子供なんだよなあ
文字数 2,875文字
2.
スアラがテレジアに身柄を保護された日の朝、チルーとリリスは卓上ボール盤がある鉄屑だらけの作業机の下で抱きあって目を覚ました。工場の高い窓から朝日が爽やかに降り注いでいた。雪が降っていなくてよかったと、チルーは瞬きしながら考えた。気が滅入っては頭も鈍くなる。眠るとき、床に麻布を敷いたが、起きたときには鉄屑が顔の周りに散見された。リリスは護身用に壁から取り出した石の塊を三つ、額の近くに置いていた。夜中に何が起きてもいいように、二人とも靴を履いたまま寝ていた。
ともあれ眠ることはできた。
「リリス」
起きてと言う前に、リリスは目を開けた。
「起きてたよ」
「嘘だ」
チルーは微笑みかけながら、自分がまだ笑えることに驚いていた。
「二度寝してたんでしょ?」
世界中が静まり返っていた。何もかも全てが自分たちのものになった気がした。ああ、リリス、リリス! おどけて舌を出すリリス。頼もしく、恐ろしく、気高い友達。
私とリリスしかいない世界で生きていけたら。
少女たちの友情は、恋よりも依存に似ていた。それでも純粋だった。
二人は机の下で横になったまま、互いの顔に注ぐ光と影に目を細めていた。だが車のクラクションが鳴って、すべてをぶち壊した。
世界には人がたくさんいて、二人だけのものではなかった。
「グロリアナから出なくちゃね」
リリスの言葉がチルーを完全に現実に連れ戻した。
「うん。でも、どうやって?」
「あと一つ方法がある。誰にもわからない、とっておきの方法」
「あのマザーにもわからない?」
「うん。絶対わからない」
チルーは両膝を腹に引き寄せながら尋ねた。
「どんな?」
「ラナさんの村を出た方法を使うの」
宿題を解説するときのように答えた。ときどき、リリスは自分の優秀さに酔っているように見えることがあった。
「巡礼を呼ぶんだよ。それに紛れて出るんだ。そんなやり方誰にもわからない」
「駄目」
チルーは微笑むのをやめた。
「どうして? チルー」
「ルシーラさんを見たでしょう?」
だが、リリスはやめなかった。
「リリス、私たちはあの人に何をしたのかわかっていなかった……今でもわかってないよ。わかってないんだよ」
「そうかもしれないね」
「リリス」
机から這い出て身を起こす。ズボンの膝から下が鉄屑まみれになって、いくつかは布地を貫通してチルーの肌に刺さった。
リリスもまた、麻布に手をついて机の下から出て来た
「でもチルー、私たちが安全なところに行く方法はそれしかないんじゃない?」
「安全な所に行ったら――」
――私は打ちのめされる。
「何? 言って」
「安全なところで――私は――ルシーラさんのことを考えるよ。わかっちゃうまで考えるの。私たちがしたことを」
そして、自分のしたことに打ちのめされるのだ。
「じゃあどうするの? このまま学園に連れ戻されるの? 鳥を奪われて、廃人にされて、殺される?」
「それは」
「生きるにしても、死ぬにしても、私たちは二度と会うことが許されなくなる」
「嫌。嫌」
「うん。私も嫌」
床に座り込んだまま、リリスは冷え切った手でチルーの膝に置かれた手を取った。
「チルー、思い出して。巡礼について行くのは死にたい人なんだ。一人一人、自分で決めて、自分の意志でついていくんだよ」
「そうかな」
「そうだよ」手に力がこもる。「だから巡礼の死は私たちのせいじゃない」
チルーには、とてもそうは思えなかった。
だが、わかってもいた。
異を唱えることはリリスを失うことと同義だ。自分の命を失うだけではない。
「あのね、チルー。私たちが逃げなきゃいけないのはね?」
「なに?」
「私たちが何もかもを我慢して受け入れることを、大人たちが押し付けてくるからだよ。あいつらにはチルーの鳥を取り上げる権利なんてなかった。私たちを大人になるまで学園に閉じ込めておく権利も、毎日馬鹿にする権利もなかったはず。ねえ。そうでしょ?」
チルーは返答に窮した。
「どいつもこいつも、自分が幸せになるために私たちを不幸にするつもりなんだ」
一際 激しいクラクションが鳴り響いて、チルーは震え上がった。
車のドアが開け閉めされる音。
なめてんのかてめぇぶっ殺すぞ、と男ががなり立てた。
別の男がすごむ。なんだと、邪魔しやがったほうが謝るのが筋だろうが。
殺 っちまえ、殺っちまえ、と、帰る家のない男たちが囃し立てた。
チルーは泣きたくなった。
「……だからさ、私たちはさ、これからは自分のしたいようにしようよ」
荒廃した心の群れが外で歓声をあげている。
「チルー」
腕を引かれるのを感じた。リリスが膝立ちになる。
