市電広場(生者)
文字数 3,521文字
2.
リリスがチルーの席まで来て、机に指をついた。赤みを帯びた黒髪が、一房ずつ、顔の両脇に垂れていた。彼女は白い歯を見せて、心に焼き付くような、いつもの笑い方で笑った。
「災難だったねぇ」
チルーは窓に目をそらしながら、うん、と頷いた。リリスは優等生で、人気者だ。今も、同級生たちがちらちらとリリスとチルーを見ている。人気者なのは、誰とでも付き合えるからだ。誰とでも付き合えるのは、自分に自信があるからだ。リリスは何もかもがチルーと違っていた。チルーにとって、リリスはたった一人の友達。リリスには他に友達がたくさんいる。
「……答え、わかってたんでしょ?」
「わかるよ」答えながら目を上げた。「でも、あんなふうに睨まれたら答えられなくなっちゃうんだ」
顔を見たとき、リリスはまだ微笑んでいた。
「また遠くに行っちゃってたの?」
言葉が出なくなるときの感覚について、『私が私から離れていっちゃうの』と説明したことがある。『現実が遠くに行っちゃって、その中に私自身の姿も見えて……だから、遠くに行っちゃったのが現実じゃなくて、私のほうだって気付くの』
「そんな言い方はやめて」
そのときの気分は最悪で、けれど、その遠さが自分を守ってくれる感じがするのも確かだった。
「チルーは頭悪くないよ」
リリスが口調に慰めを込めた。
「試験の成績はそこまで悪くないんだもの。ただちょっと授業に集中するのが苦手なだけ。で、さっきは何を見てたの?」
「あのね」
チルーは座ったまま、窓の外を指差した。
「そこの広場に寮母さんがいたの」
「リラおばさんが?」
「うん。泣いてるみたいだった」
壁と壁の切れ目の広場には、もう黄色い落ち葉以外、何も見えなかった。
「それで……どうしたのかなって」
ふぅん、と頷くリリスはもう微笑んでいない。
イースラが、空気の流れを嗅ぎ取って、いそいそと寄ってきた。彼女もまた、チルーやリリスと同じ学生寮に入っていた。
「ねぇねぇ、どうしたの?」
彼女はいつも楽しそうだ。黄色い髪は毎日違う髪型。靴下留めも、リボンも違う。小柄で、栗鼠 のように可愛らしい。いつもニコニコ微笑んで、成績があまり良くないことも、先生に毎日怒られることも、一度だって気にしたことはないようだ。
リリスが、いきなりイースラの細い首に腕を回し、抱き寄せた。イースラは長身のリリスの胸に顔を押し付ける形となり、わぁ、と声を上げた。リリスはすぐに空 いているほうの手を使い、イースラの口に指を当てた。
「静かに。抜け出すよ」
「えっ?」
「チルーも一緒においで。見つけたのは君なんだからね」
チルーは青ざめながら、椅子を引き、立ち上がった。リリスの顔に笑みが戻る。彼女の目は外の広場に向けられた。チルーはおずおずと尋ねた。
「六限は?」
「サボるに決まってんじゃん」
リリスは、腰に銃剣を差していた。
※
首都の一番低い壁でも、並の民家の屋根と同じ程度の高さがある。商店や家々は、壁に沿って身を寄せ合っている。壁の間に横たわる石畳の道は、無秩序に曲がりくねる区画もあれば、幾何学模様を描いて展開される区画もある。
昼を過ぎ、陽射しが乏しくなり始めた。チルーの頭上では、壁の上を通り過ぎる風が鋭い音を鳴らしている。イチョウの木の下で待っていると、赤い屋根の小さな店から、リリスがパン屋の紙袋を抱えて出てきた。小走りに戻ってくるリリスの楽しげな様子に、チルーの暗く沈んだ心はようやく和らいだ。
「そんなに……」
言い終わる前に、イースラが声を張り上げた。
「たくさん買ってきたねぇ!」
パン屋の女主人が、ショーウィンドウの向こうから身を乗り出してこちらを見ていた。チルーの体が緊張で固くなる。当然ながら、この時間に制服姿で街を出歩いている若者は自分たちしかいない。
イースラはお構いなしだ。
「そんなに食べれるかなぁ?」
「食べるんだよ。はい、君の大好きなクリームパン。チルーもお食べ」
そう言って紙袋から出して渡してくれたのは、シナモンのロールパンだった。好物を覚えていてくれたのだとチルーは嬉しくなる。だからリリスは友達が多いのだ。
