南ルナリア市街
文字数 3,050文字
2.
配給のチケットを握りしめた南ルナリアの民衆は一様 に沈黙し、殺気立っていた。傷病兵を満載した市電 が壁をまたぐ線路を通過していくと、市民たちの何割かは顔を上げ、あそこに我が子が、親族が、知己 が載せられているのではないかと思いを馳せるのだが、その目は暗く、それでいて、光が鋭かった。
市電の駅の階段から、担架を肩にかけた兵士たちが降りてきた。彼らは人を怒鳴りつけて道を開けさせながら割り当ての病院へと足を急がせ、顔を血染めの包帯で覆う傷病兵は、担架の上から悲しげな目で無言の問いを発していた。
傷病兵の列が去ると、今度は痩せこけて異臭を放つトレブ陸軍の捕虜たちが隊伍 を組んできた。彼らは三列縦隊となり、トレブ共和国の三十年ぶり二度めの侵攻の結果を身をもって味わっていた。縦隊が通るとき、群衆は鼻をつまみながら道を開け、縦隊が通り過ぎるとたちまち空 いた空間を帽子をかぶった頭で埋め尽くした
南ルナリア近辺の演習場から、風に乗って大砲の轟音が聞こえてきた。砂埃が舞い、冬だというのに大気は黄色く濁っていた。黄色い光芒の中を、カタカタと音を立てて、バネ仕掛けの鳥が飛んでいく。神経症の婦人が一人、その音を嫌って耳を塞いだ。
聖四位一体紋を掲げた巡行の列がまたも群衆を割った。
「いと清き御母 聖フローレン、御身 は類 なき善徳の鑑 であれば、我御前 に伏して願い奉 る。願わくば我らが王国を導き、南ルナリアを保護し給 え」
先頭に立つ男は、黒くて足首まで丈のある司祭平服に似た衣服を身に纏っているが、それらしく作った偽物に過ぎなかった。
「慈しみの御 眼差しもちて我らを守りたまえ。我らの弱きを助けたまえ。我らを清く保ちたまえ。我らを主の救いに適 わしめ給え――」
人々は祈りの列に吸い寄せられるようについて行ったり、また離れたりした。巡行者たちは市の中心地にそびえる南ルナリア大聖堂にたどりついたが、中に入ろうとせず、正門から道を渡った修道院を巻き込んで一周し、また正門へと戻ってきた。彼らの祈りはあてつけがましかった。その声は、大聖堂の司祭たちが暮らす司祭館の電話室にいるアズの耳にも聞こえていた。
※
『どうして君はフクシャの問題をフクシャに任せておかなかったのかね』
ガイエン大司教モレク・ハライの言葉が受話器から聞こえたとき、今度会ったらあの豚を殺してやろうかとアズは考えた。ルーの言った通りだ。奴は司教座 に座る資格のない豚だ。
俺が寄り道をしていたと言いたいのか。
その一言をアズは嚥下 した。
「お言葉ですが、猊下 。ガイエン同様フクシャにも戦闘能力を有する『天使』はルー・シャンシアただ一人しかおりませんでした。事態を把握しておりながら問題解決をフクシャに委ねるというのは事実上見捨てることと同義であり、道義上許される振る舞いではございません」
『そんなことは言われなくてもわかっておる。私は、君が私にもフクシャ大司教にも一言もなく事を起こした件について言っておるのだ』
怒りのあまり、今やアズは指が真っ白になるほど受話器を握りしめていた。冷静な振る舞いを身につけているが、アズは感情が人一倍強い。そして、十分に温厚かつ理性的な人物であるのだが、しばしば嫌いな相手を惨たらしく殺す妄想をした。アズは頭の中でガイエン大司教を剣で滅多刺しにした。
『いいかね? 戦える天使が一人もいない現状はガイエンも同じなんだよ。しかも君は任務で留守にしているわけだから補充がくるでもない』
どうせ次の『天使』が補充されるのだからルーは死んでもよかったと言いたいのか。
アズが瀕死の大司教を頭の中で夜行列車の線路に放り込んだところで、当の大司教が釘を刺してきた。
『君は自分が何しにガイエンを出たかわかっているのかね?』
「レライヤの学園に秘宝の鳥を持ち帰るためです」
『そうだ。で、追跡の任務はどうなっている?』
「言えません」
『なに?』
「詳しい遂行状況を電話でお話しするわけにはいきません。私は今の電信電話局を信用しておりませんが、それは猊下も同じではございませんか」
