。
腹を立てていたり、相手にショックを与えてやろうと焦ったら、いらぬことを口走ってしまうタイミングがある。
今がそれだった。
「父の言うことを聞くくらいなら、死んだほうがマシです」
たちまち生徒たちが身じろぎとヒソヒソ話をやめ、教室中が静まり返った。
まずい、と思った。この程度の問題発言なら、半年も前ならまだ許されたのだけれど。
「セリスさん」
足の悪いシスターは、スアラを見つめながら大儀 そうに立ち上がった。スアラが嫌いな目だ。
「あちらをご覧なさい」
いきなり慈悲深そうな声を出して、シスターは窓に顔を向けた。ガラスのはまった窓の向こうに野営の煙が見えた。
「あそこには、生きたくても生きられない人がたくさんいます」
顔を戻し、憐むような眼差しでスアラを眺め回した。
「この学校にだって、軍隊にご家族がいる人や、戦争の影響で望む進路を諦めた生徒が何人もいます。立派なものですよ。それに比べてあなたは何ですか」
スアラは教壇の陰で拳を握りしめた。
「自分だけが大変な思いをしているみたいな顔をしてして」
「話は以上ですか?」
もはや一歩も引き下がりたくない。スアラはむしろ胸を張った。下劣な父親が撫で回したくて仕方がない胸を。
「つまらない話しかできないなら、私、帰りたいのですが?」
薬指の付け根に親指の爪が突き刺さった。それは昨晩、紙でうっすらと切った場所だった。
血よ、流れ落ちろ。あの男の汚い血なのだから。一滴残さず消え去ってくれるなら、私は死んでもいい。
「結構」
ややあって、シスターはため息をついた。
「それじゃああなたは帰ってよろしい。私は他の子たちと大事な話をします」
聞き届けるや、スアラは教壇に背を向けて、教室の後ろのほうの席に戻っていった。スアラが密かに心の中でバカ猿と呼んでいる男子が、机の下から足を出し、スアラを転ばせようとした。
スアラは歩幅を変えて、その足を踏みつけた。
「痛っ! いったあ!」
鞄をぶん回して肩にかけるスアラをよそに、バカ猿がにやけながら喚いた。
「先生ー! オレ、魔女に呪われたー!」
笑い声に追い立てられながら、スアラは教室を飛び出した。
スアラ。わがまま。気難しい。みんな彼女を嫌っている。
亜麻色の髪のスアラ。色白で、瞳の色は黒。
小さな魔女スアラ。
学校では避けられ
彼女が屋上の縁に立つまでの経緯はこうだった。
※
「就職するって書け」
タリム・セリスは図面をとりながら言い放った。製図用紙にまっすぐな線が引かれた。
お前の
学校から持ち帰った書類を胸に押し付けながら、書斎の父の背中にスアラは苛立ちと嫌悪の目を向けた。スアラの父はいつでも彼女に緊張を抱かせた。思春期の自意識過剰とは明らかに違う、恐怖に近い思いだ。
「成績次第じゃグロリアナを出てもいいって言った」
両足をぴったり閉じて立ち、全身に力を込めてスアラは抗弁した。
「お父さんが言ったんだよ、初等部のときに。南ルナリアでも、リジェクや北ルナリアでも勉強に行かせてやるって。なんならレライヤでも……」
「お前は素行が悪すぎる。行っても恥をかくだけだ」
「約束が違う!」
タリムは手を止め、肩越しにスアラを振り向いた。冷たい目をしていた。その目でスアラを凍りつかせたあと、もう一度図面と向き合った。
「お前の行き先は決まってる」
スアラは今や嫌悪と恐怖で吐きそうになっていた。心臓の鼓動を喉で感じる。私はもう子供じゃない、つまりこれ以上口答えしたら殴られるだけじゃ済まない――。
タリムは吐き捨てた。
「革命の魔女になりたいって言ったのはお前だぞ」
だが、スアラとて折れるわけにはいかない。
「いつぐらいのとき? 二歳? 三歳?」
部屋には明かりがついていたが、暗く見えた。書籍や書類が多くて火を使う照明を持ち込めない部屋だ。頭上の電球はきちんと取り替えられ、音もしないし明滅もしない。
だが、暗かった。
絶望で自分の視界が暗くなっているのかとスアラは疑った。タリムが立ち上がる。
「就職するって書きなさい。悪いようにはしないから」
立ち上がり、歩み寄ってくるのでスアラは石像のように体を固くした。タリムは腕を伸ばし、スアラの手から書類を引ったくった。
破れないようすぐに手を離したが、紙で指の付け根が切れた。書類に目を走らせながら気難しい顔で部屋をうろつくタリムをよそに、スアラは左の掌を顔に向けた。痛みが走ったところに赤い血の線が浮き出た。この男から受け継いだ血だ、汚らしい。