「歩こうよ」
三人はパンを食べながら、曲がりくねった道を歩いた。彼女たちは十四歳。食べ盛りだった。
「リラおばさん、どこに行ったのかなあ」
歩けども姿が見当たらないので、リリスの顔が曇っていく。
「泣いてた、って言ってたよね」
うん、とチルーは頷くが、自信がなくなってきた。別人だったかもしれない。
「きっと悲しいことがあったんだね。どうしたんだろうね」
イースラが高い声で言った。チルーはどう返事をしようか迷った。イースラは、普段から仲良くしている同級生ではない。寮でも二人で話したことはない。
だが、言ってみることにした。
「寮母さんね、北部戦線に養子が配属されたって言ってたよ。聖教軍に入ってたんだって」
「ふぅん」どうでもよさそうにイースラは呟いた。「死んじゃったのかな……」
もう何分、都市の迷宮を歩き続けているのかチルーは気になった。授業はあとどれくらいで終わるだろう。
北の戦線がどうなっているのかなどチルーは知らなかった。学園は、生きている人間との戦いには関与しないのだ。そうした出来事に関して、生徒たちに何も教えないし、生徒たちも敢えて自ら知ろうとしなかった。生徒たちに教えようとする人もいない。
学園は、学生たちが外の世界と関わり合うのを嫌う。家族であっても、学園を卒業するまでは、手紙のやり取りさえ許さないほどだ。
後ろでチャイムが鳴った。六限が終わったのだ。振り向き、時計台を仰ぎ見た。青空に文字盤が掲げられていた。学園の女子部と男子部を隔てる壁が、時計台を貫通していた。
チルーはときどき、自分がこの街で何をしているのかわからず、不思議な気持ちになる。どういう経緯で学園に来たのか、何歳からレライヤの都にいるのか、チルーは知らない。両親は、チルーを学園に売ったのだろうかと思う。そういう話はたまに聞こえてくる。学園が、生徒たちの親にお金を渡したというような話は。そうした生徒たちは、二十二階梯を修了しても、どこにも帰る場所がないという。
一方で、二代続けて『学園』で育ったという人もいる。リリスがそうで、彼女の父親は有名な死者狩りの英雄だ。
「生きてる人間との戦争だって、やっぱり学園とは無関係じゃないよ」
そのリリスは、紙袋に手を突っ込んで次のロールパンを取り出しながら、イースラに語っていた。
「戦争でたくさん死者が出ると、死者たちは巡礼団を結成して街に帰ってくる。そうすると、死者たちと戦えるのは学園が育てた『言葉つかい』だけだ。君は戦えるのかい?」
「やだぁ、死者に連れて行かれちゃうよ」
リリスは乾いた声で笑った。
「大丈夫。死者は『死にたい』って思ってる人しか連れて行かないんだ」
何がおかいのか、あははー、とイースラは笑った。
前を歩く二人が足を止めたので、チルーも立ち止まった。
二人の肩越しに窺えば、市電広場は混乱の直前の熱に冒されていた。
昼間から泥酔した労働者が、陸橋にもたれかかって眠りこけていた。垢にまみれた脱走兵の群れが、伸び放題の髭と髪の中で、飢えた目をらんらんと輝かせてうろつき回っていた。石畳には、昨夜の雨で濡れたビラが貼り付いていた。『抵抗者の教会』の煽動者が喚き、公教会を中傷している。太った将校が近付いていくと、群衆はサッと道を開けた。兵士たちが煽動者を殴る光景を、再び群衆が隠した。
一人の労働者が、風に煽られる新聞紙を拾い上げ、目を通した。たちまち憤激した様子で石畳に叩きつけると、痰を吐いた。痩せた鶏を抱いた女が、チルーの前を通り過ぎていった。群衆の上にかかる、壁を跨 ぐ陸橋の上で、市電はもう何日も動いていない。辺りには、小便と、吐瀉物の臭いが立ち込めていた。
リリスが振り向く。
「帰ろっか」
学校に帰るのかと思ったが、こう付け足した。
「リラおばさんも戻ってるかもしれないし」
寮に帰るつもりなのだ。
リリスの顔に影が落ちた。
雲ではない。
これまでに、人生で二度経験したことがある翳 り。
音楽が聞こえてくる。低く唸る祈りの旋律。