今度は大司教が沈黙し、気まずそうにする番だった。
『とにかく、君にはもっと責任感というものを持ってもらわねば困るよ』
「……返す言葉もございません」
アズの頭の中で、疾走する夜行列車が命乞いする大司教の顔と頭を踏み砕き、体を八つ裂きにした。
『君は一刻も早く、例の鳥飼いから鳥を奪還しなければならない。わかっているな?』
「はい、猊下」
『ならば早くしたまえ。それが済むまで帰ってくるんじゃない』
電話が切られた。アズが受話器を置くと、見計らったように電話室のガラス窓つきの扉があいた。
「お電話は終わりましたかな?」
黒い平服の、中年の司祭が電話室に入ってきた。
「はい。お貸しいただいて、ありがとうございました」
「とんでもない。『天使』は公教会を守護する大切なお方だ。お望みとあれば、なんなりと」
「それでは、すみませんが、一つだけ教えていただきたいことがあるのですが」
「なんでしょう?」
「山中に、『塗油 』の賜物を持つ言葉つかいが一人で暮らしている、という噂を耳にしたことがあるのですが、これについて神父殿はご存知でしょうか」
司祭は眉根を寄せて訝しみ、首をかしげた。
「『塗油』の言葉つかいが? さて、そのような者はどこでも引く手数多 でしょうに。この時世であればなおさら」
「いえ、気になる噂でしたからお尋ねしたまででございます。……どうやら事実ではないのでしょうね」
「噂といえば」
司祭が身を乗り出してきた。
「ラティア殿は道中耳にされませんでしたか。ここ南ルナリアの外れにある『聖母の涙修道会』に収蔵された聖骸 が盗み出されたことを。しかも、しかもです。あろうことか賊は修道院の事務員を人質に」
面倒なことになる、と予感しながらアズは尋ねた。
「いいえ。それは、いつ」
「本日の明朝のことです」
「左様でしたか。存じませんでした。私は先刻南ルナリアについたばかりですから」
「あの聖骸は聖母フローレンをかばい殉死した聖娼ティエイラのものです。我ら言語生命体が今の科学力を手にする礎 を築いたのも、改心した聖ティエイラですよ。ええ、もちろんご存知でしょうとも、公教会を守護する天使ともあろうお方であれば。
ああ、聖ティエイラの聖骸が抵抗教会の手に渡れば、奴らの新兵器開発のどのような正当化に使われることか」
つまり、彼らはアズに聖遺物を取り戻してほしいと思っているのだが、アズの口から『じゃあ行きます』と言わせたいのだ。噂か。むしろガイエンの星月夜の天使はお人好しの馬鹿だという噂が広まっているのではないかとアズは思った。
「抵抗教会が興 るきっかけとなったのは、空を飛ぶ技術の研究の着手が許されるか否かという教義解釈をめぐる論争であったそうですね」
アズは話を逸らした。電話を貸してもらったくらいでそこまで付き合いきれない。
「このままでは、抵抗教会はいよいよ空を飛ぶ機械を発明し得るかも知れませんね。主 の平和があなたの上にありますように。それでは」
配給のチケットを握りしめた南ルナリアの民衆は
市電の駅の階段から、担架を肩にかけた兵士たちが降りてきた。彼らは人を怒鳴りつけて道を開けさせながら割り当ての病院へと足を急がせ、顔を血染めの包帯で覆う傷病兵は、担架の上から悲しげな目で無言の問いを発していた。
傷病兵の列が去ると、今度は痩せこけて異臭を放つトレブ陸軍の捕虜たちが
南ルナリア近辺の演習場から、風に乗って大砲の轟音が聞こえてきた。砂埃が舞い、冬だというのに大気は黄色く濁っていた。黄色い光芒の中を、カタカタと音を立てて、バネ仕掛けの鳥が飛んでいく。神経症の婦人が一人、その音を嫌って耳を塞いだ。
聖四位一体紋を掲げた巡行の列がまたも群衆を割った。
「いと清き
先頭に立つ男は、黒くて足首まで丈のある司祭平服に似た衣服を身に纏っているが、それらしく作った偽物に過ぎなかった。
「慈しみの