背中に腕がまわり、リリスの肩に鼻を押し付けるかたちでチルーは抱きしめられた。
耳の後ろでリリスが囁いた。
「幸せになろうよ」
※
スアラは夕方まで目を覚まさなかった。目が覚めてからも、すぐには起き上がらず、仰向けのまま虚ろな目を窓の外に向けていた。カーテンはかかっておらず、夕日の長い腕はスアラの顔を避けて胸にかかる毛布に触れていた。
隣の救貧院の黄ばんだ壁と、緑のスレート葺きの屋根が見えていた。ステンドグラスの小窓が一つあるが、その奥に明かりはない。
何故だか懐かしい気分だった。小さな頃、風邪をひいて寝込み、こうして外を見ていると、砂糖で煮込んだ梨を母親が持ってきてくれたことがあった。あの日見ていた夕日も今日の夕日も同じものなのだ。たった一つの同じ太陽から注がれているのだから。
お母さん、今頃ご飯の支度 をしているんだろうな。
安堵が混じる切なさに胸が締め付けられた。帰らなくていいのだ。全てが良くなるまでは。テレジアさんは全てを良くしてくれる。
スアラにとってそれは、母が本当はまだ自分を愛しているのと同じくらい確からしいことだった。
夕日の温かな手が、スアラの腹をそっと押して、不安を取り除いた。
起きよう、とスアラは決意して、その通りにした。この場所でできることがあるはずだ。
冷たい室内履きに素足を通して部屋を出ると、廊下は南の突き当りの窓が赤く染まっているだけで、もう暗かった。白熱電球のガラスのカバーが天井から垂れ下がっている。半円を描く階段で一階に下りる。エントランスには生魚の臭いが立ち込めていた。
「ローズマリーをとってきて!」
厨房からは忙しく立ち働くシスターたちの声。
「今切らしてるの! あたし買ってくる」
「急いで」と、ざわつきを貫く指示出しの声。「市場が閉まっちゃう。ついでにニンニクとジャガイモも追加で!」
「押し麦もね!」
「ごめん、チーズも!」
「フェンネルは? フェンネルは足りてる?」
スアラはなんとなく立ち尽くして耳を澄ませた。
買い物のリストがまとまると、急ぎ足のシスターがヴェールをかぶりながらエントランスに歩いてきた。その人は、成人で、魚の臭いがし、目は多忙ゆえに殺気立っていた。
シスターは階段の下ではたと足を止め、その目をスアラに向けた。
「君、暇?」
緊張しながらスアラは頷いた。
「はい」
「じゃあ買い物についてきて。車を出すから荷物を運んでほしいの」
スアラがテレジアに身柄を保護された日の朝、チルーとリリスは卓上ボール盤がある鉄屑だらけの作業机の下で抱きあって目を覚ました。工場の高い窓から朝日が爽やかに降り注いでいた。雪が降っていなくてよかったと、チルーは瞬きしながら考えた。気が滅入っては頭も鈍くなる。眠るとき、床に麻布を敷いたが、起きたときには鉄屑が顔の周りに散見された。リリスは護身用に壁から取り出した石の塊を三つ、額の近くに置いていた。夜中に何が起きてもいいように、二人とも靴を履いたまま寝ていた。
ともあれ眠ることはできた。
「リリス」
起きてと言う前に、リリスは目を開けた。
「起きてたよ」
「嘘だ」
チルーは微笑みかけながら、自分がまだ笑えることに驚いていた。
「二度寝してたんでしょ?」
世界中が静まり返っていた。何もかも全てが自分たちのものになった気がした。ああ、リリス、リリス! おどけて舌を出すリリス。頼もしく、恐ろしく、気高い友達。
私とリリスしかいない世界で生きていけたら。
少女たちの友情は、恋よりも依存に似ていた。それでも純粋だった。
二人は机の下で横になったまま、互いの顔に注ぐ光と影に目を細めていた。だが車のクラクションが鳴って、すべてをぶち壊した。
世界には人がたくさんいて、二人だけのものではなかった。
「グロリアナから出なくちゃね」
リリスの言葉がチルーを完全に現実に連れ戻した。
「うん。でも、どうやって?」
「あと一つ方法がある。誰にもわからない、とっておきの方法」
「あのマザーにもわからない?」
「うん。絶対わからない」
チルーは両膝を腹に引き寄せながら尋ねた。
「どんな?」
「ラナさんの村を出た方法を使うの」
宿題を解説するときのように答えた。ときどき、リリスは自分の優秀さに酔っているように見えることがあった。
「巡礼を呼ぶんだよ。それに紛れて出るんだ。そんなやり方誰にもわからない」
「駄目」
チルーは微笑むのをやめた。
「どうして? チルー」
「ルシーラさんを見たでしょう?」
だが、リリスはやめなかった。
「リリス、私たちはあの人に何をしたのかわかっていなかった……今でもわかってないよ。わかってないんだよ」