リリスも、群衆も遠くなっていく。濃くなる影に溶け去って、みんな消えてしまう。
微かに見えるリリスの笑み。
「リリス」
手を伸ばす。
「来る、死者……」
暗黒となった。
「……死」
リリスがチルーの席まで来て、机に指をついた。赤みを帯びた黒髪が、一房ずつ、顔の両脇に垂れていた。彼女は白い歯を見せて、心に焼き付くような、いつもの笑い方で笑った。
「災難だったねぇ」
チルーは窓に目をそらしながら、うん、と頷いた。リリスは優等生で、人気者だ。今も、同級生たちがちらちらとリリスとチルーを見ている。人気者なのは、誰とでも付き合えるからだ。誰とでも付き合えるのは、自分に自信があるからだ。リリスは何もかもがチルーと違っていた。チルーにとって、リリスはたった一人の友達。リリスには他に友達がたくさんいる。
「……答え、わかってたんでしょ?」
「わかるよ」答えながら目を上げた。「でも、あんなふうに睨まれたら答えられなくなっちゃうんだ」
顔を見たとき、リリスはまだ微笑んでいた。
「また遠くに行っちゃってたの?」
言葉が出なくなるときの感覚について、『私が私から離れていっちゃうの』と説明したことがある。『現実が遠くに行っちゃって、その中に私自身の姿も見えて……だから、遠くに行っちゃったのが現実じゃなくて、私のほうだって気付くの』
「そんな言い方はやめて」
そのときの気分は最悪で、けれど、その遠さが自分を守ってくれる感じがするのも確かだった。
「チルーは頭悪くないよ」
リリスが口調に慰めを込めた。
「試験の成績はそこまで悪くないんだもの。ただちょっと授業に集中するのが苦手なだけ。で、さっきは何を見てたの?」
「あのね」
チルーは座ったまま、窓の外を指差した。
「そこの広場に寮母さんがいたの」
「リラおばさんが?」
「うん。泣いてるみたいだった」
壁と壁の切れ目の広場には、もう黄色い落ち葉以外、何も見えなかった。
「それで……どうしたのかなって」
ふぅん、と頷くリリスはもう微笑んでいない。
イースラが、空気の流れを嗅ぎ取って、いそいそと寄ってきた。彼女もまた、チルーやリリスと同じ学生寮に入っていた。
「ねぇねぇ、どうしたの?」
彼女はいつも楽しそうだ。黄色い髪は毎日違う髪型。靴下留めも、リボンも違う。小柄で、
リリスが、いきなりイースラの細い首に腕を回し、抱き寄せた。イースラは長身のリリスの胸に顔を押し付ける形となり、わぁ、と声を上げた。リリスはすぐに
「静かに。抜け出すよ」
「えっ?」
「チルーも一緒においで。見つけたのは君なんだからね」
チルーは青ざめながら、椅子を引き、立ち上がった。リリスの顔に笑みが戻る。彼女の目は外の広場に向けられた。チルーはおずおずと尋ねた。
「六限は?」
「サボるに決まってんじゃん」
リリスは、腰に銃剣を差していた。
※
首都の一番低い壁でも、並の民家の屋根と同じ程度の高さがある。商店や家々は、壁に沿って身を寄せ合っている。壁の間に横たわる石畳の道は、無秩序に曲がりくねる区画もあれば、幾何学模様を描いて展開される区画もある。
昼を過ぎ、陽射しが乏しくなり始めた。チルーの頭上では、壁の上を通り過ぎる風が鋭い音を鳴らしている。イチョウの木の下で待っていると、赤い屋根の小さな店から、リリスがパン屋の紙袋を抱えて出てきた。小走りに戻ってくるリリスの楽しげな様子に、チルーの暗く沈んだ心はようやく和らいだ。
「そんなに……」
言い終わる前に、イースラが声を張り上げた。
「たくさん買ってきたねぇ!」
パン屋の女主人が、ショーウィンドウの向こうから身を乗り出してこちらを見ていた。チルーの体が緊張で固くなる。当然ながら、この時間に制服姿で街を出歩いている若者は自分たちしかいない。
イースラはお構いなしだ。
「そんなに食べれるかなぁ?」
「食べるんだよ。はい、君の大好きなクリームパン。チルーもお食べ」
そう言って紙袋から出して渡してくれたのは、シナモンのロールパンだった。好物を覚えていてくれたのだとチルーは嬉しくなる。だからリリスは友達が多いのだ。