人々は祈りの列に吸い寄せられるようについて行ったり、また離れたりした。巡行者たちは市の中心地にそびえる南ルナリア大聖堂にたどりついたが、中に入ろうとせず、正門から道を渡った修道院を巻き込んで一周し、また正門へと戻ってきた。彼らの祈りはあてつけがましかった。その声は、大聖堂の司祭たちが暮らす司祭館の電話室にいるアズの耳にも聞こえていた。
※
『どうして君はフクシャの問題をフクシャに任せておかなかったのかね』
ガイエン大司教モレク・ハライの言葉が受話器から聞こえたとき、今度会ったらあの豚を殺してやろうかとアズは考えた。ルーの言った通りだ。奴は
俺が寄り道をしていたと言いたいのか。
その一言をアズは
「お言葉ですが、
『そんなことは言われなくてもわかっておる。私は、君が私にもフクシャ大司教にも一言もなく事を起こした件について言っておるのだ』
怒りのあまり、今やアズは指が真っ白になるほど受話器を握りしめていた。冷静な振る舞いを身につけているが、アズは感情が人一倍強い。そして、十分に温厚かつ理性的な人物であるのだが、しばしば嫌いな相手を惨たらしく殺す妄想をした。アズは頭の中でガイエン大司教を剣で滅多刺しにした。
『いいかね? 戦える天使が一人もいない現状はガイエンも同じなんだよ。しかも君は任務で留守にしているわけだから補充がくるでもない』
どうせ次の『天使』が補充されるのだからルーは死んでもよかったと言いたいのか。
アズが瀕死の大司教を頭の中で夜行列車の線路に放り込んだところで、当の大司教が釘を刺してきた。
『君は自分が何しにガイエンを出たかわかっているのかね?』
「レライヤの学園に秘宝の鳥を持ち帰るためです」
『そうだ。で、追跡の任務はどうなっている?』
「言えません」
『なに?』
「詳しい遂行状況を電話でお話しするわけにはいきません。私は今の電信電話局を信用しておりませんが、それは猊下も同じではございませんか」
今度は大司教が沈黙し、気まずそうにする番だった。
『とにかく、君にはもっと責任感というものを持ってもらわねば困るよ』
「……返す言葉もございません」
アズの頭の中で、疾走する夜行列車が命乞いする大司教の顔と頭を踏み砕き、体を八つ裂きにした。
『君は一刻も早く、例の鳥飼いから鳥を奪還しなければならない。わかっているな?』
「はい、猊下」
『ならば早くしたまえ。それが済むまで帰ってくるんじゃない』
電話が切られた。アズが受話器を置くと、見計らったように電話室のガラス窓つきの扉があいた。
「お電話は終わりましたかな?」
黒い平服の、中年の司祭が電話室に入ってきた。
「はい。お貸しいただいて、ありがとうございました」
「とんでもない。『天使』は公教会を守護する大切なお方だ。お望みとあれば、なんなりと」
「それでは、すみませんが、一つだけ教えていただきたいことがあるのですが」
「なんでしょう?」
「山中に、『
司祭は眉根を寄せて訝しみ、首をかしげた。
「『塗油』の言葉つかいが? さて、そのような者はどこでも引く手
「いえ、気になる噂でしたからお尋ねしたまででございます。……どうやら事実ではないのでしょうね」
「噂といえば」
司祭が身を乗り出してきた。
「ラティア殿は道中耳にされませんでしたか。ここ南ルナリアの外れにある『聖母の涙修道会』に収蔵された
面倒なことになる、と予感しながらアズは尋ねた。
「いいえ。それは、いつ」
「本日の明朝のことです」
「左様でしたか。存じませんでした。私は先刻南ルナリアについたばかりですから」
「あの聖骸は聖母フローレンをかばい殉死した聖娼ティエイラのものです。我ら言語生命体が今の科学力を手にする
ああ、聖ティエイラの聖骸が抵抗教会の手に渡れば、奴らの新兵器開発のどのような正当化に使われることか」
つまり、彼らはアズに聖遺物を取り戻してほしいと思っているのだが、アズの口から『じゃあ行きます』と言わせたいのだ。噂か。むしろガイエンの星月夜の天使はお人好しの馬鹿だという噂が広まっているのではないかとアズは思った。
「抵抗教会が
アズは話を逸らした。電話を貸してもらったくらいでそこまで付き合いきれない。
「このままでは、抵抗教会はいよいよ空を飛ぶ機械を発明し得るかも知れませんね。