「そうかもしれないね」
「リリス」
机から這い出て身を起こす。ズボンの膝から下が鉄屑まみれになって、いくつかは布地を貫通してチルーの肌に刺さった。
リリスもまた、麻布に手をついて机の下から出て来た
「でもチルー、私たちが安全なところに行く方法はそれしかないんじゃない?」
「安全な所に行ったら――」
――私は打ちのめされる。
「何? 言って」
「安全なところで――私は――ルシーラさんのことを考えるよ。わかっちゃうまで考えるの。私たちがしたことを」
そして、自分のしたことに打ちのめされるのだ。
「じゃあどうするの? このまま学園に連れ戻されるの? 鳥を奪われて、廃人にされて、殺される?」
「それは」
「生きるにしても、死ぬにしても、私たちは二度と会うことが許されなくなる」
「嫌。嫌」
「うん。私も嫌」
床に座り込んだまま、リリスは冷え切った手でチルーの膝に置かれた手を取った。
「チルー、思い出して。巡礼について行くのは死にたい人なんだ。一人一人、自分で決めて、自分の意志でついていくんだよ」
「そうかな」
「そうだよ」手に力がこもる。「だから巡礼の死は私たちのせいじゃない」
チルーには、とてもそうは思えなかった。
だが、わかってもいた。
異を唱えることはリリスを失うことと同義だ。自分の命を失うだけではない。
「あのね、チルー。私たちが逃げなきゃいけないのはね?」
「なに?」
「私たちが何もかもを我慢して受け入れることを、大人たちが押し付けてくるからだよ。あいつらにはチルーの鳥を取り上げる権利なんてなかった。私たちを大人になるまで学園に閉じ込めておく権利も、毎日馬鹿にする権利もなかったはず。ねえ。そうでしょ?」
チルーは返答に窮した。
「どいつもこいつも、自分が幸せになるために私たちを不幸にするつもりなんだ」
車のドアが開け閉めされる音。
なめてんのかてめぇぶっ殺すぞ、と男ががなり立てた。
別の男がすごむ。なんだと、邪魔しやがったほうが謝るのが筋だろうが。
チルーは泣きたくなった。
「……だからさ、私たちはさ、これからは自分のしたいようにしようよ」
荒廃した心の群れが外で歓声をあげている。
「チルー」
腕を引かれるのを感じた。リリスが膝立ちになる。
背中に腕がまわり、リリスの肩に鼻を押し付けるかたちでチルーは抱きしめられた。
耳の後ろでリリスが囁いた。
「幸せになろうよ」
※
スアラは夕方まで目を覚まさなかった。目が覚めてからも、すぐには起き上がらず、仰向けのまま虚ろな目を窓の外に向けていた。カーテンはかかっておらず、夕日の長い腕はスアラの顔を避けて胸にかかる毛布に触れていた。
隣の救貧院の黄ばんだ壁と、緑のスレート葺きの屋根が見えていた。ステンドグラスの小窓が一つあるが、その奥に明かりはない。
何故だか懐かしい気分だった。小さな頃、風邪をひいて寝込み、こうして外を見ていると、砂糖で煮込んだ梨を母親が持ってきてくれたことがあった。あの日見ていた夕日も今日の夕日も同じものなのだ。たった一つの同じ太陽から注がれているのだから。
お母さん、今頃ご飯の
安堵が混じる切なさに胸が締め付けられた。帰らなくていいのだ。全てが良くなるまでは。テレジアさんは全てを良くしてくれる。
スアラにとってそれは、母が本当はまだ自分を愛しているのと同じくらい確からしいことだった。
夕日の温かな手が、スアラの腹をそっと押して、不安を取り除いた。
起きよう、とスアラは決意して、その通りにした。この場所でできることがあるはずだ。
冷たい室内履きに素足を通して部屋を出ると、廊下は南の突き当りの窓が赤く染まっているだけで、もう暗かった。白熱電球のガラスのカバーが天井から垂れ下がっている。半円を描く階段で一階に下りる。エントランスには生魚の臭いが立ち込めていた。
「ローズマリーをとってきて!」
厨房からは忙しく立ち働くシスターたちの声。
「今切らしてるの! あたし買ってくる」
「急いで」と、ざわつきを貫く指示出しの声。「市場が閉まっちゃう。ついでにニンニクとジャガイモも追加で!」
「押し麦もね!」
「ごめん、チーズも!」
「フェンネルは? フェンネルは足りてる?」
スアラはなんとなく立ち尽くして耳を澄ませた。
買い物のリストがまとまると、急ぎ足のシスターがヴェールをかぶりながらエントランスに歩いてきた。その人は、成人で、魚の臭いがし、目は多忙ゆえに殺気立っていた。
シスターは階段の下ではたと足を止め、その目をスアラに向けた。
「君、暇?」
緊張しながらスアラは頷いた。
「はい」
「じゃあ買い物についてきて。車を出すから荷物を運んでほしいの」