「歩こうよ」
三人はパンを食べながら、曲がりくねった道を歩いた。彼女たちは十四歳。食べ盛りだった。
「リラおばさん、どこに行ったのかなあ」
歩けども姿が見当たらないので、リリスの顔が曇っていく。
「泣いてた、って言ってたよね」
うん、とチルーは頷くが、自信がなくなってきた。別人だったかもしれない。
「きっと悲しいことがあったんだね。どうしたんだろうね」
イースラが高い声で言った。チルーはどう返事をしようか迷った。イースラは、普段から仲良くしている同級生ではない。寮でも二人で話したことはない。
だが、言ってみることにした。
「寮母さんね、北部戦線に養子が配属されたって言ってたよ。聖教軍に入ってたんだって」
「ふぅん」どうでもよさそうにイースラは呟いた。「死んじゃったのかな……」
もう何分、都市の迷宮を歩き続けているのかチルーは気になった。授業はあとどれくらいで終わるだろう。
北の戦線がどうなっているのかなどチルーは知らなかった。学園は、生きている人間との戦いには関与しないのだ。そうした出来事に関して、生徒たちに何も教えないし、生徒たちも敢えて自ら知ろうとしなかった。生徒たちに教えようとする人もいない。
学園は、学生たちが外の世界と関わり合うのを嫌う。家族であっても、学園を卒業するまでは、手紙のやり取りさえ許さないほどだ。
後ろでチャイムが鳴った。六限が終わったのだ。振り向き、時計台を仰ぎ見た。青空に文字盤が掲げられていた。学園の女子部と男子部を隔てる壁が、時計台を貫通していた。
チルーはときどき、自分がこの街で何をしているのかわからず、不思議な気持ちになる。どういう経緯で学園に来たのか、何歳からレライヤの都にいるのか、チルーは知らない。両親は、チルーを学園に売ったのだろうかと思う。そういう話はたまに聞こえてくる。学園が、生徒たちの親にお金を渡したというような話は。そうした生徒たちは、二十二階梯を修了しても、どこにも帰る場所がないという。
一方で、二代続けて『学園』で育ったという人もいる。リリスがそうで、彼女の父親は有名な死者狩りの英雄だ。
「生きてる人間との戦争だって、やっぱり学園とは無関係じゃないよ」
そのリリスは、紙袋に手を突っ込んで次のロールパンを取り出しながら、イースラに語っていた。
「戦争でたくさん死者が出ると、死者たちは巡礼団を結成して街に帰ってくる。そうすると、死者たちと戦えるのは学園が育てた『言葉つかい』だけだ。君は戦えるのかい?」
「やだぁ、死者に連れて行かれちゃうよ」
リリスは乾いた声で笑った。
「大丈夫。死者は『死にたい』って思ってる人しか連れて行かないんだ」
何がおかいのか、あははー、とイースラは笑った。
前を歩く二人が足を止めたので、チルーも立ち止まった。
二人の肩越しに窺えば、市電広場は混乱の直前の熱に冒されていた。
昼間から泥酔した労働者が、陸橋にもたれかかって眠りこけていた。垢にまみれた脱走兵の群れが、伸び放題の髭と髪の中で、飢えた目をらんらんと輝かせてうろつき回っていた。石畳には、昨夜の雨で濡れたビラが貼り付いていた。『抵抗者の教会』の煽動者が喚き、公教会を中傷している。太った将校が近付いていくと、群衆はサッと道を開けた。兵士たちが煽動者を殴る光景を、再び群衆が隠した。
一人の労働者が、風に煽られる新聞紙を拾い上げ、目を通した。たちまち憤激した様子で石畳に叩きつけると、痰を吐いた。痩せた鶏を抱いた女が、チルーの前を通り過ぎていった。群衆の上にかかる、壁を
リリスが振り向く。
「帰ろっか」
学校に帰るのかと思ったが、こう付け足した。
「リラおばさんも戻ってるかもしれないし」
寮に帰るつもりなのだ。
リリスの顔に影が落ちた。
雲ではない。
これまでに、人生で二度経験したことがある
音楽が聞こえてくる。低く唸る祈りの旋律。
リリスも、群衆も遠くなっていく。濃くなる影に溶け去って、みんな消えてしまう。
微かに見えるリリスの笑み。
「リリス」
手を伸ばす。
「来る、死者……」
暗黒となった。
「……死」