と、書類に目を走らせるふりをしていたタリムが真後ろに立った。
スアラは咄嗟に自分の両腕を抱いた。背後から伸ばされたタリムの手は、胸で交差されたスアラの腕にぶつかった。
父親の大きな手は、スアラの腕の下、ふくらみはじめた二つの起伏があるところへもぐり込もうとして這いまわった。スアラは一層固く二の腕を抱く。断固拒否だ。
父親の、ぞっとするような声が耳に告げた。
「腕をどけろ」
スアラはただ、背中を
囁き声がうなじにぶつかった。
「次は犯す」
それから、ぱっ、と離れた。タリムはさも世間の説教くさい父親のように、書類を筒状に丸めて自分の左掌を叩いた。
「お父さんの署名が必要なんじゃないのか?」
彼は娘の口から言わせたいのだ。『進学希望という形で書類を出させてください、何でもしますから』
言わなかった。
「お前のそういうところがいけないんだぞ!」
タリムは顔を歪め、丸めた書類でスアラの顔を勢いよく叩いた。
書斎を追い出されるとき、スアラは尻を触られた。
※
そういう事情で、今日提出する書類を学校に持ってこられなかったから最悪だ。
「進路のことで父と折り合いがつかなくて」
シスター・エピファニアはいかにも厳格さと冷淡さを履き違えている教師だった。彼女は教壇の前にスアラを立たせ、クラス中が見ている中でスアラに恥をかかせようとして言った。
「その言い訳は何度めですか?」
スアラの後ろで、クラスメイトたちは早く帰りたくていらいらしていた。トレブ共和国コブレンに至る森林地帯の裾野から、レライヤ陸軍がグロリアナのほうへ押し戻され、その混乱で
休校の遅れを取り戻すべく、一日の授業は長くなっていた。みんな早く帰りたいのだ。誰かがこれ見よがしなため息をついた。
ただでさえ、魔女スアラはクラスの鼻つまみ者だというのに。
「あなたのご家庭にも、あなたが知らない事情があるはずですよ? 進学が難しいのはみんな一緒です」
このクソ腹の立つ無能ババアにも理想と人間
「とりあえず、今年はお父様の言う通りに書いて出すことはできませんか? 今回が最後じゃないのですから」
「できません」
スアラはきっぱり言い切った。一度曲げたら最後、父は二度とこちらの言い分を聞かないだろう。
腹を立てていたり、相手にショックを与えてやろうと焦ったら、いらぬことを口走ってしまうタイミングがある。
今がそれだった。
「父の言うことを聞くくらいなら、死んだほうがマシです」
たちまち生徒たちが身じろぎとヒソヒソ話をやめ、教室中が静まり返った。
まずい、と思った。この程度の問題発言なら、半年も前ならまだ許されたのだけれど。
「セリスさん」
足の悪いシスターは、スアラを見つめながら
「あちらをご覧なさい」
いきなり慈悲深そうな声を出して、シスターは窓に顔を向けた。ガラスのはまった窓の向こうに野営の煙が見えた。
「あそこには、生きたくても生きられない人がたくさんいます」
顔を戻し、憐むような眼差しでスアラを眺め回した。
「この学校にだって、軍隊にご家族がいる人や、戦争の影響で望む進路を諦めた生徒が何人もいます。立派なものですよ。それに比べてあなたは何ですか」
スアラは教壇の陰で拳を握りしめた。
「自分だけが大変な思いをしているみたいな顔をしてして」
「話は以上ですか?」
もはや一歩も引き下がりたくない。スアラはむしろ胸を張った。下劣な父親が撫で回したくて仕方がない胸を。
「つまらない話しかできないなら、私、帰りたいのですが?」
薬指の付け根に親指の爪が突き刺さった。それは昨晩、紙でうっすらと切った場所だった。
血よ、流れ落ちろ。あの男の汚い血なのだから。一滴残さず消え去ってくれるなら、私は死んでもいい。
「結構」
ややあって、シスターはため息をついた。
「それじゃああなたは帰ってよろしい。私は他の子たちと大事な話をします」
聞き届けるや、スアラは教壇に背を向けて、教室の後ろのほうの席に戻っていった。スアラが密かに心の中でバカ猿と呼んでいる男子が、机の下から足を出し、スアラを転ばせようとした。
スアラは歩幅を変えて、その足を踏みつけた。
「痛っ! いったあ!」
鞄をぶん回して肩にかけるスアラをよそに、バカ猿がにやけながら喚いた。
「先生ー! オレ、魔女に呪われたー!」
笑い声に追い立てられながら、スアラは教室を飛び出した。